ちょっと発表



2011.10.04    山崎 泰

「私と日本橋」

 私と日本橋の関係は、今年が20代目の現在の日本橋が架橋100周年を迎えたことと、新入会社及び二度目の会社共々、本社所在地が日本橋小伝馬町と日本橋小舟町にあり、その上日本橋の真上の不評極まりない首都高速高架橋を入社当時の当社が架橋したものでが、言い訳と自慢になりますが、当時の架橋技術で、他社が匙を投げたといわれるくらいの架設難工事であり、興味のある方は見ていただきたいのですが、青銅麒麟柱と高架橋桁との隙間が数センチしか無いことがお解かりと思います。
 いまひとつは、リタイヤした現在も月に一度以前から通っている日本橋交差点のビルの診療所に、私にとっての名医との会話の楽しみと、診療後の月一の都会の空気を吸うべく見たり、食べたりの歩き回りを楽しんでおります。
 明治11年に制定された東京15区であったが、昭和27年の区画整理により旧京橋区と旧日本橋区が合併されて現在の中央区となったが、当時の日本橋区が合併に反対で会ったが、町名に「日本橋」の冠称を付けることで了解したが、その後昭和45年の区画整理により、新たに命名された日本橋1~3丁目、東日本橋1~3丁目、八重洲1丁目(八重洲2丁目は旧京橋区)の7町名に冠が付いておりません。
 前ぶりが長くなりましたが、基本的に旧「日本橋区」の話しをこれからも時々発表させてもらうかも知れませんので、よろしく。
 今回の話はこの八重洲1丁目についてのことですが、八重洲1丁目になる前は、上槙町、檜物町、数奇屋町、元大工町、呉服町、西河岸町の6町からなっており、その中の檜物町(ひものちょう)のことですが、なんと当時のこの界隈は日本でも3本の指に入る一流の花柳界であり、料亭5軒、待合茶屋60~70軒、置屋30~40軒があり、芸者にいたっては400~500人というから驚きであり、兜町や木場、日本橋界隈の商店の旦那衆、文士、政界・財界の大物がひいき客であり、若者などは全く見かけることは無かったとのこと。
 かの花柳章太郎や喜多村緑郎、伊志井寛、水谷八重子などを輩出した「新派」の代表作である戯曲「日本橋」の作者、泉鏡花もこの花街をこよなく愛し、戯曲「日本橋」もこの街を舞台に描かれたもので、「日本橋」の千秋楽ともなると、旦那衆と芸者衆で賑わったとのことです。
 東京駅八重洲口の対面の「みずほ銀行」の裏辺りに位置し、現在もその名残として当時からの「矢満登」と「磯村」の2軒の料亭が頑張っております。
 



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