ちょっと発表



                                     2015.03.22  山崎 泰
日本橋の七福神めぐり

 七福神とは

 七福神とは、大黒天、恵比寿天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋孫尊であり、それぞれの神様が、「七難即滅、七福即生」の説によって七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かるとされ、当時の庶民性に合致した民間信仰の完全な形となり信仰として成長し、現在に生き続けているのだといわれている。
 七福神は現在でも観光やパワースポットとして、日本国内には各所に数多くありますが、歴史・由来については諸説あるが、最初は最澄が比叡山でインドのヒンドゥー教の神である大黒を台所の神として祀ることを始めたことが、徐々に民間に広まり、日本の土着信仰の神である恵比寿と一緒に信仰されるようになり、平安時代以降に京都の鞍馬の毘沙門信仰から始まった毘沙門天を加え、三神として信仰されることが後々まで一般的であったが、平安末期から鎌倉初期には、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになり、毘沙門天ではなく「大黒、恵比寿、弁財天」の組み合わせが長く続いていた。
 室町時代に入って、仏教の布袋や道教の福禄寿・寿老人などが中国から入ってきて、それぞれが知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏が出来たのが室町時代の末期頃で、近畿地方から始まり、この頃は銀閣寺に代表される東山文化と中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれるようになり「竹林七賢図」の画材がもてはやされ、この絵に見立てて、人々が別々に信仰していた七つの福の神をまとめて七福神としたが、当初は完全に固定されていたわけでなく、江戸時代になってほぼ現在の形になった。
 全国各地の札所は先に述べたように多数存在するが、東京でも日本橋七福神を始め、谷中、雑司ヶ谷、亀戸、深川、浅草、隅田川、など三多摩、伊豆七島を含めると35の札所があり、全国でも代表的なものでは、東北では奥州仙台七福神、関東では足利、鎌倉江の島、小江戸川越など10か所、中部では信州、善光寺、三河、近江など8か所、関西では淡路島、伊勢、清水寺、など6か所、四国では阿波、伊予、徳島など4か所、九州の日向の国七福神霊場があり、台湾にも台湾七福神があり、勿論中国にも八仙(八福神)と言われ、全てが実在の人物であった。  それではそれぞれの神様に面接をしてみることにします。


「大黒天」
 インドのヒンドゥー教のシバ神(大自在天)の化身マハーカーラ神で、日本古来の大国主命と神仏習合し、一度仏となったが、人々に福徳を授けるために再びこの世に現れ、大黒柱と言われるように大地(農業)を掌握する神様で、大きな袋を背負い、打出小槌を持ち頭巾をかぶり、食物、財宝、福徳開運を司る神様である。

「恵比寿天」
 イザナミ・イザナギの間の第二子に生まれ、三歳になっても歩かないので舟に乗せられ捨てられ、浜に漂着してそこの人々によって手厚く祀られ、左手に鯛を持ち右手に釣竿を持ち、「大漁追福」の漁業の神で、時代と共に福の神として商売繁盛・五穀豊穣の神となったが、七福神の中で唯一の日本の神である。

「毘沙門天」
 インドのヒンドゥー教のクベーラ神で、唯一の武将姿の戦いの神で、仏教に取り入られてから、右手に宝棒、左手に宝塔を持ち、足の下に邪鬼天を踏みつけており、融通招福・福徳増進の神として民衆に信仰されており、別名「多聞天」とも言われる。

「福禄寿」
 中国の宗の時代の道教の神で南極星の化身の南極老人で、幸福の福、身分を表す禄、寿命の寿の三文字からなり、道教の長寿神で、長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶを持ち年齢は千歳と言われ、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を付けた杖を持ち、招徳人望の神で長寿・福禄をもたらす。寿老人と同一神とされることもある。

「寿老人」
 寿老人は福禄寿と同じく道教の神の南極星の化身の南極老人で、日本の七福神では白鬚明神ともいわれ、にこやかな微笑をたたえ、左手に巻物を付けた杖と右手には団扇や桃など持ち鹿を従えており、団扇は難を払い、桃も鹿も長寿の象徴であり、長寿延命・富貴長寿の神とされる。

「布袋尊」
 唐の末期の明州に実在した仏教の禅僧と言われ、弥勒菩薩の化身とも言われ、いつも笑顔を絶やさず人々に接し、大きな袋には宝物がいっぱい入っており、信仰の厚い人々に与えたと言われ、笑門来福・夫婦円満・子宝の神として信仰が厚い。


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 ここから日本橋七福神めぐりガイドや境内掲示などにより、日本橋の七福神を紹介いたします。
先に述べたように江戸時代になって現在の形がまとまったとあるが、太田濁山人ら文人墨客が、向島の百花園を中心にして七福神を祀る社寺を作り、正月にそれを巡るようにしたことにあったというが、日本橋の七福神の特徴は先に述べた東京の七福神の中でも殆どが寺社の混合だが、寺だけの構成が谷中のみで、神社のみは千住と日本橋だけであるが、その上に日本橋は弁財天と恵比寿天がそれぞれ祀られている神社があり八社九神となっておりその分御利益が多いとされている。

 巡排の順序は自由ですが私が選んだのは、これから紹介する神社の中で最も知られている水天宮からスタートすることといたします。


① 「水天宮」(弁財天)                日本橋蠣殻町2-4-1 (仮社)日本橋浜町2-30-3
 地下鉄半蔵門線の水天宮駅の目の前であり、浅草線と日比谷線の人形町駅からも5分ほどのところにあるが、現在は改装中であり、仮社は甘酒横丁通りと清洲橋通りの交差点の明治座の近くにあるが、あくまでも元の位置からのスタート案内といたしますのでご了解下さい。
久留米市の水天宮は久留米藩歴代藩主有馬家により崇敬されていたが、文政元年(1819年)9月に九代藩主有馬頼徳公が江戸三田の久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し、一般庶民の参拝が難しかったが、幕府に一般参拝の司書を提出したが、幕府はこれには関与しないとの見聞を得たので毎月5の日に一般開放され、その人気は“情け有馬の水天宮”と言われ、財政難になっていた久留米藩には、賽銭や奉納物、御札の売り上げにより“水天宮金”と言われ貴重な副収入であった。
明治4年(1871年)に有馬家屋敷の移転と共に赤坂に遷座し、翌明治5年(1872年)に有馬家中屋敷のあった現在の蠣殻町二丁目に移転した。
有馬頼徳が加賀の前田公と芸を競った際に弁財天に願をかけて勝ったという伝説から、技芸上達・福徳自在の御利益があるといわれ、安産小授けの神として厚い信仰を集めている。
建設中の新社殿は平成28年に完成予定とのこと。 水天宮の前の新大橋通りの重盛永信堂側を清洲大橋通り方向に2つ目の角を左折すると直ぐに松島神社がある。


② 「松島神社」(大黒天)                     日本橋人形町2-15-2(松島ビル)
 創建年代は不明であるが、口伝によると鎌倉時代の元亨(1324年)以前に、このあたりは入海であったころ小島があり、下総の国から柴田家の祖先が小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられ、正中元年(1324年)3月2日夜に三男柴田権太に百難救助すべしとの神示があり、多くの人々が信仰し、これにより正一位稲荷大明神を奉ぜられた。
天正13年(1585年)に住民の希望により、邸内を公開して参拝の自由を許可し、島内に松樹の繁茂する中に鎮座することで、松島稲荷大明神と唱えられた。
同社は俗に“人形町お酉様”とも言われ、毎年11月酉の日には酉の市で賑わったが、最近は昔の賑わいは見られないとのことだが、お正月には小さな破魔矢が付いたおみくじや招福の縁起物で人気です。
昭和8年の都市計画までは松島町と言われていた。
大黒天は愛嬌のある福徳相が多く、五穀豊穣・開運招福を司ることから庶民的な神様として愛されている。 松島神社の道を人形町方向に進み、甘酒横丁を通り越して4つ目の路地を右折すると末廣神社に着く。


③ 「末廣神社」(毘沙門天)                          日本橋人形町2-25-2
 江戸時代の初期に吉原(当所葦原と称した)がこの地にあった当時(元和3年から明暦3年まで)その地主神、産土神として400年以上前から信仰を集める末廣神社であり、明暦の大火で吉原が移転してからはその跡地の難波長、住吉町、高砂町、新泉町の四町の氏神として祀られている毘沙門天は、勝運除災の神として知られる一方で、左手に持つ宝塔により、限りない財宝を与える営業繁栄の神として広く崇められている。
社号の起源は延宝3年(1675年)本殿修復の際、年経た中啓(末廣扇)が発見され、氏子たちが悦び祝って「末廣」の二字を冠したものである。 末廣神社の前の道を清洲橋通りに向かい、清洲橋通りの一本手前の路地を左折して一本目の路地の角に笠間稲荷神社がある。


④ 「笠間稲荷神社」(寿老人)                         日本橋浜町2-11-6
 胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)とも言われ、日本三大稲荷のひとつである、茨城県笠間市にある笠間稲荷神社の東京別社として、安政6年に牧野越中守貞直公が、浜町の自邸内に分祀したものが当社の起立であり、明治6年に現在地に遷座し、明治11年に官許を得て公衆の参拝を許した公認神社として独立した。
祭神は全ての食物を司る宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、昭和51年(1976)に末社に祀られた寿老人は、長寿延命、人々の運命を導く神として親しまれている。
例祭は11月15日、と初午祭、追難祭、節分祭があり、建物は本殿一坪、拝殿五坪、社務所十五坪である。
胡桃下稲荷とは大昔、茨城の笠間神社の地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまが祀られていたことからと言われ、別名“紋三郎稲荷”とも呼ばれているが、第13代藩主井上正賢公の一族に門三郎という人がおり、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから“お稲荷様の門三郎”との名声を博し、いつしか門が紋に変わり“紋三郎稲荷”になった。 笠間稲荷神社を左に対面には久松警察署のある通称金座通り左折して、人形町通りに出て交差点を渡り右折し、小伝馬町方面に向かい堀留町2丁目の交差点を越して一本目の外与ビル手前の細い路地を左折すると、以前「私と日本橋」で紹介した冨塚碑のある椙森神社(すぎのもりじんじゃ)に着く。


⑤ 「椙森神社」(恵比寿天)                          日本橋堀留町1-10-2
 以前紹介したように江戸時代、柳森、烏森と共に江戸神社三森の一つに数えられ、椙森稲荷とも呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。
創建は社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所と言われ、室町の中期に江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために、山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した。
しばしば江戸城下の火災で寺社が焼失し、その再建の費用捻出のために有力寺社に人々が参集することから、富興業が催され、当社も富興業が行われた。
富興業をしのんで大正8年に富塚の碑が建てられ、商売繁盛・交通安全の御利益あり。
社宝として俵籐太寄進の聖徳太子作と称される白銀狐像一寸八分、俵共の二寸五分の物がある。 椙森神社の前の道を江戸通りに向かって大伝馬本町通りを漉し、次の路地を左折して2本目の角に以前“べったら市”で紹介した寶田恵比寿神社に着く。


⑥ 「寶田恵比寿神社」(恵比寿天)                      日本橋本町3-10-11
 寶田神社は慶長11年の昔360余年前、江戸城外寶田村の鎮守様であり、徳川家康が江戸城拡張により寶田、祝田、千代田の三ケ村の転居を命ぜられ、馬込勘解由という人が寶田村の鎮守様の奉安と住民を引率してこの地に集団移住した。
馬勘解由は家康が入府の時に三河国から随行してきたが、この大業を成し遂げられた功に依り、徳川家康繁栄祈念の恵比寿様を授け賜り、寶田神社の御神体として今日に至り、作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられている。
その後村民の生活は、金銀為替、駅伝、水陸運輸の役を賜り、馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役となり、大伝馬町の町名を賜り、大江戸開発と商売発祥の地として大変賑わった。
寶田恵比寿神社は、商売繁盛・家族繁栄・火防の守護神として、参拝者は広く関東一円におよび、毎年10月19・20日に開催される“べったら市”では、恵比寿講(商家で恵比寿をまつり、親類・知人を招いて祝う行事)にお供えするべったら漬の露店が並ぶなど、商家とは深い縁がある。 寶田恵比寿神社の角を左方向に昭和通りに平行して南東に500m程の金座通りに戻り、それを越して道路の左側を3つ目の路地(100m程)を左折すると小網神社に着く。


⑦ 「小網神社」(福禄寿・弁財天)                     日本橋小網町16-23
 今からおよそ千年前に武蔵国豊島郡入江のあたりに、万福庵という観世音と弁財天を安置する庵があり、恵心僧都の開基とされ、観世音と弁財天も僧都の作と言われている。
文政元年(1466年)にこの庵の周辺で悪疫が流行し、そんな中、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間この庵で過ごしたが、ある夜庵の開基の僧都がその時の庵主の夢枕にたち、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅すること告げ、網師を小網大明神と称え、神社を創建して日夜祈願すると村の悪疫は鎮まり、村人は喜んだといわれ、太田道灌もこの神徳を聞き、当社を詣でて、この土地を寄付し、小網山稲荷院万福寺と名付け、慶長年間にはこの周辺を小網町と名付けられ、当神を崇めました。明治維新後の神仏分離令により小網稲荷神社となり、戦後宗教法人化により“小網神社”となり、昭和4年に造営された向拝に施された“昇り龍”と“降り龍”の彫刻は見事なものと言われている。
日本橋七福神の事務局でもあり、強運厄除の総本社として知られ、5月の大祭では東部有数の神社大神輿で賑わい(5年毎)、11月には奇祭として有名な“どぶろく祭”があり、御利益としては強運厄除・財運向上・病気平癒・健康長寿である。 小網神社を元の大通りに出て、左側の次の通り(甘酒横丁通りの延伸の道)を左折して人形町駅方向に向かい、前に紹介した“魚久イートンあじみせ”や“小春軒”を通り越して、“玉ひで”の手前の路地を右折して、新大橋通りに向かい1本手前の角に茶ノ木神社がある。


⑧ 「茶ノ木神社」(布袋尊)                         日本橋人形町1-12-10
 徳川時代に下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷で3,000坪もある土地に守護神として祀られ、社の周囲にめぐらされたど土堤芝の上に茶の木がぐるりと植え込まれ、茶の木の緑が見事であり、中屋敷は勿論のこと周囲の町にも永年火災がおこらなかったため、いつの頃からか“火伏の神”と崇められ、堀田家は年一回初午祭の当日だけ一般庶民の参拝を自由にされたことで、“お茶の木様”の愛称で町の評判となった。
昭和60年に布袋孫をご遷座し、日本橋七福神詣りに加わった。 毎年5月、八十八夜にあたる日には新茶を祝う“献茶祭”がひらかれ、御利益は未来予知・金運とのことです。


 日本橋の七福神は以上のように八社九神の御利益があり、興味のある方は「私と日本橋」で紹介した暖簾を覗きながらの参拝はいかがですか。


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