ちょっと発表



                                     2015.09.18  山崎 泰
   紀元2600年  - その1 -

 我々が生を受けたのが、紀元2600年、西暦1940年、昭和15年である。
75歳、後期高齢者の仲間入りとなり、年金制度の改革変更、健康保険証の変更、自動車免許更新の方法の変更等、政治も何やら波穏やかならず、色々な事が変わってきており変化の歳でもあるが、我々が生まれてからの政治、経済、教育、文化、生活の歴史が、現代とはどんな違いが起こっていたのか、皆さんも色々数奇な人生を過ごされて来られこととお察ししますが、小生なりに一度振り返ってみたくなりましたので興味のある方は覗き見をしてください。

   同年生まれの有名人

 先ずは、我々と同年に生まれた有名人にはどんな人物が居たのか、私なりにピックアップしてみましたが、興味のある方は名前を追ってみてください。 順不同で名前だけ羅列してみると、津川雅彦、竜雷太、デビイ夫人、唐十郎、小野ヤスシ、中村敦夫、稲垣美穂子、磯村みどり、原田芳雄、鳥越俊太郎、上条恒彦、大空真弓、板東英二、王貞治、立花隆、張本勲、浅丘ルリ子、ジェリー藤尾、金井清一、古賀誠、麻生太郎、大鵬幸吉、篠山紀信、円谷幸吉、黒沼ユリ子、藤猛、土居まさる、田中秀征、露木茂、ジャックニクラウス、スーザンクラーク、アルパチーノ、アンナカリーナ、ブライアン・デ・パルマ、ジョンレノン、リンゴスター、ブルースリー、ペレ、キャサリンロス、クリフリチャード等がいる。

   宣戦なき戦争

 まず我々には記憶に無いが、生まれた年は紀元2600年の祝賀行事で湧き上がり、日本中で提灯行列が行われていたといわれており、当時の世情では国威発揚の一端の動きであったようで、明治維新以来の富国強兵の流れから、日清、日露、満州事変と軍国の垢が残っていて、政治に対しても、5・15事件(昭和7年)や2・26事件(昭和11年)に見られるように軍部に主導権を握られていたが、満州事変は一応終止符を打っていた。
 昭和11年3月に中国政府の諒解無く北支駐屯軍の増員を行ったことにより、駐屯地近くの盧溝橋付近の演習中に中国軍側から発砲があり、盧溝橋事件が起こり、俗に言われる“宣戦なき戦争”の支那事変に突入していき、当初日本軍は本格的な戦争に入る気はなく、中国軍もすぐに謝罪するであろうと考えていたが、蒋介石の後ろ盾に米国や英国がおり、蒋介石の中国軍に予想外に苦戦を強いられ、当時日本は北支に関東軍の精鋭を置いていたように、ソ連が一番の脅威に思っており、中国との争いは長引かせたくなかった。 国内は経済統制が始まり、国家総動員法が成立し、軍備予算とインフレとなり、“贅沢は敵だ”の時代に入っていく。

   新体制運動

 政治では、それまでトップが軍民入れ代わり立ち代わりや、離合集散の政党等、確率された内閣の存在は無かった時に、“革新”への期待感をもたせた「新体制運動」を旗印に、昭和15年7月に近衛を再度擁立させ、第二次近衛内閣を成立させた。
そんな時代の混沌さを、“紀元2600年”を利用して国威発揚を盛り立てたのである。
この様な世情の中での「新体制運動」によって、その後の日本近代史にも影響を与えたことなので、細かく記してみると、お題目として“軍部の戦争路線を牽制し、近代的・合理的な社会体制を建設する道をつくる”であり、体制案には、「大東亜共栄圏の名のもとで各民族の自主と共同をうたい、国内的には、新しい国民組織の形成、統治機構の合理化、財閥独占体制の是正、教育行政の改革」など、革新的プランを多く盛り込んでいた。 基本的には既成政党とは異なった強力な国民組織を作り、その力を背景に軍部の力をそぎ、各政党もそれぞれの思惑を抱きつつ、国民も混迷からの脱出を求め、新体制運動に集中し、唯一の活路であるごとき幻想が日本国内に曼えいし、軍部に追随・迎合し、拡大してきた政党も、新体制の“バスに乗り遅れるな”と雪崩をうったように解党し、憲政史上初めての無党状態となり、バスに乗り遅れまいととびだしたが、乗り込むべきバスが何処にも見当たらず、自ら軍国主義・国家主義へと集団的に乗り換えて、政党政治に幕を閉じていった。

   三国同盟

 一方、ヨーロッパでは1938年(昭和13年)にドイツがオーストリア、チェコスロバキヤの併合をし、ポーランドに侵攻することで、1939年(昭和14年)9月3日に英仏がドイツに宣戦布告をし、第二次世界大戦が勃発した。
1940年(昭和15年)4月に開始された電撃作戦で、ドイツは西ヨーロッパ各国を次々にくだし、6月にはフランスをも降伏させ、連日ロンドン猛爆を行い一気に英本土に上陸しようとの勢いであった。
このような情勢から、日本も世界の“バスに乗り遅れるな”というムードが陸軍や一部指導者に高まり、独伊との提携が主張され、陸軍だけでなく、外務省、政界、言論界にも親独論が高まり、ついでにドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んでいることからソ連とも提携したいとの思いもあった。
1940年(昭和15年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの3国同盟が結ばれ、それぞれの国には各々の思惑があったが、その条約内容を要約してみると、①この条約により、日本はヨーロッパにおける新秩序建設についての独伊の指導的地位を認め、かつこれを尊重し、②独伊は大東亜における新秩序建設についての日本の指導的地位を認め、かつこれを尊重し、③そのための三国の相互協力と、さらに、締結国のいずれかの一国が、現にヨーロッパ戦争または日華紛争に参加していない一国(アメリカを指す)により攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的、経済的、軍事的方法により相互に援助することとし、④その実施のために混合専門委員会を開催することとした。⑤また三国は前記の諸条項が各条約国とソ連とのあいだに現存する政治的状態には影響を及ばさないことを確認し、⑥有効期限は10年とする。さらに付属の交換公文で、ドイツは日ソ国交調整のために周旋することを約す。 ここで読み取れるように、米国を参戦させないようにするには、三国の団結と決意が重要であり、米国もうかつには動けないだろうと、(ドイツはヨーロッパ戦線に、日本は日華紛争に米国の参戦はのぞまず)お互いに利用しており、日本はソ連の侵攻にドイツを通して不可侵条約を結びたい思惑があった。

   日ソ中立条約

 現実にはすでに独ソ関係はおかしくなっており、日ソの有効条約への助力はできず、日本としては1941年(昭和16年)4月13日にドイツに関係なく、相互の領土保全および不侵略の尊重と、外蒙古と満州の領土保全の共同宣言があり、有効期限5年の“日ソ中立条約”を調印し、ドイツは不快であった。 御存じのように、この条約は簡単に破られてしまったことである。

   ABCD包囲網

 米国は三国同盟に対して一層の不快感を増幅し、ましてや日本に対しては日華事変のために、1938年9月に国際連盟総会の対日経済制裁があり、1939年には日米通商航海条約の破棄を通告されていたが、ABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中国、オランダの包囲網で、日本のマスコミが作った言葉)の結びつきが強くなり、日本からは対日包囲網に受け取られ、より厳しい経済制裁が科され、特に石油の全面禁輸がなされていた。
これらの裏には、英米も中国の植民地化を目論んでおり、日本一国の植民地化は絶対許せず、仏蘭は今までの自分たちの植民地を盗られてはたまらず、反発は強くなっていた。
昭和16年(1941年)7月18日に第三次近衛内閣が成立し、三国同盟がアメリカを刺激している中で日米交渉も難航しており、新内閣の課題は日米交渉の促進であったが、しかし軍部から突き上げられ、アメリカからは追い打ちをかけられ、対米戦争か否かの問題が極度に煮詰まってきた。
昭和16年の日本の現状は、石油の備蓄量は2年分しか無く、戦争ともなれば1.5年分しか無いことは内閣も知っており、その他の物資も逼迫しており、なんとしても仏印の石油を手にしたく、一方アメリカとは戦争はしたくなく、一刻も早く日米交渉を開催し経済制裁をといてもらいたいが、アメリカは日本の中国からの撤兵と仏印侵攻の停止を強く要求しており、交渉はなかなか纏まらず、近衛首相はルーズベルト大統領と直接交渉を働きかけていた。 一方、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、その間も日米交渉は続けられていたが、当時の松岡外相は以前よりドイツ信奉者であったこともあり、アメリカの条件にことごとくイチャモンを付けたり、ドイツと共にソ連を攻撃することも提言していたが、収拾がつかず、ついに第三次近衛内閣は総辞職し、東条内閣が成立する。

   太平洋開戦


 この時勢での我が家の行動は、父は今の東京電力の前身の関東配電の前の富士電力に勤めており、当時すでに開戦を察知し、当時の甲種上級職(現在の国家公務員資格)を取得していたため、そのうえ私が生まれたばかりでもあったので、出来るだけ召集を遅らせてもらうことも考えて、昭和16年4月に帝室林野局(現在の林野庁)に転職し、天皇の林野(現在の国有林)を守る職であったが、召集は昭和19年末の37歳であり、当時富士電力の月給は68円であったが帝室林野局は38円で、母親は全く困ったようであるが、父の配属部隊は600名の部隊であったが残務整理のため7名が残された一人で、7名以外の方々は輸送船への魚雷攻撃で全員戦死とのことでしたが、今思うに転職して3年半の父の判断が良かったのかどうかは考えさせられる。
それ以前の軍部主導の閣議で、次のような決定事項が大勢であり、“南方施策促進に関する南部仏印進駐方針を決定し、それに備えて対英米戦に準備し、対英米戦も辞せず、対ソ戦には即時参戦でなく、時期がくれば参戦する”とあり、昭和16年11月5日の「帝国国策遂行要領」では、
 ⒈ 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際対米英蘭戦争を決   意し、次の措置を採る

 ① 武力の発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す
 ② 対米交渉は別紙要領に依り之を行う
 ③ 独伊との提携強化を図る
 ④ 武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す

 ⒉ 対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば、武力発動を中止す とあり、初めから交渉は二の次で不可   能と踏んでいたことがうかがえる。

 昭和16年12月1日の御前会議にて、「11月5日決定の“帝国国策遂行要領” に基く対米交渉は遂に成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦す」と決定したのであった。
 12月8日に予定どおり決行せよと発信したが、アメリカのハル国務長官のハル・ノートや回想録によると、日米交渉の打電内容や日本軍の発信内容は、全て解読され、手のうちは読まれており、一説には日本の真珠湾攻撃は、アメリカ国内の反戦活動が強まっていたため、ワザとやらせ、“リメンバー・パール・ハーバー”のもと大統領と一致団結させ、開戦の口実を作ったともいわれているが、予想以上の被害にあったようである。
(現在でも、同盟国である日本に対しても、ウイキリークスに暴露されているように、全てと言ってよいほど盗聴されているといっても過言ではない。)
 同じ日に、日本が頼みとしていたドイツ軍は、モスクワを目前に猛吹雪の中で後退を開始したのであった。
真珠湾奇襲は日本にとって成功であったが、一方アメリカやイギリスの結束を強化する役割も果たしたこととなったが、これに反し、枢軸国陣営の中では軍事協定も結ばれていたにも関わらず、実際にはその後、第二次大戦中を通して、共同の戦争を遂行するための軍事協力関係は、ほとんどなかったといってよい。

 いままで述べてきたように、各国間の条約がいかに簡単に破られたり破ったりで無力なものであるか、どこかの国も少し歴史の見直しと勉強が必要かもしれないと。

   大東亜共栄圏

 日本は南方諸国と満州、外蒙古、中国、仏印、南蘭の東南アジアを含めた大東亜共栄圏を形成することをもくろんでいた。
 日本軍の南方攻略構想も壮大で、経済上の要求からジャワ、スマトラ、ボルネオ、マレー、セレベスなどの重要資源地域を確保し、戦略上の要求から米英の重要基地であるシンガポール、マニラ、香港、グアム、ウエーキなどを奪取し、長期持久作戦に役立たせることを検討していた。 マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウエールスとレパルスの二主力艦を撃沈させたことで、日本国民を狂喜させ、軍の士気も高める力になり、マレー及び香港を占領し、グアム島とウエーキ島をも占拠し、イギリスの東洋の根拠地のシンガポールも陥落させ、アメリカの根拠地のマニラも攻略し、その間、開戦よりわずか2ヶ月であり、石油資源の確保のためのジャワ、スマトラ島への攻略は3か月で完了したが、この予期以上の戦果がその後の情勢判断と誤算をまねくこととなる。


   情勢判断とその誤算                   

 日本の政府は緒戦に予期以上の成果があったとしても、早急に米英を屈服させることは期待できず、反攻の可能性もあるという立場から、再度大本営の「世界情勢判断」(昭和17年3月7日)では、米英の対枢軸大規模反攻を予想し、日本にたいしてもオーストラリア、インド洋方面より戦略要点を奪回反撃してくることを予想したが、その時期は昭和18年以降と想定した。
またイギリスの戦争遂行能力は限界で逐次低下の傾向にあるが、アメリカの軍備および軍需生産能力は、1944年末に至るあいだに飛躍的に上昇し、総合的にみて米英に長期戦能力ありとし、長期戦完遂のためには守勢的戦略態勢をとることをやむなきと予期していたのに、“既得の戦果を基礎として、不敗の戦略態勢を確立し、国防を強化し、今や攻勢的戦略態勢に転じうる気運になり、資源の確保、海上輸送、対米英物資供給遮断も計画どおり”、と楽観的な判断をくだしている。
相次ぐ戦闘の勝利と政府の意識的な世論指導によって、一般国民はますます戦意を鼓舞されたのである。
一方アメリカも1942年(昭和17年)4月18日には、日本に奇襲攻撃を仕掛けて東京、川崎、名古屋、神戸などに銃爆撃をしているが、爆撃後は中国にある米軍基地に向かっており、この奇襲攻撃での被害はたいしたことは無かったが、山本五十六連合艦隊司令長官はこの奇襲にショックを受けて、持論のアリューシャン列島からミッドウエイー諸島を結ぶ南北にわたる線上で敵機動部隊を撃滅する作戦を強く主張し、これが他の作戦に優先しておこなうこととなった。
だがアメリカ軍はすでに反攻の体制が整い、尚且つすでに日本の暗号電報の解読がなされており、その後の作戦は全て察知されており、昭和17年6月に、ミッドウエー攻略に向かう山本連合艦隊司令長官自ら指揮する連合艦隊は、戦艦「大和」「長門」など350隻と空母「鳳翔」「赤城」「加賀」など6空母、飛行機一千機、将兵10万を超える大出動であり、迎え撃つ米軍は3空母・7重巡洋艦の機動隊であったが、待ち伏せ攻撃に遭い、日本海軍は4空母・1重巡洋艦と322機の飛行機と兵員3,500名を失って惨敗となり作戦は中止となった。
ミッドウエーの敗戦にもかかわらず、まだポートモレスビーおよびソロモンの攻略をあきらめず、結局ガダルカナル島の攻防戦となり、このミッドウエーとガナルカナルの戦闘でかなりの戦力を消耗しており、制空権と制海権のほとんどを失っていたにもかかわらず、また、中国でも日本軍の自給作戦態勢から脱することが出来なく、南方作戦における戦局の敗勢によって戦力がそがれ、膠着状態であった。
そのような状況の中、昭和17年11月7日の「世界情勢判断」を次のように決定している。 「18年後期以降に反攻がますます高潮し、この間、アメリカは戦後の世界の覇者となろうとする諸方策をとるだろうと判断し、当面、南太平洋方面での反攻を重視する必要があり、さらに18年以後米英空軍による日本本土および占領地主要部にたいする空襲を企画するだろう」と予想しているが、総合判断では、「なお当分のあいだ戦勢は枢軸側に有利に進展すると予想し、1~2年のうちに万難を排して不敗の政戦態勢を確立して独伊とともにできるだけ積極的な手段を講じながら反攻に対処すれば、ついには米英の戦意を喪失させ、戦争目的を達成しうる」と判断している。


   翼賛政治                          

 大東亜戦争完遂のため、政府、軍部に全面的に協力する翼賛議会を確立し、議会勢力を再編して「政治力の結集」をはかることにあった。
それには推薦選挙を行使するために、部落会、町内会、隣保斑、退役軍人会などあらゆる組織を動員して官民一体の一大啓蒙運動を展開し、最適候補者推薦の気運を盛り上げ、政府、地方官庁と協力して民間運動を展開した。
政府が表だって、候補者を推薦するわけにはいかず、翼賛政治体制協議会(翼協)を結成して、全国に支部を作り、そこからの推薦をもとに選考のうえ決定することとなる。
非推薦候補も立候補したが、推薦候補には法定選挙費用の他に、臨時軍事費から選挙費用として法定選挙費用の3倍ほどが渡されたといい、非推薦候補には、「親英米的」「自由主義者」「非国民」「反軍思想」といったレッテルをはりつけた。
昭和17年4月30日投票日の投票所の前は長蛇の列であり、投票率は全国平均83.2%で、5年前の前回に比べ10%も上がり、当選者は推選候補者が381名、非推薦者は85名であり、政党として翼賛政治会が結成され、ほとんどの団体は解散しこれに加わったが、最後までこれに加わらなかったのは、尾崎行雄、犬養健ら6名にすぎず、反対意見は勿論意見も封じられる東条内閣の翼賛議会となった。
その結果、厳しい言論統制や、ほとんどの報道は大本営発表のごまかしであり、番組の検閲、評論家等の異端者狩り、憲兵政治による弾圧、と我々もそれなりに親や先輩に聞いていた状況であった。 反対意見や意見が通らない現在のどこぞの党が、まさか現代版翼賛会に向かっているとは思いたくありせんがね。


   落日の転機                        

 ガナルカナル島消耗戦以来、海軍と陸軍の作戦がかみ合わず、海軍はソロモン重視で海軍単独作戦が多くなり、ポートモレスビーの戦闘の成果の報告も実際の3倍にも増幅されていたにも関わらず、山本長官は喜び最前線の士気昂揚のために、ラバウルを出発して目的地上空で待ち伏せのP38戦闘機に狙われたが、山本長官の旅程も連合艦隊旗艦「武蔵」からの手配電報が解読されていた結果であり、山本長官の死によって海軍の士気はガタ落ちとなり、米軍はマッカーサー率いる陸軍とハルゼー指揮の海軍との両輪作戦により、ソロモン諸島を奪還し、比島に向かい、レーダー及び暗号解読の技術の差が歴然であった。 アッツ島玉砕、インパール作戦の失敗、マリアナ沖海戦の壊滅的打撃、サイパン島陥落、此の頃の米軍は陽動作戦を多用し、日本軍があたかも戦勝したかのように見せ、その裏をかく作戦が功を制しており、比島沖海戦も散々であり、硫黄島を攻略して日本本土爆撃の基地にするための大激戦があり、ついには一般市民を巻き込んだ沖縄のいたましい戦いであった。


   国民生活                          

 前述したように、開戦の理由の根幹に石油の供給不能をあげ、南方資源地帯を占領して、石油などを入手するのでなければ、物資の補給が不可能であるとの見通しであり、この資源略奪によってしか戦争遂行が保証されないという、極めて不安定な条件での開戦が必要とする考えが根拠でもあった。
それらには、船、飛行機(戦艦、戦闘機を含む)の増産が必要であったが、船舶保有にしても開戦時には635万トンであったが、敗戦時には153万トンとなり、軍事産業上の資源の輸送力の減退が、生産量が喪失量に到底及ばず、敗戦時の航空機の所有量は日本が11,000機であり、アメリカは20万機以上であった。
軍需産業優先のため、全国民を根こそぎ動員したため、農業が圧迫され、食生活も窮乏を着たし、配給統制により衣料をはじめ、生活必需品のすべてが切符配給制になり、昭和18年以降買いだめや売り惜しみが激しく、どんな品物でも手に入れるためには行列となった。
配給量では最低の生活もままならず、栄養不足のために、母乳の飲めない乳児や虚弱児童が増え、この時期に生まれた子供の体位は低下した。
昭和18年10月以降、学徒動員が始まり、かれらは“人生25年”というあきらめと決意とを胸に、ぞくぞくと出征していき、若き尊い命が、むなしく散って行った。
昭和19年6月の北九州にB29が20機で空襲されて以来、連日のように繰り返される本土空襲は、それ以前に空襲の場合の訓練は全く役立たず、防空壕を掘って身を守ったが、爆撃の威力が増し、防空対策の重点は退避に移り、建物、物資、人員の強制疎開となっていった。
サイパン、硫黄島からの綿密な偵察や爆撃で、軍需工場や軍事施設への正確な計画的爆撃に加え、一般民衆の戦意裳失をはかる無差別じゅうたん爆撃が広がっていった。
こうして、東京は空襲によって、関東大震災に比べ、焼失家屋と被災人口で2倍、死者で1.5倍の被害を受けて、文字通り焼野原になった。
軍民一体となって「地の利、人の和」を活かすといわれた本土決戦も、所詮、観念論にすぎなかった。 当時5歳の私は北海道旭川市の南に流れる石狩川の中州の神楽町の官舎に住んでおり、近くには三浦綾子の小説「氷点」に出てくる「見本林」があるが、20年6月にはアッツ島から飛来しての空襲があり、旭川の師団にも戦闘機が2機いたが、水平飛行になる前にグラマン4機に私の目の前で撃墜されたのを見て驚き、それから数日して、防空壕に退避していたが、外が静かになったので、我慢できなかった小便のために、外に出て小便をはじめた瞬間に戦闘機の機銃掃射に狙われ、母親に引きずり込まれたが、今でも左足ひざ裏に破片による傷痕が残っている。


   ポツダム宣言                      


 20年7月26日、米・英・華三国は、日本に無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」を発表した。それは、
 ① 日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出させた権力および勢力の永久除去
 ② 平和・安全・正義の新秩序が出来、戦争遂行能力の破砕が確認されるまで、連合国が占領する
 ③ 日本国の主権は、本州・北海道・九州および四国と連合国の指定する小島に局限される
 ④ 日本軍隊の完全武装解除
 ⑤ 戦争犯罪人の処罰と、民主主義的傾向の復活強化の障礙の除去
 ⑥ 日本経済と産業の維持の保証、再軍備産業の禁止

 などの条件をあげ、上記条件の達成された暁には、占領軍は撤退することを述べ、最後に
次のように無条件降伏か潰滅かの即時決定をせまるものである。
「ポツダム宣言」には、当初ソ連が参加しておらず、その発表後も政府はソ連に和平仲介交渉に期待をかけていたが、進展しなかった。
政府首脳部が空しくソ連からの回答を待っていた8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
ポツダム会議の最中のトルーマンのもとにも、原爆成功の報がとどき、すでに用意されていた声明を次のように述べた。
「われわれは今や、日本国内のどんな都市の機能でも、さらにあますところなく迅速かつ完全に抹殺する準備を整えつつある。われわれは日本中のドックといわず、工場といわず、交通網といわず吹き飛ばすだろうし、疑いもなく日本の戦争遂行の能力を根こそぎ粉砕するだろう」
原爆投下による混乱の最中、ソ連政府はポツダム宣言に参加し、「8月9日より同政府は日本と戦争状態にあるべき旨を宣言す」との通告であった。

8月9日、つづけざまの原爆投下とソ連参戦により局面は一変しているのに、閣議ではポツダム宣言の受諾か拒否かを決めきれず、深夜の御前会議による天皇陛下の「聖断」が下り、ポツダム宣言を受諾する。


                                      つづく

   参考文献  中央公論社 「日本の歴史」より  



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