ちょっと発表



                                     2015.10.20  山崎 泰
   紀元2600年  - その2 -

   終戦を迎えて

 世界が超大国形成の方向に分割される形勢の中、日本も“戦争により戦争を養う”超大国に発展させようとの構想から、満州に始まり太平洋戦争に至るまでの15年間の軍部支配の結果であり、また敗戦の要因も米英ソ華四国のそれぞれの思惑はあるが、反ファシズムの立場を強めることへの結合でもあった。
「ポツダム宣言」を受諾する為の条件に宣言の中にも謳われている「民主主義」の一言に、日本は天皇制の存続で民族の維持を形として受け、アメリカは“安上がりの占領”を目指して間接統治の形をとり、日本の政治機構と支配層の力を利用し、“民主化”を押し付けて政治・経済を支配し、アメリカが自分の利益のために行う民主化を、日本の民衆がどこまで自分たちのものであったのか、現在の日本の状況を映し出しているのではないかは、各人がどのように受け止めるかにかかっている。

 もう少し具体的に記述すると、8月15日に鈴木内閣は総辞職し、後継内閣には、皇族の東久邇宮稔彦になり、この内閣のとった応急処置として、敗戦混乱の治安維持と国体護持を掲げて旧秩序を維持するために治安維持法を存続させ、また占領軍の直接統治を食い止めることにあったが、当時の重光外相がマ元帥と強く交渉し、ドイツとちがって直接軍政ではなく間接統治ということになった。
占領軍は米国の任命する最高司令官の指揮下となったが、それ以前にソ連が司令官の二人制と分割統治案を提言していたが、これを拒否して米国単独占領と日本政府を通しての間接統治という占領政策の基本構造がきめられた。
 もう一つ特筆すべきことは、ダグラス・マッカーサー元帥と父親のアーサー大将の親子二代にわたって極東通であり、特に日本研究者であったことが、日本分割統治の危機に日本にとって偶然ながら幸いであった。
この占領政策の基本構造は、同時に日本国の主権の及ぶ範囲、すなわち先に述べたポツダム宣言第八項の“日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ”とあり、後日の講和会議で決定され、占領政策の基本点として、

① 米国の単独占領であること
② 日本政府を通しての間接統治であること
③ その範囲はポ宣言第八項の規定による

 などの諸項が決められたが、この占領政策の「究局ノ目的」に「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」、および「国際連合憲章ニ理想ト原則ニ示サレタル米国ノ目的ヲ支持スベキ平和的且責任アル政府ヲ究極ニ於テ樹立スルコト」とされ、米国としては実質的に独自の方針を遂行する考えであった。
これはポ宣言を忠実に履行するものではなく、直接には米国の利益のためで、連合国の合意による反ファシズムの諸原則に逸脱したものだと、内外の批判が行われたが、ここに国際的には後の米ソ二つの世界の冷戦の萌しが現れ、国内的には保守・革新の左右対立の徴候がみられる。
 敗戦を受けた日本人としては愛国心も失せ、勿論食べるべく糧もなく、働く場も失った多くの日本人は、自分自身で生きてゆくしかなく、国家からのあても無く、個人主義が横行したのも自然の成り行きで、逆に戦後の復興のエネルギーにもなっているかもしれない。

 そんな時期の私の記憶は、終戦後一か月半ほどして、先に述べたように石狩川の中州の神楽町にも進駐軍が進駐してきて、神楽町の対岸の町はアイヌ部落で有名な神居古潭のある神居村から、神楽町を通り旭川に向かっていたが、神居村と神楽町の石狩川にトラスの木橋が6連架かっていたが、神居村から3連目が戦車の加重で落橋し、その間、戦車は水中を車体全体潜って渡り、ジープなどの小型車両は大型トラック(当時は十輪と言っていた)の前後にウインチを取り付け、イカダのように浮かべて渡り、それを私は日柄眺めていたが、落橋した桁が三日目には全く同じに新しく架かったのには、5歳の私でも驚き、これでは戦争は勝てなかったな、と思わされた記憶が鮮明に残っている。

   天皇の人間宣言と憲法改正

 初期の占領政策は、非軍事化と民主化を目的とする基本方針に基付き、具体的な指令が発せられ、政治、信教並に民権の自由に対する制限の撤廃や、戦前の思想警察を撤廃し、首脳関係の罷免を要求されていた。
また幣原内閣成立後、幣原首相がマ元帥を訪問したさいに、次のような社会改革の即行を要求され、その内容は、
① 婦人参政権による日本女性の解放
② 労働組合の結成奨励
③ 学校教育の自由化
④ 秘密訊問ならびに民権を制限する制度の撤廃
⑤ 経済諸機関の民主化

 以上の五項目にわたる、いわゆる民主化五大政策と称せられるものである。
幣原内閣はこれらの指令に対し、婦人参政権では選挙法改正の具体案の結果、現行の形に決め、戦犯者指定や戦争協力者などの解決は、GHQの定めた追放令によって具体的・技術的にリストを作成するだけであり、財閥解体も15財閥のGHQの解体指令に指定されており、さほどの困難ではなかったが、前記の「民主化五要求」が抽象的であり、明治憲法にどっぷりと浸っていた日本人並びに内閣は、明治憲法にかわるべき新憲法の制定なくしては、実行に大きな限界があった。

 幣原内閣には憲法改正など全く頭には無く、選挙法の改正以外、当面の国内問題に手一杯であった。
当時、食糧対策と悪性インフレ阻止に一生懸命で、旧制度の民主化どころではなく、農村自身も食糧不足に悩んでいる状態であり、インフレ対策も「金融緊急措置令」を発し、新円切り替えをおこなったが、これも失敗し、根本的にはなんとしても生産回復による物資の供給を増加する以外になかった。
ポツダム宣言を受諾したとき、明治憲法はおのずから廃棄もしくは改正の運命にあったが、しかし終戦直後の日本の政治状況は、「国体護持」を目的とし、当面の治安維持に専念しなければならず、憲法改正の前提として、国体護持という日本政府が提示したごとく、漠然としたものではあるが、民主主義と相容れない日本人の精神状況を改めねばならず、戦時中昂揚された天皇の神格性、すなわち「現人神(あらひとがみ)」が否定されねばならない。

 それが昭和21年正月元旦に行われた天皇の人間宣言、つまり「新日本建設に関する詔書」であり、当時の連合国内部の示唆に影響されたものであることはいうまでもないが、 「朕ト爾等(なんじら)国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あらつかみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」であった。

 憲法改正のイニシアチブをとったのは言うまでもなくマ元帥であり、進駐後まもなく東久邇宮内閣の近衛国務相に憲法改正の意向を示唆し、検討していたが、その後幣原内閣となり、憲法改正にあまり乗り気でなかった幣原内閣としても検討せざるを得なくなり、近衛との間でごたごたがあり、近衛は自殺をしたが、幣原内閣の「憲法問題調査委員会」で憲法改正に関する天皇統治権の維持を含む四原則を発表したり、松本国務相の私案の内容が新聞に漏れたりして、その内容があまりにも現状維持的なのに総司令部が怒り、その間、米ソの対立によって内外の情勢が大きく変化した。

   マッカーサーの三か条

 日本の憲法改正にも直接かつ大きな影響を与えたものは、国際情勢の変化であった。
それは極東委員会および対日理事会の設置が、1945年12月16日に米英ソ三国外相モスクワ会議が開催されたときに定まり、1946年1月には米国政府はGHQに対して「日本政治組織の改革」を指示してき、1946年2月26日にはワシントンで極東委員会が開催され、極東裁判所の戦犯問題ともからみ、日本の軍国主義と明治憲法の天皇制との関係が重視され、ソ連と英国は天皇の戦争責任を主張する空気が強かったが、マ元帥としては、米国の占領統治の成功には天皇の存在は欠くことが出来なく、戦犯として処刑することがあれば、軍政を布かねばならないと感じていた。

 マ元帥は先に述べたように日本通でもあったが、着任そうそうから天皇とは幾度となく会見し、回想録にも「天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話し合った。私はいつも、占領政策の背後にあるいろいろの理由を注意深く説明したが、天皇は私が話し合ったほとんどの、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった」と、皆さんはどのように解釈されるかは別として、天皇の名は戦犯リストからはずされたが、極東委員会と米国の一部の天皇制廃止論を、憲法問題としてどう処理するかの問題がのこるが、極東委員会の来日の前に、協調外交を主眼で軍部に引退させられていた旧外交官の幣原首相と、戦場での生活で戦争の限界を経験している老将軍との劇的な会見で、憲法改正を通じて天皇制の維持と非武装問題とを関連させることに意見の一致が見られたと推定されている。

 その結果、いわゆるマッカーサー・ノートとして知られる三か条が指示され、GHQにおいて新憲法案が起草されることになった。その三か条とは、

① 天皇は国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権利は、憲法に基き行使  され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対して責任を負う。
② 国家の主権的権利としての戦争を破棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の  安全を保持するための手段としてのそれも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつ  ある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍  には決して与えられない。
③ 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上におよばない。華族  の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。予算の型は、英国制度に  倣うこと。

 この三原則にもとづくGHQの憲法草案ができあがり、日本政府に手渡された。
日本政府とGHQとのあいだに、幾度かの交渉と、若干の修正が加えられたが、4月10日の総選挙で国民の批判を待つことであったが。


   占領下における政界情勢

 新選挙法による総選挙が昭和21年4月10日に行われ、そこで新憲法草案が発表され、政党の復活や結成も行われており、共産党もはじめて合法政党として認められ、「憲法よりも食糧だ」という国民の生活難と窮乏のなか行われた選挙結果は、幣原内閣の与党たる進歩党は94議席を得たが、鳩山一郎・河野一郎の率いる自由党が140議席、社会党は92議席、協同党は14議席、共産党5議席、諸派38議席、無所属81議席で与党が第二党に落ち総辞職し、小党分立の混迷状態が出現した。

 その間、GHQも絡んだりして、連立内閣の構想も検討されていたが、突然、GHQは社会党の閣外協力による自民党の単独政権を主張していた鳩山総裁を公職追放に処し、こうした意外な状況に、幣原内閣の外相であった吉田茂が鳩山からも口説かれ、その身代わりに自由党の総裁に据え置かれ、吉田は四囲の情勢に押され引受けざるを得ず、嫌になったら何時でも逃げ出すことを鳩山に了承させてのことであった。
こうして自由・進歩両党を与党とする吉田内閣が出現し、「憲法よりめしだ」という国民の切実な要求のもと、民主憲法の制定と食糧難に悩む国民生活という、未来にかかる国家的大問題と緊急の解決を要する問題の、全く対照的な問題に当面し、象徴天皇制や第九条の戦争放棄も、基本的人権も全く問題として取り上げられなかった。

 吉田内閣がこの食糧問題を真っ先に取り上げざるを得なかったのは当然である。
終戦直後の大都市での主食の成年者への配給量は、一日297グラムで、一食茶碗一杯分しかなく、野菜や魚も配給であり、カロリー計算の合計は1、200カロリーであり、戦前の平均2、160カロリーの約半分ちょっとであった。

 配給量は徐々に増加していったが、石炭不足による輸送量の減で遅配の続出であり、主食の不足総量126万6千石に達し、総司令部と交渉の結果62万トンあまりの食糧が放出され、いちおう危機はきりぬけた。
占領当局が昭和21年11月から1年間に放出した主食や主食代替品の総量は、161万3千トンに、缶詰類4万3千トンであり、この食糧放出により、今日の日本の食品工業の発達の一因と、パン食や缶詰食品などが現代日本人の食生活を変えることにもなったと思われる。 私も昭和22年に小学校に入学したが、その頃北海道は砂糖大根が多く採れ、それから作ったショ糖が主食として配給され、その黒砂糖で、いつも自分で作ったカルメラがおやつであったことと、通学時にズックのランドセルに目一杯の黒砂糖を入れ、教科書類は風呂敷で、それに配給券を3枚母親に持たされ、途中のパン屋で黒砂糖分で丸十パン(直径12センチ位の丸いパン)を4個と、3枚の配給券で素麺3束を下校時に持ち帰るのが日課で、たまに学校で米軍拠出のジュースやヌードルやコンデンスミルクが配られ、2歳の妹のためにコンデンスミルクだけは極寒の冬でも、4キロの道をコップでこぼさないように持ち帰るように、母から言われたことを想い出しました。

   占領下の民主化

 ポツダム宣言の第十項に、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とあるが、日本国民は占領政策にはなんらの反攻もなく運命のごとく消極的に受け入れ、東久邇宮・幣原・吉田の三内閣の成立にも積極的な関心も払わなく、まして民主主義的社会構造への移行には食糧問題もあるが、それまでの国家主義や軍国主義により、上から示される倫理や道徳によって築かれる国民としての精神的基盤が出来上がっており、また封建時代に根をもち、明治時代に強化された六つの制度が障壁となっていた。

 それはすなわち、家族制度、地主制度、地方制度、官僚制度、教育制度、雇用制度とのことであり、これらは個人としての人間の自由と行動を規制して一定の枠組みの中に拘束されるものであるとされることから、これらの制度の民主化は容易ではなく、結局日本人的な基本法の憲法の改正が必要であったが、GHQに委ねられている憲法改正を待たずに、これらの制度改革に着手せねばならなかった。
真っ先に着手したのは農地改革であり、幣原内閣時代にGHQから「耕作農民がその労働の成果をうける平等の機会を保障する処置をとる」という覚書により、第一次農地改革案が成立されたが、いろいろな問題が生じ、対日理事会において米英ソの代表で議論され、それに基づいてGHQが吉田内閣に第二次農地改革にたいする勧告がなされ、第二次農地改革を成立させ、昭和22年3月より農地買収が始まり、各地の農地委員会を中心に改革が進められ、改革が一段落した30年には、純小作は28.7%から5・1%と減少し、自作が32.8%から61.9%と伸び日本の民主化の第一歩となった。

 第二には労働組合法の制定により雇用ならびに労使関係の民主化が取り上げられ、労働組合結成の保障と団体交渉権・争議権がみとめられた。
しかし労使がそれらの運用面が、不勉強であったり、問題が多々あり、これらの情勢に対処すべく、労働者の経済的地位の向上のための労働組合法、労使関係を規定する労働関係調整法、労働時間や労働条件を規定する労働基準法の労働三法の制定実施が必要であったが、これもマ元帥の指示により、いずれもGHQの指令下により行われたことはいうまでもない。

 労働組合法が制定され、民主化の波にのって国家主義のもとで抑制されていた下級公務員や従業員の反発が激化し、官公労働者の勢力が優勢なことが特徴となった。
21年の終わり頃、国鉄労働組合や全逓信従業員組合などの官公庁労働組合が中心に賃上げ等の要求のためのゼネストをきめたが、GHQの指令により阻止されてしまい、その結果23年に公務員法の改正により、ストライキ権と団体交渉権が剥奪され、その後公共企業体等労働関係法が公布され、国鉄・専売公社・電電公社の三公社と郵政・林野・印刷・造幣・アルコール専売の五現業の労働者のストライキ権がうばわれ、団体交渉権が制限された。

 第三に、地方自治法による地方制度の民主化であり、明治時代の官僚てき中央集権を改めるには、地方自治の確立が民主主義の基礎であった。
第四以下には公務員制度・家族制度・教育制度の改革は、新憲法実施以後に持ち越され、公務員制度については国家公務員法として公布され、家族制度に関しては新憲法実施に伴う改正民法の公布によって実行された。
最後に、教員の組合化や学園の民主化運動が起こっているにもかかわらず、もっとも遅れて、六三制の検討や米国の意見などの問題が多く、結局総司令部の強硬意見に押されて22年3月31日になって、教育基本法および学校教育法が公布されたが、芦田内閣のもとで教育制度の自主的運営のための教育委員会法が成立した。
このようにして、GHQの指令の下により、日本の民主化を阻む旧い諸制度の改革は推進されたが、こうした上から与えられた制度改正には実情に合わない「占領改革の行き過ぎ」として、独立恢復後、改正されたものも多く、まして占領当局の指令による上からの民主化には、その国の土壌には根を下ろさないのである。
改正学校教育法によるものなのかは定かではないが、我々が昭和22年に小学校に入学の際、私の記憶では入学のために一生懸命カタカナを勉強してきたが、いきなりひらがなに変わり、教科書も全く新しい内容になったのを、皆さん覚えておられますか。

 その間には、戦争責任と公職追放があり、戦争犯罪人の処刑と戦争協力者の公職からの追放が行われ、昭和21年1月4日の追放令が出てから極東裁判終了の昭和23年4月16日まで東条英機以下7名の絞首刑と鈴木貞一以下16名の終身禁固、その他多数の禁固者があり、公職追放はポ宣言による軍国主義勢力の一掃ではあったが、実際には米国占領政策の実施にとって好ましくない人物も、日本政府のリストに載せさせて処置したとも言われ、1、067人が追放されたが、これは中央だけであり、総司令部はさらに地方自治体や旧軍人も追放者に加えさせ、全国で数万人にのぼったといわれる。
1947年3月にトルーマン・ドクトリンと言われる「共産主義封じ込め」が発表されて、米ソの冷戦体制が本格的になり、占領政策にも転機が起こり、民主化政策は一応まとまり、重点は日本の資源および能力を利用する方向に転じてきた。

 外に目を向けると、冷戦の一端に1948年には朝鮮が南北に分断されていた。
昭和25年1月の国会において吉田首相は「終戦以来四か年有余、同情ある外援と国民の努力により、食糧事情は緩和され、生産は漸次恢復し、貿易も増進し、財政の均衡を得るとともに、インフレは終息し、今や国家復興によみがえらんとする国民の意気、旺盛なる概あるは、御同慶の至りであります」と述べたが、その直後にはGHQも「日本の工業生産が戦前の水準に達した」と発表した。
この年、我々は10歳であり、この発表の数か月後の6月25日には、我々は勿論、日本国民にはまったく思いがけない朝鮮戦争が勃発した。

 今まで述べてきた事は、我々も知らなかった戦争と国内政治と占領政策を「日本の歴史」を参考に述べてきましたが、この年は占領政策の下での民主化から自立化と日本経済の転換期とも言われています。
この前年には中華人民共和国の建国と湯川秀樹が日本人初のノーベル物理学賞を受賞したことは日本国民にどれほどの勇気を与えてくれたことでしょう。 この続きは皆さんも記憶にあることの内容になると思いますがご期待ください。
                                        つづく


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