世界が超大国形成の方向に分割される形勢の中、日本も“戦争により戦争を養う”超大国に発展させようとの構想から、満州に始まり太平洋戦争に至るまでの15年間の軍部支配の結果であり、また敗戦の要因も米英ソ華四国のそれぞれの思惑はあるが、反ファシズムの立場を強めることへの結合でもあった。
「ポツダム宣言」を受諾する為の条件に宣言の中にも謳われている「民主主義」の一言に、日本は天皇制の存続で民族の維持を形として受け、アメリカは“安上がりの占領”を目指して間接統治の形をとり、日本の政治機構と支配層の力を利用し、“民主化”を押し付けて政治・経済を支配し、アメリカが自分の利益のために行う民主化を、日本の民衆がどこまで自分たちのものであったのか、現在の日本の状況を映し出しているのではないかは、各人がどのように受け止めるかにかかっている。
もう少し具体的に記述すると、8月15日に鈴木内閣は総辞職し、後継内閣には、皇族の東久邇宮稔彦になり、この内閣のとった応急処置として、敗戦混乱の治安維持と国体護持を掲げて旧秩序を維持するために治安維持法を存続させ、また占領軍の直接統治を食い止めることにあったが、当時の重光外相がマ元帥と強く交渉し、ドイツとちがって直接軍政ではなく間接統治ということになった。
占領軍は米国の任命する最高司令官の指揮下となったが、それ以前にソ連が司令官の二人制と分割統治案を提言していたが、これを拒否して米国単独占領と日本政府を通しての間接統治という占領政策の基本構造がきめられた。
もう一つ特筆すべきことは、ダグラス・マッカーサー元帥と父親のアーサー大将の親子二代にわたって極東通であり、特に日本研究者であったことが、日本分割統治の危機に日本にとって偶然ながら幸いであった。
この占領政策の基本構造は、同時に日本国の主権の及ぶ範囲、すなわち先に述べたポツダム宣言第八項の“日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ”とあり、後日の講和会議で決定され、占領政策の基本点として、
① 米国の単独占領であること
② 日本政府を通しての間接統治であること
③ その範囲はポ宣言第八項の規定による
などの諸項が決められたが、この占領政策の「究局ノ目的」に「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」、および「国際連合憲章ニ理想ト原則ニ示サレタル米国ノ目的ヲ支持スベキ平和的且責任アル政府ヲ究極ニ於テ樹立スルコト」とされ、米国としては実質的に独自の方針を遂行する考えであった。
これはポ宣言を忠実に履行するものではなく、直接には米国の利益のためで、連合国の合意による反ファシズムの諸原則に逸脱したものだと、内外の批判が行われたが、ここに国際的には後の米ソ二つの世界の冷戦の萌しが現れ、国内的には保守・革新の左右対立の徴候がみられる。
敗戦を受けた日本人としては愛国心も失せ、勿論食べるべく糧もなく、働く場も失った多くの日本人は、自分自身で生きてゆくしかなく、国家からのあても無く、個人主義が横行したのも自然の成り行きで、逆に戦後の復興のエネルギーにもなっているかもしれない。
そんな時期の私の記憶は、終戦後一か月半ほどして、先に述べたように石狩川の中州の神楽町にも進駐軍が進駐してきて、神楽町の対岸の町はアイヌ部落で有名な神居古潭のある神居村から、神楽町を通り旭川に向かっていたが、神居村と神楽町の石狩川にトラスの木橋が6連架かっていたが、神居村から3連目が戦車の加重で落橋し、その間、戦車は水中を車体全体潜って渡り、ジープなどの小型車両は大型トラック(当時は十輪と言っていた)の前後にウインチを取り付け、イカダのように浮かべて渡り、それを私は日柄眺めていたが、落橋した桁が三日目には全く同じに新しく架かったのには、5歳の私でも驚き、これでは戦争は勝てなかったな、と思わされた記憶が鮮明に残っている。 |