ポツダム宣言に「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」とあるように、日本の占領には期限の定めがなかった。
しかし、占領後4年もたった昭和24年(1949)には、非軍事化・民主化という占領目的はほぼ達成されていたが、名目上一様は自由な責任ある政府(吉田内閣)も樹立されており、占領軍は直ちに撤退し、講和が結ばれるべきであったが、より一層の日本利用の目的もあったが、連合国間、特に冷戦状態にあった米ソ両国政府の対日講和方式の食い違いがあり、さらに先に述べように中国革命や朝鮮問題などのアジアの情勢を考えるに、アジアにおける日本の地位が重要となり、講和問題を予想より2年も遅らせてしまったのである。
そもそも対日講和問題が展開し始めたのは、戦後1年半のころであったが、占領軍の早期撤退論者であったマ元帥は、昭和22年3月には対日講和の時期はすでに到来していると声明したが、占領期間の延伸は日本人の不安と不信を招くことへの懸念と、米国の一部にある無期限占領説を打ち消すためでもあったが、万事が受け身の日本政府にも、講和の用意が出来ておらず、むしろ当時の政情から早期講和は不利と考えていたようである。
極東委員会における対日講和問題の会議で米国は米英華ソの四大国の拒否権を認めないで講和方式を提案したが、ソ連は1945年12月のモスクワ外相会議の当時から、この拒否権方式を主張していたので、当然賛同するはずがなく、この時から、すでに米ソ間の冷戦は始まっていた。
1949年9月に、トルーマン大統領がワシントンで米英外相会議を開催し、ソ連の反対と対日戦参加国の不確定な態度を承知のうえで対日講和会議の方針を議した。
講和条約にはご存知でしょうが、全面講和と単独講和があるが、米国はこのころからすでに日本の講和に対する対応の甘さを利用して単独講和を進める方針であったようであったが、日本人の中には当時の南原繁東大総長のような学者や知識人は全面講和の必要を訴えていたが、吉田首相がことごとくつぶしたのである。
この時の国際情勢をみると、アメリカはマーシャル・プランの推進、ヨーロッパは北大西洋条約機構(NATO)の構想によるソ連封じ込め政策をとっており、東南アジアに於いても、諸な計画で、冷戦の方針をほぼかためた。 こうした中で11月1日に米国務省より対日講和条約案起草準備中と発表され、この方針にもとづいて、トルーマン大統領は昭和25年の春、共和党のダレスを国務省の対日講和問題顧問に採用した。
|