ちょっと発表



                                     2015.12.11  山崎 泰
   紀元2600年  - その3 -

   冷戦下の講和独立

 ポツダム宣言に「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」とあるように、日本の占領には期限の定めがなかった。
しかし、占領後4年もたった昭和24年(1949)には、非軍事化・民主化という占領目的はほぼ達成されていたが、名目上一様は自由な責任ある政府(吉田内閣)も樹立されており、占領軍は直ちに撤退し、講和が結ばれるべきであったが、より一層の日本利用の目的もあったが、連合国間、特に冷戦状態にあった米ソ両国政府の対日講和方式の食い違いがあり、さらに先に述べように中国革命や朝鮮問題などのアジアの情勢を考えるに、アジアにおける日本の地位が重要となり、講和問題を予想より2年も遅らせてしまったのである。
 そもそも対日講和問題が展開し始めたのは、戦後1年半のころであったが、占領軍の早期撤退論者であったマ元帥は、昭和22年3月には対日講和の時期はすでに到来していると声明したが、占領期間の延伸は日本人の不安と不信を招くことへの懸念と、米国の一部にある無期限占領説を打ち消すためでもあったが、万事が受け身の日本政府にも、講和の用意が出来ておらず、むしろ当時の政情から早期講和は不利と考えていたようである。
 極東委員会における対日講和問題の会議で米国は米英華ソの四大国の拒否権を認めないで講和方式を提案したが、ソ連は1945年12月のモスクワ外相会議の当時から、この拒否権方式を主張していたので、当然賛同するはずがなく、この時から、すでに米ソ間の冷戦は始まっていた。
1949年9月に、トルーマン大統領がワシントンで米英外相会議を開催し、ソ連の反対と対日戦参加国の不確定な態度を承知のうえで対日講和会議の方針を議した。
 講和条約にはご存知でしょうが、全面講和と単独講和があるが、米国はこのころからすでに日本の講和に対する対応の甘さを利用して単独講和を進める方針であったようであったが、日本人の中には当時の南原繁東大総長のような学者や知識人は全面講和の必要を訴えていたが、吉田首相がことごとくつぶしたのである。
この時の国際情勢をみると、アメリカはマーシャル・プランの推進、ヨーロッパは北大西洋条約機構(NATO)の構想によるソ連封じ込め政策をとっており、東南アジアに於いても、諸な計画で、冷戦の方針をほぼかためた。 こうした中で11月1日に米国務省より対日講和条約案起草準備中と発表され、この方針にもとづいて、トルーマン大統領は昭和25年の春、共和党のダレスを国務省の対日講和問題顧問に採用した。

   ダレス講和外交

 ダレス顧問が特命をおびて第一回目の来日は、昭和25年6月、朝鮮戦争勃発の直前であり、その目的は日本の実情の視察と、GHQや日本政府との意見聴取とともに、朝鮮などのアジアの状況を観察することであった。
 とじまりのない日本に対する再軍備をほのめかす「とじまり論」で、日本の世論を驚かせたのもこの時のこととのことであると。
 二度目の来日は昭和26年1月であり、朝鮮戦争たけなわで、南下した北朝鮮にたいして国連軍の反撃が開始されたときであり、ダレスはソ連の態度を無視して対日講和促進の腹をきめ、日本政府と講和条件について折衝をおこなった。
 日本政府も経済団体もそれぞれ意見書を提出してダレスの対日講和の構想に賛成し、朝鮮戦争勃発後の米国の対日関心は、軍備無き日本が独立国となった後、いかに米国を指導国とする自由世界への寄与をなしえるのか、また動乱のアジアにおける軍備無き自主国家をいかに維持するか、という矛盾にみちた問題の解決方向を見出すことにあった。
 その方向とは、ダレスが日本政府との会談に際し、明らかにしたものが「講和七原則」なるものであった。
それは、①参加国の資格、②国際連合への加盟、③領域問題の処置、④独立後の日本の安全保障、⑤通商条約の締結ならびに多数国の同条約への加入、⑥日本への請求権の放棄、⑦請求権または賠償の紛争についての国際司法裁判所の処置、などの諸事項にかんするもので、日本政府が予想していたものよりはるかに寛大であった。
 これに対する日本側の要望は、①占領中の改革を平和条約で恒久化しないこと、②賠償については日本に外貨負担を課さぬため、役務賠償を原則とすること、③戦犯についてはこれ以上新たな訴追を行わないこと、などであった。
この七原則の線にそって、対日講和条約と日米安保条約の二本立てからなるサンフランシスコ体制の骨子が出来上がった。
 ダレスが三度目に来日したのは、それから三か月後の昭和26年4月16日で、たまたま朝鮮戦争に関してトルーマン大統領の方針と意見があわず、罷免されたマ元帥の離日の日であった。
マ元帥は6年もの長きにわたって滞日したが、帰国後、「老いたる軍人は死なず、ただ消えゆくのみ」という有名な言葉を残した。
 ダレス特使は、この最後の訪日の前に、フィリッピンや英連邦諸国の厳しい対日見解の調整に努め、ソ連その他の反対意見にもかかわらず対日講和条約の草案をまとめ、トルーマン大統領の賛成を得ており、吉田首相も、全面講和を非とし、単独講和を是とする意向を伝えた。 このような経過をたどって、9月4日のサンフランシスコ会議開催の運びとなり、そして今日もなお日本がその支配下から完全に脱却できないサンフランシスコ体制が成立したようである。

   朝鮮戦争勃発の影響

 対日講和の方式について、米ソ両国の根本的な対立と、英連邦諸国の懐疑的態度にもかかわらず、米国を早期講和に踏み切らせたには、南北二つの朝鮮の対立による朝鮮戦争の勃発であり、日本国内も全面講和か単独講和の議論の中、世論を単独講和に傾かせたのは朝鮮戦争とその特需ブームであったという。 昭和25年6月25日に勃発した朝鮮戦争は一時北朝鮮が釜山まで南下し、おまけに中共義勇軍(当時)の朝鮮戦争への参加もあり、日本国民の無防備への不安と、加えて特需ブームによる経済復興の促進に拍車をかけ、外国貿易も拡大する中、一刻も早く自由世界の仲間入りする講和の実現を期待させ、また日本をして東洋の「軍需工場」あるいは「兵站基地」にするために努力してきた米国の占領政策が実証されたといったら過言であろうか、いずれにしても、朝鮮戦争が対日講和の促進に向かわせ、また国連軍の朝鮮への出動を契機にマ元帥は警察予備隊を創設し、海上保安庁に八千名の増員を命じたのであり、追放解除による旧軍人が20万人もおり、明らかに日本の自衛のための処置も促進された。

   サンフランシスコ講和会議

 国際連合創立総会が開かれたと同じサンフランシスコ・オペラハウスで1951年9月4日から8日まで開かれた平和条約調印会議に、吉田首相を首席全権とし挙国一致の構成のつもりで、池田勇人蔵相、自由党の星島二郎、国民民主党の苫米地儀三、緑風会の徳川崇敬の3人と日銀総裁の一万田尚登が参加した。
参加国は52カ国、議長は米国国務長官アチソンで進められ、トルーマン大統領が開会の挨拶の中で、つぎのごとき名文句を述べたという。
 「6年前、この会議に代表を出している各国は、惨苦を極めた高価な戦争に従事していた。しかしこれらの諸国はその他の諸国と相携えて、所も同じこのホールに会合し、確固たる恒久平和への第一歩として国際連合を創立したのである。今日われわれは平和への道を更に一歩前進するため再びここにあつまった。この度のわれわれの目的は、1945年われわれが戦を交えていた国との間に講和条約を締結することにある。われわれがここに会合したのは、旧敵国を平和国家の社会に再び仲間入りさせるためなのである。」この演説の半ばに講和条約の性格と内容に触れ、「この条約は立派な条約だといって差し支えないと思う。この条約は全参加国の主な希望と究極の利益を考慮しており、勝者にとっても敗者にとっても公正な条約は実行できるものである。将来再び戦争を起こす原因となるような種は何一つ含まれていない。さらにこの条約は過去でなく将来に目を向けた和解の条約である」として最後に、当時の冷戦状態にたいする警告として「和解と理解」の促進を意味する言葉でむすんでいる。
 「われわれの前にあるこの講和条約は平和を語る以上のもの、すなわち平和のための行動を要求するものである。従ってこの会議の進行につれ、だれが平和を求め、だれが平和を阻止しようとしているか、まただれが戦争を終結しようとしており、だれが戦争を継続しようとしているかが一目ではっきりするであろう。我々はこの条約が、現在世界をおおっている緊急状態の緩和を心から望んでいる国々によって支持されるものと信じている。私は調和と理解を促進するための一段階を、われわれが一致して進めることを祈ってやまない。われわれは今講和の席につくにあたり、今後われわれの間に勝者と敗者の区別を一切なくして、お互いに平和を希求する仲間同士となるために、すべての悪意と憎しみを捨て去ろうではないか」と「勝者も敗者もない」また「和解と理解」の空気の中で会議は進んだが、ただソ連だけは北方領土問題で条約文の修正を要求した。 最後に吉田主席全権の受諾演説が行われたが、そのほとんどがソ連の修正要求のあった領土の処分問題に関するもので、日本開国の当時からの北方領土の歴史的にかんする克明な反駁的説明にもかかわらず、ついにソ連の了解はえられず、今日までも続いているのである。

   日米安保条約

 昨今、憲法改正もなんのその、日本には憲法が無いのではないかと思う人も大勢いる中で、日米安保条約が問題視されているが、ここで日米安保条約の発足時を振り返ってみることとしょう。
 当時の日本人は講和条約といえば、安保条約であると思っていた。
講和条約の中の安保条約に関する事項は、二カ条であるがその一つは、「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することが出来ることを承認する」とあり、この規定からすれば、日本の安全保障は国連憲章の枠内において考案されたものと考えられていた。
 朝鮮事変勃発の翌年にマ元帥も「国際的無法状態にたいしては、日本国憲法の理想も自己保全の原則に道を譲らねばならない。国連の枠内で力をもってすることが義務となる」と声明し、おそらくマ元帥も日本国民も、なお国連による日本の安全保障に希望をつないでいたのである。
だが、朝鮮戦争によって国連の機能がマヒ状態におかれているとき、この国連依存方針に代るべきことを考えざるをえなくなり、まして朝鮮戦争がつづくかぎり、日本は国連軍の軍事基地として守ってもらわなければならず、したがって対日講和の条件として安保条約が締結される以外に方途はなく、ダレスと吉田会談を通じて日米両政府のこうした合意がなされたといわれている。
 しかし前項の国連憲章第五十一条の規定は、他国と集団安全保障条約を締結する場合には、条約の相手国が「経済的かつ効果的な自助及び相互援助」のできるばあいにかぎるとあり、占領下の当時の日本にはまったく自助能力はもっておらず、日本の防衛と安全のためには現実的に日本に基地を置く米軍の駐屯を認める以外に方法はなかった。
 そこで二つ目に、講和条約にとくに次のごとき規定をもうけ、六条に「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本から撤退しなければならない。但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐屯又は駐留を妨げるものではない」
 この但書を受けて日米安保条約は講和条約との関連を保っている。
その理由を、安保条約はつぎのごとく積極的に述べているとのこと、それはその前文において、「暫定処置として」と規定され、特に条約の有効期限を明記しておらず、日本は「直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」とある。
 安保条約の本文そのものは五箇条からなる比較的簡単なもので、第一条に「この軍隊は、(中略)外部の国による教唆又は干渉にとって引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」と駐留軍の目的および性格を明らかにし、さらに、第三条において「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその付近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する」と、米軍の日本駐留にかんしての駐兵数、軍事基地、裁判権の帰属、課税の方法、日本側の財政負担、便益供与その他細目はそれによることとした。
 こうして、日米安保条約は講和条約と不離一体の関係で成立し、国際的には日米関係の枢軸となり、国内的にはいろいろな問題や紛糾の原因になっていることは、承知のとおりとなった。
                                        つづく


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