ちょっと発表



2011.10.23    山崎 泰

「私と日本橋 -2-」

 前回の話で肝心の「日本橋」を語らずして話が通らないことに気付き、仕切りなおしみたいになることをお許しください。
 さて、前回述べました{日本橋区}の中心はなんと言っても「日本橋」ですが、日本橋の袂にある「日本橋由来記」
を見ますとその姿がよく理解されるとおもいますので、原文を記述します。
 日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜代名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト穪シ遂ニ嬌名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十八間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋付近ハ富賈豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬦沸クカ如ク橋上貴賤ノ來往晝夜絶ス富嶽遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帯ス眞ニ上圖ノ如シ
 明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由來ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
                                     昭和十一年四月   日本橋区
 

 ここに記載されてように、架橋当時からその賑わいは別格で、「お江戸日本橋七つだち、初のぼり・・・」と歌われたように、早朝から旅立つ人や、見送り人などで賑わったという日本橋と、その下を流れる日本橋川沿いは、関東大震災まで魚河岸や米河岸などさまざまな河岸があり、舟の出入りも多く、河岸の朝はそれこそ大混雑で「河岸の喧嘩は江戸の華」と言われ「なにが三ぴん、日本差しが怖くて目刺しが食えるか」などと、まさに江戸っ子の世界であるが、午後ともなると河岸の近くの家々からは清元や三味線の音色が聞こえてきたという、粋な雰囲気の漂う日本橋界隈であったようです。
 昭和の初めの統計調査によっても、日本橋の歩行者数は断トツの東京随一とあり、まさしく歌の文句にあるように「華の都の真ん中で・・・」であったようです。
 由来記にもある五街道の起点であり、当時の里程の起点でもあった日本橋ですが、現橋の新設時も真ん中に市電の架線支柱も兼ねた「東京市道路原標」が建っていたが、市電の廃止と道路往来の危険に伴い撤去され、現在はその位置に「日本道路原標」盤が埋め込まれており、撤去された「東京市道路原標」と現在の「日本道路原標」のレプリカが並んで三越側の橋の袂に建てられております。
 ちなみに、現在の日本橋を基点とする国道は、7本(1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号)とい
われているが、性格には1号と4号に2ルートであり、他は途中まで重複扱いとなっている。
 余談ですが「日本道路原票標」は、昭和47年に当時の内閣総理大臣の佐藤栄作の筆となり、裏面には自分の名前もしっかりと刻印されているが、ほんとかどうか定かでないが、私の二度目の勤め先の当時の社長(建設省OB)
の自慢話の一つに、「自分が担当所長の時に、総理に一筆お願いすることを提言して作られた」と言っておりました。
 徳川家康が江戸幕府を開いてから、「由来記」にあるように住居区画整理が行われたり、街道や道も整理されるなか、慶長8年(1603年)に初代木橋で架けられてから現橋は20代目となり、その間、ご存知のように江戸の
大火によって10回も消失したのでした。
 明治維新になって、東京の目抜き通りの日本橋通り(現在の中央通り)に架かる「新橋}(明治4年)、「万世橋」(明治6年)、「京橋」(明治8年)、やその他の橋が石造りや錬鉄製の不燃橋に架け替えられたのに、メインの日
本橋が洋風式ではあるが木橋であり、市電の路線による傷みや、火災焼失の恐れ、日清、日露戦争後の近代国家へのアピールや、帝都の偉観、といった観念的なことも加わり、架橋計画が明治35年に始まり、明治40年に石造りの設計を完成させ、明治44年4月3日(1911年)に総御影石造りの2径間アーチ橋として完成、当時の写真
を見るに真っ白な姿を現しておりました。
 多少専門的な話しになりますが、この橋の設計、計画には当時の東京市技師長の日下部弁次郎、橋梁課長の樺島正義、主任技師の米元晋一と建築界の大御所の妻木頼黄の4人により成され、それまでの橋の機能さ中心から脱却して、アールヌーボー華やかなりし頃の影響なのか、日下部が「美」を取り入れることを考え、パリの橋を研究したりして、橋梁技術に美的感覚を取り入れるために、当時としては建築家に装飾を依頼することは画期的なことであった。
 使用された御影石は、アーチ部、躯体部や橋面部などの使用部位により、それぞれの力に耐える特徴を持つ御影石を、全国の有名産地の最高級品で造りあげている贅沢品であった。
 当時、青銅の装飾に対して色々な批判や意見が表面化したが、実際の装飾設計は妻木ではなく、有名彫刻家の朝倉文夫の実兄の渡辺長男の手によるもので、龍の頭と鹿の胴体に蝙蝠の羽と焔の尾が付いた空想上の怪獣の麒麟像と、東京市の市章を抱く獅子像が、阿吽の対を成しており、西洋的な感覚を東洋的な像や阿吽の位置に配することで、苦しげに処理したことが感じられる。
 青銅であったがために、戦争の鉄砲玉に成ることを免れたことはラッキーなことであった。
 嬌名版の文字は最近の大河ドラマに出てくる将軍様の徳川慶喜の筆によるもので、一見してみてください。 
平成11年には橋全体を重要文化財に指定されております。
 100年記念の祝賀行事の計画の一環として、昨年の7月から大改修工事が行われたり、12月には重要文化財であるがゆえの色々な問題を克服し、ドイツの清掃機器メーカーのケルヒャー社と「日本橋保存会」の共同でクリーニングプロジェクトを立ち上げ、最新機種で清掃し、見事に新設当時の花崗岩の輝きを彷彿させる白さでした。

 日本橋諸元       構造形式  石造り2径間アーチ橋      
             橋 長  49.081m
             副 員  27.272m (車道18.182m 歩道2@4.545m) 

前回紹介した花街の名残の料亭「矢満登」と「嶋村」の店先を紹介します。
 


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