ちょっと発表



                                     2016.06.10  山崎 泰
   紀元2600年  - その6 -

 前回のアチーブメント・テストに関しまして、我々の入学の翌年には無くなったのではないかと記しましたが、6組の月村さんから平成9年まで続いていたとのご指摘をいただきまして、訂正と感謝をもうしあげます。

   大衆社会の出現
 昭和31,2年頃、日本の学界やジャーナリズムで「大衆社会論」がはなやかに議論されていたようであり、既に述べたように、技術革命と消費革命を通して行われた生活革命の進展は、日本の社会構造を、戦前はもちろん戦後十年のそれからも大きく変化させた。
欧米の多くの「大衆社会論」の研究者が指摘しているように、社会的に微小に多く現れてきたと言われている。
当時の「大衆社会論」は、まず旧い権威と権力から解放された社会、または一種の「裸の社会」といえるような新しい無定型社会が出現する。
旧い家族制度・村落制度・地方制度または企業制度などが民主化と産業化の波に洗われて、従来もっていた権威・権力を多かれ少なかれ失墜した。
そのような旧制度のしがらみから解放され、裸身となった個人の自由・平等をうたう民主社会を「大衆社会」というのである。
そうした旧制度にとって代わるべき新しい、民主化され、産業化された、つまり制度改革を中心とする社会的変動は、ほぼ十年のあいだに混乱と紛糾を重ねながらも行われてきた。
しかもその進展は予想外に急テンポであった。
ところで、新しい、民主化され、産業化され、また技術化された社会を構成し、その制度を運営すべき一人々々の国民の姿はどうであろうか。
いまだ新しい権威・権力の主体ではなく、むしろ碇をきられた弧舟のごとく、また風のまにまにただよう根なし草のごときものにたとえられる。
大衆社会論者のいう原子化され、自己疎外感をもった孤独の大衆である。
そして孤独な大衆はあやつられやすい無告の民である。 それが民主化と産業化のもたらした「大衆社会」なのである。と

   大衆運動
 戦前の日本の特徴づけた国家的形態は、軍部・政党・財閥といったやや封建的なエリートに支配されており、国民的な倫理・道徳は、祖国愛という情緒を基礎として作り上げられおり、国家のみに権威を認める社会であった。
そうした国家的形態が戦後はあべこべとなったが、その中での重要な問題は、この原子化され、孤独で疎外感をもつ大衆が、いま失われている旧い共同社会に代るべきものを作り上げるまでに、いかなる行動をおこすかにあり、その一つの現れが、新しいエリートに指導される各種の大衆行動の頻発な現象であり、その中での大きな役割を発揮したのが共産党の大衆運動における宣伝・扇動であったと言われ、同時に戦後における革新的諸団体を指導する新しいエリートの出現でもあり、その中にはマス・コミの手段を通じて、新しい役割を演じた知識人の行動も見逃せないことのようである。
この新しいエリート集団と保守・官僚・大企業といった旧いエリート集団との体制・反体制闘争こそ、保守・革新という戦後の日本政治史の大きな問題が続くのである。
歴史の見どころは、いずれのエリート層が大衆社会をリードするか、また国民大衆はいずれのエリートに接近し随従するかにある。
両エリートのぶつかり合いの最初の問題は「教員の勤務評定問題」であり、昭和31年に任命制に改められた教育委員会が発足してまもなくのことで、小中学校教員に対する勤務評定を、文部官僚に指導される都道府県教育委員長協議会が、全国に採用することをきめた。
ここで問題になった勤務評定の特徴は、第一に校長が評定者となり、評定を昇格の基礎とする点である、第二に能力・適正・日常生活などを評定し、教員をAからEまでの五段階に格付けするという点であった。
このような勤務評定が、日教組を中心に全国的な闘争運動として展開したのかは、そもそも日教組と文部省との対立であり、すなわち日教組が昭和21年創立の当時から、その綱領にもあるとおり、教育の労働者としての立場から教育問題をみており、これに反して文部省は、国家の教育行政の立場から教員の権利・行動には一定の制約があるとしていることで、両者の立場が理論上は調和しうるものであるが、実際上はなかなか容易でなかった。
これに対する国民の反応は、賛否両論であったが、PTA集会や会社や街頭でも勤評問題が論じられ、国民大衆がその紛争にまきこまれていった。
国民世論の大勢は、“勤評のよしあし”は別として、まず激突を避けて話し合えというような中立的な空気であり、しかし文部省と日教組は、いずれも強硬にその立場をくずさず、とくに日教組は「国民の勤評なら受けなければならないだろうが、教育の官僚支配には絶対反対、実力でこれを阻止する」と主張していた。
勤評問題の焦点は、勤務評定が純粋に人事管理の一制度として行われるのでなく、任命制となった教育委員会が、管理職とされた各学校の校長を評定者として、教育の思想統制を行うにあると受け取られた点にあり、教員組合は、評定者としての校長を権力の手先であるとみなしており、文部省はこうした制度的方法によって日教組の政治活動を抑制したいと考えた。
このような相互不信のために、勤評闘争は泥沼のように反体制運動として展開し、文部官僚とその背後にある保守党と、他方、日教組とそれを支持する革新政党との対立であり、保守・革新の権力的対立という戦後政治史の継続なのであるといわれている。
客観的な見方として、当時の岸内閣は保守陣営の強化策として、教育制度の改革を利用して日教組また革新陣営を抑え込もうとしたのであり、他方、日教組は国民の不安をいだく安保体制打破の路線を確立するための政治闘争の意味をこめているが、国民大衆には直接どうにもならない政治状況であって、“いつまで続くぬかるみぞ”、と一般国民は嘆息するのみであったようである。
第二には「警職法」であるが、第二次岸内閣は勤評闘争にかんがみてか、また当時交渉中であった安保条約改定にたいする反対闘争に備えてか、昭和33年に、警職法(警察官職務執行法)改定案を発表し、これは治安維持を強化する目的に出たものであることは明らかである。
警官の臨検制度を復活し、また「制止」の名のもとに大衆行動を予防的に制圧するなど、憲法で認めている集会・結社の自由や団体行動を抑圧するおそれがあり、戦前の警察国家に逆戻りする可能性をはらんでおり、国会に提案された際、議長職権によって衆議院地方行政委員会に付託し、最初から国会審議の正常化を無視するやり方で強行され、国民大衆の反応は、岸内閣の反動的なやり方に反対をしめした。
現内閣も、おじいさんのやり方を見習ったのかもしれないような行動も、血は争えないのかもしれません。
しかしこの問題にあくまで強気の岸内閣は、総評その他の革新労組の闘争手段にこりていた財界の後押しもあって、抜き打ちに国会延長を強行したが、社会党の登院拒否も行われ、国会審議は停滞し、国民世論は国会正常化を要求し、会期延長を認める方向にかたむいた。
その間、自民党は警職法案を審議未了にし、社会党は会期延長を黙認するという妥協が成立し、これを反体制的革命運動に導こうとする意図は挫折し、一方反体制運動を抑圧するために国民の常識をこえた警察力の強化を意図した保守党政府の意図も、一頓挫を喫したのである。
このように勤評闘争といい、警職法問題といい、そこには大衆社会の出現時代の大衆運動の特徴を現しており、結局は旧きエリートと新しいエリートの権力闘争という形態をとり、とくに革新集団にとっては、やがてきたるべき安保反対統一行動への準備段階、または全国共闘組織へのリハーサルとなったということのようである。
第三には「三井三池の反合理化闘争」があげられるが、大衆運動が革命運動として成功するか否かは、国民各層のそれぞれを代表する社会集団の統一または共闘組織の成否にあるが、その中核的存在である労働組合の動向いかんにあるという。
昭和35年1月、三井三池炭鉱のロックアウトとこれに対抗する労組の無期限ストが行われた。
ことの起こりは前年5月に、石炭大手14社が石炭産業の不況を乗り切るために合理化を提示したことにあり、秋から年末にかけて深刻化し、とくに三井三池鉱業所の合理化問題は、労使対決の焦点として大きな国内問題となった。
会社側は12月に約1,300人の指名解雇を行い、他方、組合側は総評の総力をあげた支援のもとに、この解雇通知を返上して闘争をつづけたのである。
この争議の特徴は、会社側が単にその企業の合理化再建のために人員を減らすというのではなく、生産阻害者という名目で、特定の職場活動家役300人の排除に固執している点にあり、つまり労働組合大衆を指導するエリートと企業経営者との対決なのであって、組合大衆の自主自立が希薄であることに根本原因があったといわれている。
しかし労働組合の大衆化と、その行動を是正し秩序化してゆく過程には、こうした大争議の犠牲や第二組合の発生の代償を払わなければならなく、総評はこの争議のために、6億円余の資金と、延べ29万5000人のピケを投入し、争議の過程で第二組合が出来、新旧組合のあいだに流血事件を起こしたり、警官と衝突したりで、その都度、多くの負傷者を出した。
しかもこの争議の結末は、時の中労委会長の斡旋案を中心として解決されることになったが、この斡旋案はきわめて常識的なもので、もし労使協議制が存在していたならば、労使ともこんな犠牲や代価を支払わなくて済んだとのこと。 生産を阻害する職場活動家といい、会社側の労務政策の欠如といい、また組合指令の具体性の欠如など、すべて労働組合の大衆化とその動員性に原因するものであったといわれ、能率的な労使協議制と民主的労働組合の発達までの過渡期現象といわれる。

   学生の大衆化と全学連
 大衆社会下の大衆運動として、全学連の行動も見逃すわけにはいかなくい。
全学連(全日本学生自治会総連合)の結成されたのは昭和23年9月であり、当時、学園は戦争により荒廃し、財政の窮迫にくるしく、新しい日本を夢見ていた学生たちは、その再建・復興のためにじっとしていられず、その年の6月に、「教育復興闘争」「授業料値上げ反対闘争」などに全国の大学生が立ち上がり、大学・高専約22校、学生約22万人が組織され、全学連が結成されたのであった。
学生運動の最初の動機は、学園の再建・復興のごとき地味な、建設的事業に学生として参加することであったが、全国的な規模で学生を組織するという仕事は、共産党の青年統一戦線の一翼として行われたのである。
したがって全学連は、共産党員または活動家が執行部を指導するという形態で発展し、大学自治と学生自治は、外部団体によって支配される形になっており、最近に至るまで大学自治と学生自治の関係に、常識では判断できない問題が生ずる根本原因である。
しかし学生大衆において、民主化の波に洗われた戦後学生にとって、因襲や制度にとらわれがちな大学管理者や学部セクショナリズムの教授会などに、新たな価値と権威が求められないのは自然である。
しかし全学連も、学生大衆による政治的大衆運動であるかぎりにおいて一定の限界があり、大学という超えることのできない制度上の障壁があり、もともと単なる学生サークルの連合ではなく、外部から指導されている組織であるから、運動が障壁にぶつかり、戦術や方向転換が必要となるごとにその統一は破れ、とくに共産党の分裂や社会党の推移によって、全学連の指導力や統一状況にも影響がもたらされ、青年である学生の大衆運動であるために、革新政党以上に分裂がはげしかった。
昭和40年の第16回全国大会にいたるまで、全学連は分裂に分裂をかさね、四分五裂の混乱をつづけおり、その主要な分派は、反日共系のトロツキスト・グループ「革マル派」、日共系のいわゆる「代々木派」、そして社会党系の「社青同」、などがあり、その他に「社学同」「マル学同」等々の諸分派があった。
こうした全学連の分裂状態はそのイデオロギー過剰性と革新政党による背後の指導という非自立性に原因していた。

                                     つづく




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