いちおう日ソ国交回復が行われたので、つぎは中共との国交正常化だという期待が一般国民にはもたれるが、日本と中共との関係は、実は民間交渉という形式ではあったが、すでに数年前から始められており、サンフランシスコ平和条約の発効した一カ月後の昭和27年6月1日に、モスクワから北京に入った帆足計(ほあしけい)と高良とみらが第一回の民間貿易協定を結び、また在留日本人の集団帰国について北京と話し合いをつけた。
さらにその後、文化交流も北京側のイニシアチブによって部分的に行われたが、これらの交渉においては、日本側は民間の私的団体がのりだしたもので、政府の正式な代表によるものでないとし、政党の場合でも、共産党や社会党の場合をのぞいて、与党たる自民党はその一部の松村健三のような日中友好に熱心で誠実な指導者を中心とする一派の活動にとどまっていた。
これは日中関係が、日ソ関係とは地理的・歴史的・文化的に異なっているとともに、サンフランシスコ体制に属する日本としては、米中関係の敵対状態に制約されているためでもある。
しかし中共との国交回復を要望する声は、潜在的ではあるが、国民各層にわたる一般的なものといってよく、第一に、日中関係はその歴史的・地理的および文化的近さのゆえに、一種の国民感情に支えられていること、第二に、日中の経済関係が沿革的にみても、日本経済と深い構造的関係があること、第三にはイデオロギー的理由であるが、日本の左翼的な文化人・知識人および労働組合・文化団体が活発に動いているということであった。
それにもかかわらず日中国交回復は容易でなく、日本の保守党政府は、いまだ一度も正式に外交交渉を開始しようとしたことはなく、そこには数多くの内外の政治事情が大きな障害となっている。
その一つはサンフランシスコ体制に規定されている日本にたいする中共の方針であり、いうまでもなく中国共産党は、中国大陸制覇以前から、日本の侵略にたいして抗日戦の主導力となり、日本を撃退したという背景をもっており、これにたいして日本国民は戦後になってから中国侵略には罪の意識はもっており、したがって真に中国を代表しうる政府ならば、そのイデオロギーのいかんを問わず国交を持ちたいと望んでいる。
この点については、中国自身が北京と台湾との二つの政府にわかれているうえに、日本は台湾政府と友好関係を保っているため、事態は動きがとれないものになっており、そこに中共政府が、日本の政治勢力を帝国主義者と反帝国主義者と二分するような方策をとっており、「米帝国主義は日中共同の敵である」といった言動をやめていない。
その二は経済的理由であるが、中共の経済市場としての価値にも種々問題があり、国営貿易であることから、中共との貿易取引に国際比価の問題として処理しえない技術的ならびに経済的障害があり、これを克服するための輸出入銀行の安い資金をつかう延払い方式についても、産業界の一部では意欲的であるが、台湾政府の反対にあって苦しい立場にたたされているが、日中貿易が中国の経済建設に役立つかぎり、また多数の欧州諸国が中共貿易を拡大している現在、日本政府としても政経分離の建前をくずさないかぎり、これを支持していく方向が必要であった。
その三に、日中関係の正常化を妨げている根本的な理由は、アジアの国際秩序が、米国を指導者とする自由主義陣営のサンフランシスコ体制と、中共を指導力とする共産主義体制との対決であるということであり、中共の対外方針は、中ソ論争にも現れているように、「反帝国主義解放戦争」を肯定する強烈なイデオロギー的態度であり、これに対抗してあくまで自由を育てようとするが、米国のアジア極東政策であり、この米中のイデオロギー的対決こそがその核心である。
このような国際状況下においては、日本の中共対策が「政経分離」とか「積み上げ方式」とかの範囲に止まらざるをえないのは、極めて自然であり、これを乗り越えて中共との外交交渉をもちうるまでには、中共政権の安定は勿論、日本の内外の政治状況、ことに当時の自民党政権の構造変化と、アジアにたいする米国の政策変化とがみられなければならない。
中共の政権樹立の当時にさかのぼってみると、まず1951年の朝鮮動乱にたいする軍事介入、53年のベトミン(越南独立同盟)にたいする支援、58年の台湾海峡における金門・馬祖にたいする武力行使、59年のチベット・インド国境事件のごとき侵略的行動をとっており、その反面、54年のジュネーブ会議、55年のバンドンにおけるアジア・アフリカ会議、63年の周恩来の中近東・アフリカ旅行における中立勢力の結束などにみられるように、比較的穏和な建設的方向もうかがえられ、中共の対外方針は、和戦・硬軟の両面をもったきわめて弾力的な方針がみられる。
つづく