ちょっと発表



                                     2016.07.09  山崎 泰
   紀元2600年  - その7 -

 これまで主として経済成長・大衆運動など国内問題を眺めてきたが、サンフランシスコ講和条約で国家的独立を回復した日本外交の足取りは、どうだったのか。
講和・独立から安保条約改定の時期を迎える10年間の各国との外交関係の回復または正常化への歩みをたどってみることとします。
 戦後の日本外交を考えるに、とりわけサンフランシスコ条約に署名しなかったソ連との国交正常化、太平洋戦争において日本の侵略をこうむった東南アジアの国々、および台湾や朝鮮のような日本の旧植民地であって、しかも戦後それぞれ政治的独立を獲得した隣接諸国との外交関係の設定が重要な問題となってくる。 また中国との外交関係は、台湾の国民政府との関係もあり、日本外交にとって最も重要な政治的課題であり、まず台湾の国民政府との国交回復過程から進めましょう。

   日華平和条約
 日本がサンフランシスコ条約で正式にその権利・権限を放棄した地域のうち、もっとも早く外交関係の正常化をはかったのは台湾の中華民国とであり、その事情は、太平洋戦争の相手国であった中華民国が、事実上いわゆる「二つの中国」のゆえに代表者が講和会議に招かれなかったため、日本としては講和会議とは別個に処理するという日米間の了解があったことにもと図いている。
 この日米間の了解とは、前述したように、昭和26年12月24日、当時の吉田首相からダレス特使にあてた、翌年1月16日に発表された書簡にあるように、日本は米国の条約批准に先立ち、台湾の国民政府と講和を結ぶべしとするものであり、このとき日本は二つの中国のうち国民政府と講和を結んで、米国上院の対日講和条約の批准審議促進を図ったのであり、事実、日華平和条約は昭和27年4月28日、サンフランシスコ条約発効の日と時を同じくして調印された。
 この条約は、台湾・膨湖島を支配している国民政府とのあいだの条約であって、全中国の代表政権として承認したものではない、と吉田首相が条約審議のさいに衆参両院の説明においてはっきりさせているが、国民政府側は条約交渉のさい、全中国の代表政権として日本との平和条約を結ぶ意向であった。 しかし、このようなあいまいな状態におかれた台湾政府の中国代表権の問題は、対中共関係の現在まで横たわる最大の障害となったことであり、このことは外交関係の回復とか国交正常化における日本外交の歩みそのものを象徴しているといわれ、二つの世界の谷間におかされている日本外交の自主性への限界であり、歴代保守政権の外交が「おとぼけ外交」とか「からくり外交」とか冷評されるゆえんのものである、と。

   東南アジア諸国との国交回復
 インドや旧ビルマのように、サンフランシスコ会議に招請されながら参加しなかった国、調印はしたが、賠償問題の未解決を理由に批准を保留したフイリッピンならびにインドネシアなど、それぞれの国の特殊事情があったからである。
 このうち、インドはサンフランシスコ条約にたいして中立主義の建前から不満であり、対日平和条約にたいしては、⑴極東における平和維持に直接関係ある諸国の参加が可能でなければならないにもかかわらず、その可能性が閉ざされていること、⑵西南ならびに南方諸島の処理および米軍駐留の建前に同調しがたいこと、⑶台湾や千島・南樺太など領土の帰属が明示されていない、などの諸点に不満だった。
 しかし、同時にインドは、「日本との戦争状態終結には賛成であって、平和条約の発効と同時に戦争終結宣言を行うとともに、二国間の平和条約を締結する用意がある」旨を通告してき、それで日印復交条約も、27年4月28日、サンフランシスコ条約発効の日に調印され、8月に批准書の交換もおこなわれ、この条約の内容は、大筋でサンフランシスコ条約の線にそったものであるが、インド側が賠償請求権を放棄している点に、インドの平和問題に対する態度並びに日本への好意が看取れる。

 ビルマ、フィリピン、インドネシアなどとの国交回復問題は、賠償問題と絡み合っているので事情ははなはだ複雑であるが、しかし日本政府の賠償問題にたいする基本方針は、つぎのごとくであり、「賠償問題解決の精神に即し、賠償の誠意ある履行を通じて求償国の経済の回復及び発展にできるだけ寄与することにより、求償国国民の対日感情の好転をはかり、よって生まれるべき正しい対日理解を基礎として、今後における彼我国民間の友好関係及び経済交流の緊密化に資する」、この基本方針とともに、賠償の履行は我が国の機械・設備などの資本財ないし耐久消費財および技術が、通商貿易の外枠として求償国に紹介される点で、重要な経済的効果をもつものと考えられたのである。
 対ビルマ、フィリピン賠償は、31年に発効したそれぞれの賠償協定によって開始されたが、インドネシアとの賠償協定はややおくれて33年から発行したが、その後、この賠償およびそれにともなう経済協力の履行は、中途において賠償協定の変更などによって中断または停頓した国もあり、かならずしも順調に行かなかった。

 賠償問題が順調に行かなかったというのは、受入れ国の経済体制や政変にともなう政策変更などによるもので、その多くは日本の責めにきすべきものではなかったが、日本側においても、賠償問題と経済開発を中心とする経済協力との関係、求償国の国内状況および米国その他の国々の後進国援助計画との関連もしくは提携などについて、十分かつ適切な方針決定を行わなかったことを認めなければならい点もある。 ベトナムとの賠償問題は、昭和34年12月の国会の審議のさいに紛糾したが、それは政府が、南ベトナム政府をもって北ベトナムをふくむ全ベトナムを代表させているかのごとき、あいまいな答弁をしたからであり、とくに社会党は、3,900万ドルの賠償金が軍事目的に使用されるおそれがあることを鋭く追及したが、暁の国会で、政府与党は強行採決をしてこの賠償協定の自然成立をはかったが、この一例によっても、サンフランシスコ体制のもとで、国民多数の賛成がえられる自主外交がいかに困難であるかは、後日のベトナム戦争をまたずしてすでに明らかであった。

   日韓交渉の経過

 サンフランシスコ平和条約は、その第二条で、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」と規定したが、その朝鮮は、南北二つの政権によって分裂・対立の状況にあり、こうした冷戦体制下において、旧統治地域に発生した政府との国交回復問題が困難であることは、容易に理解されるところであるが、そのうえ韓国も講和会議に招請されなかったので、日韓両国間の直接の関係は生まれず、すべてが両国の個別交渉にゆだねられていた。
 この二つの挑戦という微妙な問題にたいしては、独立した後も日本政府の方針は不明だったが、たまたま34年、北朝鮮機関問題のさい発表された第二次岸内閣の方針によって、北朝鮮についての考え方があきらかとなり、それは「日本政府としては、人道的見地から実際上必要な便宜を供与せざるをえない関係にあるので、(中略)意思の自由を保護し、帰還業務の客観的公平性と中立性を保持するため、可能なかぎりにおいて最善を尽くすという考慮から、日本政府の通常の責任以上の特別の措置を自主的に講じようというのである」。
この方針により、34年8月、日朝帰還協定が成立し、第一次帰還者975名をのせたソ連船は新潟港を出港したが、ここでは日本政府の北朝鮮問題にたいする一定の中立的立場がうかがえるだけであり、それによっては国交回復というような重要な政策決定の方針とはなっていないようである。
 ところが韓国との外交交渉では、最初から国交問題にふれざるをえないものが多く、日本政府は、講和条約発効に先立って、昭和27年2月、日韓会議を開き、数多くの当面する問題、

 ⑴正式国交関係を設定する条約、⑵在鮮日本財産と対日請求権の処理、⑶漁業協定の締結、⑷在日朝鮮人の国籍と待遇問題、⑸船舶問題などについて予備交渉を行った。
 しかし正式の日韓会議は容易に進まず、その第一次交渉は第三次鳩山内閣のとき、31年3月に開かれたが、日本政府は抑留者の相互釈放によって両国間の空気を改善したうえで、漁業問題その他の諸懸案を解決するとともに、国交樹立の目的を達成しようとする意図をもって会議にのぞんだのである。
 しかし、その後数次の階段が行われてにもかかわらず、交渉は一向にはかどらず、37年3月、第二次池田内閣のもとで開かれた第六次会議においてすら、韓国側の提示した対日請求権の問題、平和ライン(李承晩ライン)を撤廃して漁業協定を締結する問題、在日韓国人の法的地位の問題などについて、両国の原則的立場の応酬が行われた程度であった。

 これを解決するには、両国ともそれぞれの国内における反対運動に支配されがちであり、政局の安定をはかることにいっぱいであり、とくに韓国側においては、1961年5月16日のクーデターで李承晩政府に代わって朴正熙軍事政権が、軍政に終わりを告げて、総選挙を通じて安定することが必要であり、とくに野党や学生の猛烈な反対運動を緩和する必要があったが、また日本側においても、日韓会談反対全国統一行動がおこなわれている状況であるので、社会・共産両党をはじめとする反対運動にもめげず、国民多数の支持がえられる見通しのある確乎とした方針がうちだされねばならい。 日韓会談を結実させ、日韓条約の成立をみるのは、池田内閣の遺産をついだ佐藤内閣により、国会の内外での激しい日韓条約反対デモの行われる状況のもとで、やっと昭和40年になってからであった。


   日ソ交渉

 サンフランシスコ条約を拒否したソ連との国交回復をいかになしとげるかは、これもサンフランシスコ体制下におかれた日本にとって、きわめて困難な問題であるが、また同時に北方領土問題や漁業安全操業など、国民的利益にかかわる緊急な問題でもあり、日ソ交渉は、二つの世界の谷間にあって、そこから自主外交の路線をきりひらいてゆく日本外交にとって一大試練となった。
 この問題が初めて取り上げられたのは、終戦後10年たった昭和30年2月の総選挙にのぞむ鳩山内閣であり、鳩山首相の選挙公約として日ソ交渉を大きく取り上げ、政権確保に役立てようとした。
独立後、政界に復帰した鳩山一郎を首班とする鳩山内閣が、この日ソ関係の正常化を取り上げた動機は、単に北方領土や漁業紛争のごとき、直接政府間の交渉を必要とする問題の解決のためばかりでなく、吉田内閣の外交政策にたいして、国内の左翼勢力のいう「向米一辺倒」の主張をおさえるとともに、過去10年間ひたすらに日米友好関係の基礎固めに努力してきて、そのためには反共的態度をとるもやむなしとする姿勢を示してきた吉田内閣にとって代わるための、政治的方略でもあった。

 長く閉ざされていた日本の国際路線をひらき、その国際外交の空白を解消する重要な政策転換であったといわれている。
 またソ連においても、スターリンからフルシチョフへの政権移動があって、平和共存路線を敷かれ始めたときでもあり、アジア、アフリカにはバンドン会議の平和10原則に現れたような平和ムードが高まっていたが、しかし日ソ交渉には、意外な暗礁があって難航を余儀なくさせられた。
それはいうまでもなく南千島の領土問題であり、一見してそれほど重大とは思えない問題が、何故にソ連の強硬な主張となっているかについては、当時の日本国民には十分理解できなく、それは敗戦日本の処理方式を協定したヤルタ、ポツダム協定に一貫していたソ連の対日戦参加の条件につながっており、スターリン外交の周到に考えられた対資本主義体制、すなわち自由主義国家体制による包囲または封じ込め政策に対抗する戦略体制の一環でもあったのである。

 これに反して、日本国民は戦後長いあいだ敗戦の虚脱状態にあり、占領下において経済生活の再建復行に専念していて、領土問題などについてはほとんど諦めに近い状態であり、サンフランシスコ会議のさいにも、領土条項についてはソ連の反対を考慮しつつも、平和条約の成立のために原案のまま承認したのであり、この批准のさいにも、南千島の国後・択捉両島が千島列島に包含されていないことを、公式に保留したわけでもなく、それゆえに国際的には、日本は千島列島を完全に放棄したものと解せられたのであった。
ただ、先に述べたサンフランシスコ会議において、吉田全権がその受諾演説においてソ連の主張に反駁し、南千島は日本固有の領土である旨に言及しているが、これは要するに、他日機会があれば、国際交渉によって決せられるべきだということを意味したことにすぎなかった。
 ところで、日ソ交渉の発端は昭和30年6月に、ロンドンにおいて、当時の民主党の代議士松本俊一とソ連のマリク駐英大使とのあいだの会議で始まりであったが、領土問題で対立したまま31年3月に無期休会となり、同年7月に、重光外相が訪ソしてシュピーロフ外相とモスクワ会談におよんだがうまくいかなかったが、席上、重光外相は領土問題について、その歴史的根拠と法律論をもって堂々と日本の立場を主張したが、これは日本国民の支持をかちえる国内向けの主張にすぎなく、実際の交渉においては「忍びなきを忍んで」歯舞・色丹だけを返還するというソ連案をのまねばならなかった。

 これは鳩山内閣としては、一方において日本における国論の一致をもとめつつも、他方で差し迫っている漁業問題の解決のために、領土問題を棚上げして交渉をまとめねばならぬという苦しい立場にあったためであり、会談は一時中断したが、その年の10月7日に鳩山首相みずから病を冒してモスクワにおもむき、戦争状態終結および国交回復の日ソ共同宣言と通商航海議定書に調印したが、ここにおいても領土問題はソ連の主張どおりになっているが、日本としては日ソ国交回復を先決として、漁業・通商問題を急ぐとともに、日本の国連加盟にかんするソ連の反対を取り除くため、領土問題を棚上げしたのである。
 歴史の進行は、ソ連側においてもフルシチョフ政権への移動があり、中ソ論争という新しい事態もあり、その間、日ソ関係もしだいに好転し、漁業問題や通商貿易問題も進展しつつあり、またシベリア開発という日本の協力を必要とする問題もあり、とくに1962年のキューバ事件以来、米ソ関係の好転や部分的核停協定の成立によって、冷戦的緊張の緩和がみられ、日本人のソ連への恐怖や不信は著しく減退した。

 1964年の年頭に、フルシチョフ首相が日本国民へあてたメッセージの中に、“1963年には日ソ両国間に貿易・漁業・文化・学術の交換領域で相互に有益な関係が拡大された。このような協力は双方に利益をもたらし、極東の平和と安全を強化するものである”と、こうしたソ連側の態度は、日本人のおおむね同感するところであるが、サンフランシスコ体制に強く反対し、日本を侵略国としてのみ見ていた十数年前のソ連指導者の言葉とは簡単には受け取れないくらいの変化であり、おそらく二つの世界の谷間にあって、そこから少しでもはいでて、東西への窓を開こうとする日本の自主外交への努力が、少しずつ認められた証でもあるようだ。

   中共対策

 いちおう日ソ国交回復が行われたので、つぎは中共との国交正常化だという期待が一般国民にはもたれるが、日本と中共との関係は、実は民間交渉という形式ではあったが、すでに数年前から始められており、サンフランシスコ平和条約の発効した一カ月後の昭和27年6月1日に、モスクワから北京に入った帆足計(ほあしけい)と高良とみらが第一回の民間貿易協定を結び、また在留日本人の集団帰国について北京と話し合いをつけた。

 さらにその後、文化交流も北京側のイニシアチブによって部分的に行われたが、これらの交渉においては、日本側は民間の私的団体がのりだしたもので、政府の正式な代表によるものでないとし、政党の場合でも、共産党や社会党の場合をのぞいて、与党たる自民党はその一部の松村健三のような日中友好に熱心で誠実な指導者を中心とする一派の活動にとどまっていた。
 これは日中関係が、日ソ関係とは地理的・歴史的・文化的に異なっているとともに、サンフランシスコ体制に属する日本としては、米中関係の敵対状態に制約されているためでもある。
 しかし中共との国交回復を要望する声は、潜在的ではあるが、国民各層にわたる一般的なものといってよく、第一に、日中関係はその歴史的・地理的および文化的近さのゆえに、一種の国民感情に支えられていること、第二に、日中の経済関係が沿革的にみても、日本経済と深い構造的関係があること、第三にはイデオロギー的理由であるが、日本の左翼的な文化人・知識人および労働組合・文化団体が活発に動いているということであった。

 それにもかかわらず日中国交回復は容易でなく、日本の保守党政府は、いまだ一度も正式に外交交渉を開始しようとしたことはなく、そこには数多くの内外の政治事情が大きな障害となっている。

 その一つはサンフランシスコ体制に規定されている日本にたいする中共の方針であり、いうまでもなく中国共産党は、中国大陸制覇以前から、日本の侵略にたいして抗日戦の主導力となり、日本を撃退したという背景をもっており、これにたいして日本国民は戦後になってから中国侵略には罪の意識はもっており、したがって真に中国を代表しうる政府ならば、そのイデオロギーのいかんを問わず国交を持ちたいと望んでいる。
 この点については、中国自身が北京と台湾との二つの政府にわかれているうえに、日本は台湾政府と友好関係を保っているため、事態は動きがとれないものになっており、そこに中共政府が、日本の政治勢力を帝国主義者と反帝国主義者と二分するような方策をとっており、「米帝国主義は日中共同の敵である」といった言動をやめていない。

 その二は経済的理由であるが、中共の経済市場としての価値にも種々問題があり、国営貿易であることから、中共との貿易取引に国際比価の問題として処理しえない技術的ならびに経済的障害があり、これを克服するための輸出入銀行の安い資金をつかう延払い方式についても、産業界の一部では意欲的であるが、台湾政府の反対にあって苦しい立場にたたされているが、日中貿易が中国の経済建設に役立つかぎり、また多数の欧州諸国が中共貿易を拡大している現在、日本政府としても政経分離の建前をくずさないかぎり、これを支持していく方向が必要であった。

 その三に、日中関係の正常化を妨げている根本的な理由は、アジアの国際秩序が、米国を指導者とする自由主義陣営のサンフランシスコ体制と、中共を指導力とする共産主義体制との対決であるということであり、中共の対外方針は、中ソ論争にも現れているように、「反帝国主義解放戦争」を肯定する強烈なイデオロギー的態度であり、これに対抗してあくまで自由を育てようとするが、米国のアジア極東政策であり、この米中のイデオロギー的対決こそがその核心である。
 このような国際状況下においては、日本の中共対策が「政経分離」とか「積み上げ方式」とかの範囲に止まらざるをえないのは、極めて自然であり、これを乗り越えて中共との外交交渉をもちうるまでには、中共政権の安定は勿論、日本の内外の政治状況、ことに当時の自民党政権の構造変化と、アジアにたいする米国の政策変化とがみられなければならない。

 中共の政権樹立の当時にさかのぼってみると、まず1951年の朝鮮動乱にたいする軍事介入、53年のベトミン(越南独立同盟)にたいする支援、58年の台湾海峡における金門・馬祖にたいする武力行使、59年のチベット・インド国境事件のごとき侵略的行動をとっており、その反面、54年のジュネーブ会議、55年のバンドンにおけるアジア・アフリカ会議、63年の周恩来の中近東・アフリカ旅行における中立勢力の結束などにみられるように、比較的穏和な建設的方向もうかがえられ、中共の対外方針は、和戦・硬軟の両面をもったきわめて弾力的な方針がみられる。

                                         つづく


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