さしも日本国中を荒れ狂った安保騒動の嵐も、保守党になんの影響もなく、岸首相一人の退陣ということで収まり、新安保条約は予定通り6月23日に批准書の交換が成立し、一年以上も続き、最後は未曾有の国民運動にも発展しながら、このようなあっけない結果に終わったその教訓はなんであったのであろうか。
それにはいろいろの批判や反対運動に加わった者の自己批判もあったが、当時、客観的にみて、歴史的教訓とも考えられるものが二つあるという。
第一は、日本国民が大衆行動にかりたてられる契機または動機にかんするもので、日米安保条約のごとき国際外交問題にたいしては、日本国民はいまだ平素十分な知識や情報を与えられておらず、日常生活に関する地域または職域についての国内問題であるならば、一定の知識・経験によって実感的に判断する能力を持っているが、外交政策になると、その実感は一方的な不満や不安をかきたてる宣伝に動かされやすい。
しかし国際外交問題には、こうした国内的次元のほかに、一定の国際関係から制約される次元があり、サンフランシスコ体制やアジア・太平洋関係のごとき日本をとりまいている国際的次元があり、この現実は平和の希いや戦争への反対という心理的・感情的な態度だけでは対処できず、ここに安保闘争が岸首相の退陣をせまる民主主義擁護に終わってしまった理由がある。
日本の国際的地位を理解している市民運動でなければ、国家の外交政策の変更をもとめることはできなく、市民が「無告の民」ではなく、国家の政策形成に参加しうる有言の市民とならねばならない。
第二の教訓は日常生活と国際的地位という大きな距離とギャップをもっている政策問題について、一般の国民にそれを統一する理解を期待し、政策形成に寄与することを求めることができず、それこそ政党の任務であり、その最終の政策決定をするものは国会である。
しかるに社会党にしても、また結党まもない民社党にしても、その外交政策が具体的にはっきりせず、ただ安保改定に反対であるというだけでは、政府与党の政策変更を求める十分な根拠にはならず、対策なき阻止や反対は民主政治の初歩でしかない。
また自民党の場合でも、「保守党の悲願である」とまで打ち込んだ安保改正問題にたいして、不安を感じ、不満の意を表明している国民を十分に説得しえず、これを「国際共産主義につながる破壊活動である」などと声明するのは、まったくあの大衆運動化した日本国民の心理状態をしらないものであり、安保騒動は、保守・革新すべての日本政党の未成熟を添加に表明したもので、日本の国際的信用を失墜させた責任は政党にありと言っても過言ではない。
総選挙はなんのために行われてきたのかと言わざるをえず、ここに最大の教訓があると。
現在もまったく同じことが言えるのではないか。
安保騒動が終わった後、英国の「マンチェスター・ガーディアン」紙が7月7日、客観的に日本を見ている記事を次のように述べている。
「岸氏は辞職するところであるが、かれは主要な戦闘に勝利をおさめた。火につつまれた甲板に残された少年のように頑張りぬくことをとおして、かれは新安保条約を発効させた。かれの持久力は西側においては称賛をかちえた。こちらでは、選挙の結果から見れば国民の大多数を代表しているのでない群衆に、かれがなぜゆずらなくてはならないか、はっきりしない。しかし、ヨーロッパ人とアメリカ人とがかれを称賛するまさにそのゆえに、かれは自らの党までを含めて多くの日本人がかれを非難するのだ。議会制度があるにもかかわらず、社会的和合を政治の目標とするという古い中国・日本的理想がまだ生きている。統治者の義務は、父親が家庭でするように相反する利害を和合させることにある。しかし岸氏は、安保条約の危機においても、それ以前の警職法の対立の時にも、かれの属する多数派の意思を少数派におしつけようとした(彼のやり方は西欧の基準からみて、非難をうける筋合いのものではない)。かれの後任になる人の仕事は二重のものとなる。憲法によって定められた首相として、新首相は議会主義政治の方法にたいして不可欠な民衆の支持をとりもどさなくてはならない。当然の第一歩は、安保条約を批准した政党にたいする選挙民の意見を記録するために総選挙を行うことである。しかし新首相のもう一つの仕事は、めちゃめちゃに引き裂かれた日本の社会的連帯組織を修復することであって、このためにはすぐさま選挙は妨げになっても助けにはならない。しかし、たしかに危険をおかすことが必要である。選挙だけが必要な新しい出発を可能にする」と。
次の池田内閣は、まさに私的されている二つの仕事を果たすべく登場するのであるが、果たして皆さんの判断はいかがだったでしょうか。
この他にも紀元2600年より特出する出来事が多々ありましたが、昭和24年には湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したことに日本中歓喜し、昭和28年に日本で初めてTV放送が開始され、昭和34年4月10日、今上天皇が民間人の美智子妃と結婚、昭和39年東京オリンピックが開催されたりした。
まだ続きをとも思っておりましたが、吉田明夫君の今までの構成・編集に感謝して私の「紀元2600年」をここで終了とさせていただきます。
吉田君のご健康を祈願いたしておりますので頑張ってください。
おわり