次に、この日本橋3丁目交差点を左に中央通りを日本橋方向に100mほどのデイックビルの裏側の植え込みに囲まれて、「秤座跡」の石碑(写真3)があり、元甲斐の武田家の秤の製造をしていた守隋家(しゅずいけ)が、関八州の秤の取りまとめを家康より許可を得、後に東国33ケ国の製造、検査、販売の全ての権利を独占し、この地に座を設けたものであり、一方西国33ケ国は京都の神家(じんけ)と二分しており、江戸時代の経済の発展に大いに貢献したとのことです。
さて、中央通りに戻り日本橋交差点に向かい交差点を左に永代通りの右側を外堀通りに向かい、50mほど手前に気を付けて行かないと見落としますが、「竹下夢二の碑」(写真4)があり、自作の「宵待ち草」の詩と説明文があり、この場所が元妻の開いていた「港屋絵草紙店」の跡地であり、自分デザインの版画、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売っていたようです。
次に、外堀通りを右に折れ左側を行くと一石橋に着きますが、この一石橋の付けられた名前が、粋な江戸っ子のユニークさを表しているのですが、日本橋川の北側に金座取締りの後藤屋敷があり、南側に呉服屋の後藤屋敷があり、両方の後藤(五斗)を合わせて一石であることから橋にその名を付けたといわれ、江戸時代の後半ともなると、一石橋から日本橋、江戸橋にかかる日本橋川べりは、盛り場として賑わい、そのため迷子が大勢出たために、一石橋の南側袂に「一石橋迷子しらせ石標」(写真5)が現存し、石の正面に「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右側には「志(し)らする方」、左側には「たずぬる方」と彫られており、双方の上部に窪みが彫られ、そこに各々の子供の名前や特徴を書いた紙を、窪みに貼ったとのことです。 |