ちょっと発表



2012.01.22   山崎 泰

「私と日本橋 -3-」

 前回、日本橋について述べましたが、これからは{日本橋区}の話しとなりますので、{日本橋区}とは何処までの範囲かを述べてみますと、明治11年に制定された東京15区(麹町区、小石川区、牛込区、四谷区、赤坂区、麻布区、芝区、京橋区、日本橋区、神田区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区)であったが、昭和27年の区画整理により、現在の23区となり京橋区と日本橋区が合併し中央区となったが、前にも述べたように当時の日本橋区議員の多くは合併に難色を示し、旧日本橋区内の全ての町名に「日本橋」を冠称することで了承したが、昭和45年の区画整理により、八重洲1丁目は6町が、日本橋1~3丁目、東日本橋1~3丁目が統廃合されたため7町名に冠が付かず、その他の37町名に「日本橋」が付いている事でお分かりと思いますが、南は現在の東京駅から八重洲通りを亀島川までと、西と北側は現在の中央区と千代田区の区界と同じく神田川までと、東は神田川から日本橋川までの隅田川であった。
 この日本橋区は、江戸時代より関東大震災までは水の町でもあり、今は道路や高速道路に変わって面影も無いが、ご存知のように東京駅八重洲口前の通りは、江戸城の外堀が埋められて外堀どおりとなり、高速道路の都心環状線の宝町出入口から江戸橋Jctまでは楓川で材木河岸があり、また日本橋川から隅田川までの箱崎Jctは箱崎川があったし、日本橋川沿いの現在の日本橋小網町より日本橋堀留町1丁目付近まで堀が掘られ塩や材木の河岸であり、日本橋小舟町の江戸橋の脇から北側に日本橋本町2丁目あたりから左に折れ、日本橋室町1丁目の三越デパートの手前ぐらいまでのL字型の堀が主に米河岸であり、また、日本橋川沿いの千代田合同庁舎辺から日本橋小伝馬町までの千代田区区界線上と、日本橋久松町と日本橋富沢町境の通称西通りを高速道路の浜町入口付近の旧箱崎川まで水路として掘られており、日本橋川を中心とした、これらの河川と堀が金融や物流を担い、当時世界一の江戸の町民の生活と発展に欠かすことの出来ない大きな役割を果たしていたことです。
 それでは、皆さんの頭の中に日本橋区の地図が描かれたことと思われますので、東京駅八重洲口から、中央区指定の史跡、記念碑から江戸時代よりの歴史のご案内をいたします。
 八重洲北口の大丸デパートの辺りが江戸時代の「北町奉行所跡」(写真1)といわれ、鉄鋼ビルとトラストタワー北館の間の狭い公園に説明碑と井戸遺跡石が再生されています。ちなみに、南町奉行所は現在の有楽町マリオンの辺りだったそうです。
 八重洲といえば、ヤン・ヨーステンの名から付けられたことはご承知のとおりですが、日蘭修好380周年記念碑(写真2)として、八重洲中央口より200mほどの日本橋3丁目交差点の八重洲通りの中央分離帯に、ヤン・ヨーステンと彼の乗ってきたオランダ船リーフデ号のレリーフが設置されていて、彼はウイリアム・アダムス(三浦按針)と共に現在の臼杵市に漂着したが、徳川家康に重鎮され、現在の和田蔵門から日比谷間の内堀内に屋敷を与えられ、当時はその辺まで沿岸で、日本名を「耶楊子」と呼ばれ沿岸を「八代洲河岸」と言われ、その後「八重洲」の名として現在に至っている。

 

北町奉行所跡

  日蘭修好380年記念碑

 次に、この日本橋3丁目交差点を左に中央通りを日本橋方向に100mほどのデイックビルの裏側の植え込みに囲まれて、「秤座跡」の石碑(写真3)があり、元甲斐の武田家の秤の製造をしていた守隋家(しゅずいけ)が、関八州の秤の取りまとめを家康より許可を得、後に東国33ケ国の製造、検査、販売の全ての権利を独占し、この地に座を設けたものであり、一方西国33ケ国は京都の神家(じんけ)と二分しており、江戸時代の経済の発展に大いに貢献したとのことです。
 さて、中央通りに戻り日本橋交差点に向かい交差点を左に永代通りの右側を外堀通りに向かい、50mほど手前に気を付けて行かないと見落としますが、「竹下夢二の碑」(写真4)があり、自作の「宵待ち草」の詩と説明文があり、この場所が元妻の開いていた「港屋絵草紙店」の跡地であり、自分デザインの版画、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売っていたようです。
 次に、外堀通りを右に折れ左側を行くと一石橋に着きますが、この一石橋の付けられた名前が、粋な江戸っ子のユニークさを表しているのですが、日本橋川の北側に金座取締りの後藤屋敷があり、南側に呉服屋の後藤屋敷があり、両方の後藤(五斗)を合わせて一石であることから橋にその名を付けたといわれ、江戸時代の後半ともなると、一石橋から日本橋、江戸橋にかかる日本橋川べりは、盛り場として賑わい、そのため迷子が大勢出たために、一石橋の南側袂に「一石橋迷子しらせ石標」(写真5)が現存し、石の正面に「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右側には「志(し)らする方」、左側には「たずぬる方」と彫られており、双方の上部に窪みが彫られ、そこに各々の子供の名前や特徴を書いた紙を、窪みに貼ったとのことです。

   
秤座跡   竹下夢二の碑   一石橋迷子しらせ石標
 初回の「私と日本橋」に紹介した泉鏡花の戯曲「日本橋」が「日本橋」と題されているが、実際に泉鏡花が芝居に出てくる描写の橋は、この一石橋であったと言われていますが、これから戯曲「日本橋」に関連のある場所が、一石橋から日本橋川沿いの南側の道の右側を日本橋に向かって100mほどに「西河岸地蔵寺」(写真6)が目に付くとおもいますが、戯曲「日本橋」の中で、縁結びの地蔵様と紹介されており、また、花柳章太郎が昭和13年に祈願し、お千世役が見事成就し当たり役となったお礼に、小村雪岱に「板絵着色お千世の図」を描かせ奉納し、普段はガラス戸越しに幽かに見えるが、現在でも新派が戯曲「日本橋」を上演する時は、出演者全員で本寺の本尊に成功祈願をするそうです。
 西河岸地蔵寺を後にして日本橋に来ましたが、「日本橋」は前回紹介しましたので、そこを通り越して西川布団と三菱東京UFJの間を旧白木屋の現在のCOREDO日本橋の裏のANNEX(COREDOの別館)前庭のサラリーマンの憩いの場にもなっているところに「名水白木屋の井戸」(写真7)の碑があり、これは江戸時代の下町一帯は塩分を含んだ井戸水に困っていたが、白木屋の二代目当主が私財を投じて掘った井戸から清水が湧き出て、諸大名や市民がその恩恵を受けたことの歴史的評価を称えたものであります。
 この碑の右手に、後に「食べ歩き」の章で細かく出てきますが洋食の草分けの「たいめいけん」が目につきますが、その上に勇壮できらびやかな江戸角凧などが多数展示されている「凧の博物館」がありますので、食後にでも見学してみてはいかがでしょう。
 次に、「凧の博物館」より北に向かって道を右に進んで昭和通りに出ますと、江戸橋の袂に日本橋郵便局が目に入りますので、横断歩道橋を渡ったすぐそばに、「郵便発祥の地」(写真8)の説明碑と前島密の胸像が設置されており、前島密の創意により明治4年に東京~大阪間の為の駅逓司(郵政省)と東京郵便使役所(中央郵便局)が開設された地である。
   
西河岸地蔵寺   名水白木屋の井戸   郵便発祥の地
 日本橋郵便局の裏側の高速道路に沿った道を100mほど南に、コスモ証券の裏側辺りの高速道路の手前に「海運橋親柱」(写真9)が小さな植え込みに(見落とさないよう)反対側にも一本それぞれ漢字と平仮名で建っており、これは本来高速道路の下を埋め立てられた楓川に架けられた木橋の高橋といわれ、この近辺が幕府の御船奉行(海軍)の基地でもあり、御船手頭の向井将監の屋敷も近くにあり、別名将監橋とか海賊橋とも呼ばれており、明治8年に石造のアーチ橋で近代構造物の代表的なものとして名を馳せ、関東大震災により崩れ、その遺構として残されており、次に高速道路を潜り兜町側に向かうとすぐに、みずほ銀行兜町支店が目に入り、その外壁に「銀行発祥の地」(写真10)として、プレートがはめ込まれており、渋沢栄一の翻意により日本最初の銀行の「第一国立銀行」がここに創立され、名称が国立銀行となっているが、れっきとした民間銀行であり「国立銀行法」に元ずく銀行の意味で、その第一号を表しているに過ぎず、この銀行の敷地内に和洋折衷の豪勢な頭取渋沢栄一の私邸が建てられており、先の海運橋とこの建物見物で賑わしたとのことであり、渋沢は当時日本橋川を中心にイタリアのヴェネツィアの街を想定しヴェネツィアゴシックの建築様式を取り入れることを推奨し、当時の帝国製麻なども取り入れ、本人もその様式で建てたので大変目立ったようです。ちなみに、この「第一国立銀行」が「第一勧業銀行」となり、現在の「みずほ銀行」となっている。
 みずほ銀行兜町支店から東に50~60m行くと通称平成通りを東京証券取引所に向かい日本橋川に架かる「鎧橋・鎧の渡跡」の史跡(写真11)があり、大昔はこの辺まで深い入り江であり、下総方面への渡し場であり、平安の時代に源義家が東征の際に、この渡し場で暴風雨に遭い、海神の怒りを治めるために鎧を脱いで供え、暴風雨が収まったとのことから、ここを鎧ケ淵と呼び、今も石積護岸が残っている。
 明治5年に三井家と複数の私財で木橋が架けられ、プレートに表示の明治21年に鋼製トラス橋に架け替えられて昭和32年に現橋が架けられ、親柱が鎧を模している。
   
海運橋親柱   銀行発祥の地   鎧橋・鎧の渡跡
 以上日本橋区の日本橋川南側のご案内となりましたが、次回は日本橋川を渡り北側をご紹介いたします。


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