ちょっと発表



                                     2012.10.29   山崎 泰
「 私と日本橋 -4- 」
 今回は日本橋川の北側をご案内いたします。
複雑な道案内になるかも知れませんので、中央区の地図を開きながら見てください。
 
 日本橋を渡り、前に述べた道路原標のレプリカの設置場所の反対側の橋の右端に、「日本橋魚河岸記念碑」(1)の石碑と龍宮城の乙姫の像が建っているが、これは「日本橋龍宮城の港なり」と言われ、龍宮城のある海の魚が沢山集まったという意味で、そこの住人の乙姫が像になっているとのことです。
 家康の関東入国の際、摂津国西成郡の漁夫30余命を共に連れて来て、漁夫は漁獲の一部を幕府に納め残りを一般に販売したが、慶長年間に至り漁をするものと、それを商うものとに区分されて市場の形態が整い、関東大震災により築地に移るまでの300余年にわたり江戸市民、東京市民の食をまかない、日本の経済を支えて繁栄させてきた魚河岸の歴史に敬意を表したいものです。

 中央通りを三越新館の対面あたりのスルガ銀行の脇道が、「按針通り」と呼ばれ、そこを右に100mほど行くと左側に、店と店の間に見落としそう場所に「三浦按針住居跡」(2)の石碑があり、彼の歴史はご存知と思われますが、先に述べたヤン・ヨーステンと共にオランダの東印度会社の極東貿易のために、イギリス人でありながら水先案内人として応募し、5隻で出帆したが途中色々の事件に見舞われつつ、たった1隻残ったリーフデ号が、慶長5年(1600年)現在の大分県の佐志土に漂着し、本来殺されるところ、家康の目に留まり、通商顧問として、ヤン・ヨーステンと共に重用され、この地に屋敷を与えられ、その上に相模国逸見に土地を与えられ、三浦半島の三浦と彼の職業の水先案内に欠かせない羅針盤から按針の名をとり、三浦按針と名乗り、後に平戸に移され57歳で没したが、京浜急行の按針塚駅を下車し塚山公園に夫妻の墓石がある。

 按針通りを中央通りに戻り三越側を北に、丸の内の三菱村に伍して日本橋の三井村の最近の開発、発展は目を見張る速さと規模で進んでおり、私の現役の頃とは全くの様変わりであるが、その中を日本橋の代表的建築物の三井本館と千疋屋総本店を通り過ぎ、本町通りと江戸通りの中間辺りに「十軒店跡」(3)の史跡名盤があり、五代将軍綱吉が京都の雛人形師十人を招き長屋十軒を与え、3月、5月、12月の各節句に「十軒店雛市」が立ち、寛政時代には41軒にもなり小屋かけができるほどの賑わいを見せ、広重の筆にもなっており、大正時代まで「十件店」の町名が残っていた。
   
(1)日本橋魚河岸記念碑
 
  (3)十軒店跡
 
 
 
 
  (2)三浦按針住居地  


 そこから江戸通りとの交差点のJR東日本橋駅の入り口の壁に、見過ごしそうであるが「長崎屋跡」(4)の史跡名盤がはめ込まれており、江戸時代の薬屋の長崎屋を、オランダの商館長が一国貿易のお礼に年一度の献上品を携え、江戸出府の際の定宿として使ったが、シーボルトなどの医学者も同行してきており、日本人の平賀源内などの蘭学者や医学者が知識吸収の為に訪問し、西洋文明の交流の場として貴重な存在であった。

 次に、江戸通りを西に新常盤橋に向かい外堀通りとの新常盤橋交差点を右にJRのガードを越して千代田区との区界で、外堀通りに架かる横断歩道橋の袂辺りに「龍閑橋親柱」(5)が展示されており、これは先に千代田区と中央区の区界が小伝馬町までの掘川であったことをのべましたが、これを「龍閑川」と呼ばれており、神田堀に架かっていた橋を堀が埋められ、この新しい堀川に架け代えられ、その川の西端の町に幕府坊主の「井上龍閑」という人の家があったことから龍閑橋と名付けられ、その堀川を龍閑川と呼ばれていたようで、この龍閑川も埋め戻され、この親柱がその名残となっております。
 埋め戻された龍閑川の道を江戸通りに平行して東に中央通りを越え、昭和通りも通り過ぎて200mほど来ると、右側に十思公園がでてきますが、ここに「吉田松陰終焉の地」(6)と「石町(こくちょう)時(とき)の鐘」(7)と「伝馬町牢屋跡」(8)の碑があり、公園の北隅に故郷の萩城跡付近より掘り出された石に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまじ大和魂」の松蔭の辞世の句碑があり、公園のほぼ真ん中辺に鐘楼があり、石町時の鐘があり、これは江戸の本石町(ほんごくちょう)(現在の日本橋室町四丁目の先に述べた長崎屋の辺り)に城下の人々に時を知らせた鐘で現物は宝永8年に改鋳されたもので、現在地に移転された理由は不明、また吉田松陰の石碑の横にひっそりと「伝馬町牢屋跡」の説明版があり、旧北町奉行所のあった常盤橋外より慶長年間に移転され明治8年まで存在し、獄舎は揚座敷、揚屋、大牢、および女牢部屋にわかれ、90~130人の収容が可能で、吉田松陰の安政大獄時には90人が収容されたとのこと、広さは、十思公園とその傍の村雪別院(9)と大安寺が跡地に建てられた。
   
(6)吉田松陰終焉の地
 
 
(4)長崎屋跡   (5)龍閑橋親柱    
         
       
     
(7)石町時の鐘 (8)伝馬町牢屋跡
   
        (9)伝馬町村雪別院


小伝馬町交差点に出て江戸通りを浅草橋に向かって少し歩きましょうか、浅草橋の左側手前の小さな緑地の中に「郡代屋敷跡」(10)の名盤が立っており、幕府の直轄地の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などの関東一円を管理する関東郡代の役宅の跡であり、その関東郡代も伊奈氏が十二代にわたっての世襲であり、その屋敷の周りが幕府の馬場であり、昭和初期に馬場廃止とともに町屋に変わった時もあったという。

 清杉通りを越え、神田川に沿い両国橋に向かい、靖国通りとの合流点に「両国広小路記念碑」(11)の石碑があり、その碑文を記すと「明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し、10万余の死者をだした。その際この辺りで逃げ場を失って焼死するものが多数だした。このため対岸への避難の便を図り両国橋がかけられた。隅田川は当時武蔵・下総両国の境をなしていた。また延焼防止のために橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野、浅草に並び称せられる盛り場に発展した。・・・・・」とあり、町奉行であった大岡忠相が江戸奉行になって早々に、江戸の火事の防火対策が急務と考え、延焼防止や避難地のために江戸市中に33ケ所に広小路を設け、恒久的な建物を禁止したとのことです。
余談ですがこの地点から神田川に50mほど向かうと柳橋に当たりますが、町屋として反映したところでもあります。
 
(10)郡代屋敷跡   (11)両国広小路記念碑


 両国橋の手前の隅田川に沿った浜町河岸通りを南に100mほどのカゴメビルの手前の路地を清杉通りの地下鉄東日本橋駅方向に150mほどに「薬研掘不動院」(12)にたどり着きますが、薬研(やげん)とはご存知の方もおられるでしょうが、昔の薬剤を砕く道具でV字型の船底のようで、現在の東日本橋一丁目から二丁目に掛けて隅田川から直接V字型の堀が掘られており、その後埋め立てられたが、その辺りにたまたま医者が多く住んでいたこともあり、薬研堀の名が残っているが、薬研堀不動院は川崎大師の東京別院であるが天正時代に建立され、江戸時代の中頃より江戸各地で「歳の市」が立ったが、12月14日の深川八幡に始まり浅草観音、神田明神、芝の愛宕神社、平川湯島の丙天神を廻って最後の28日の薬研堀不動尊に終わり、特にこの市を「薬研堀不動尊納めの歳の市」と言われ「納めの歳の市之碑」(13)が建っており、現在でも衣料品、日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することにより賑わっている。
 
(12)薬研堀不動院   (13)納めの歳の市之碑


 この薬研堀不動院の敷地に「順天堂発祥之地」(14)の石碑があり、天保9年に順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然が和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあったことと、もう一つ「講談発祥記念之碑」(15)が建っているのですが、何で講談との縁なのか碑文を見ると元禄の昔、赤松清左衛門が浅草見附付近で太平記を講じ江戸講釈の発祥となり、これがのちに「太平記講釈場」に発展して庶民に長く親しまれ、安政年間に「太平記場起源之碑」が建てられたが、その後その碑が当院に移され、関東大震災まで名物としてあったが、昭和59年に新設され、今でも12月28日に当院で講談がなされている。

 仲通りから御幸通りを清洲橋通りに出て、清洲橋に向かい浜町河岸通りとの交差点のジョナサンの近くの建物の柱壁に「賀茂真淵縣居跡」(16)の名盤がはめ込まれており、それには「古歌をとおしてわが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(1697~1769)は現在の浜松市の出身ではじめ京に出て荷田春満(かだのあずまろ)に入門し天文二年(1737)江戸に下り田安宗武(徳川三郷の一人)に迎えられ和学を講じて隠居後浜町山伏井戸の東方に住み「縣居の翁」(あがたいのおきな)と称し「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著したまた歌会など多く開きその作品は今も伝えられている。

   
(14)順天堂発祥の地   (15a)講談発祥記念碑   (15b)講談発祥記念碑
   
  (16)賀茂真淵縣居跡  


   あがた居の茅生(ちふ)の露原かきわけて  月見に来つる都人かな 」と詠みこまれている。
 清洲橋通りと浜町河岸通りとの交差点を人形町交差点に向かうと、人形町交差点の右角の薬屋の前の歩道と車道の境に「玄治店跡」(17)(げんやだなあと)の石柱があり、京都生まれの医師の岡本玄治(1587~1645)が、徳川家光が上洛中に侍医として連れて来られ、のちに幕府の医師として重用され、数多くの功績があり、家光が大病したときにも彼の薬で平癒したことで、この地に屋敷(1500坪)を与えられた。「玄冶店」の名は歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、嘉永六年(1853)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄治店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、この名が広く知られるようになった。

 玄冶店跡の石柱の並びを小伝馬町方向10mほどに読売インホォメーションサービスビルの入口の足元に「寄席人形町末広跡」(18)の石版が埋め込まれており、1867年創業、1970年廃業と103年間、落語中心の寄席演芸場であり、新宿に「末廣亭」があり、人形町は「末廣」であったので「人形町末広」と表記されたこともあり、都内の他の寄席は何れも盛り場に立地しているが、人形町周辺も初代吉原遊郭であったが浅草田圃に移転したため、盛り場が衰退し商業地として発展していき、他には見られない全席畳敷の落語定席としての最後の存在も、借地であったがために立ち退きを余儀なくされ廃業となった。

 人形町交差点に戻り南側の三福ビル方向に渡りそこを左に水天宮方向に50mほどに「大観音寺」(19)が目に入るとおもいますが、そこに「鉄造菩薩頭」が安置されているが、総高170cm、面幅54cmの鋳鉄製の菩薩頭ですが、この像は、もとは鎌倉の新清水寺にあった観音像であったが、鎌倉時代の火災に遭い損壊し、江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され鶴岡八幡宮にあったが、明治初年の神仏分離の令により、明治9年に鎌倉を離れ当地に安置され本尊となったが、鎌倉時代の鉄製の優れた作品のために都指定有形文化財に指定された。
 
   
(18)寄席人形町末広跡 (19)大観音寺
   
(17)玄治店跡        


 さらに、人形町通りを水天宮方向に明治座通りとの交差点の甘酒横丁交差点の角に「蠣殻銀座跡」(20)の名盤があり、江戸時代の銀座(現在の銀座二丁目あたり)が、慶長十七年(1612)に幕府直営ではなく御用達町人により開設されていたが、188年後の寛政十二年(1800)の6月、寛政改革の一つとして一旦廃止されたが、その年の11月に改めて人形町のこの場所に、今度は幕府直営の銀座を再開設したが、当時この付近の地名が蛎殻町だったために「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治2年の新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続した。
 続いて人形町通りと明治座通りの交差点のかどの軍鶏の親子丼で有名な「玉ひで」を右に折れ80mほどに、ビルの壁に「谷崎潤一郎生誕の地」(21)の石版がはめ込まれており、谷崎潤一郎が明治十九年七月二十四日この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれたとのことで、谷崎の活躍は皆さんご存知のことで省きますが、現在は「谷崎」というしゃぶしゃぶ屋となっております。
 
(20)蠣殻銀座伊跡   (21)谷崎潤一郎生誕の地


 さらにその通りを南に50mほどに「鯨と海と人形町の碑」(22)の鯨の石像が目につきますが、あやつり人形のバネは今でも鯨のヒゲが使われており、特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうですが、ここ人形町一帯は寛永十年(1635)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」人形浄瑠璃の糸あやつり人形の「結城座」手あやつり人形の「薩摩座」などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物が盛んで、それらの人形を作る人形師や雛人形手遊物などを商う店が沢山立ち並んでいたところから、昭和8年に正式に「人形町」の地名となった。
 これより来た道を人形町通りに戻り、人形町交差点を小伝馬町に向かい、甘酒横丁交差点との間に江戸情緒の「からくり人形時計台」(23)が建てられている。
 人形町通りをさらに小伝馬町に向かい、堀留町2丁目交差点を左に曲がり、次の細い路地を右に入ると「椙森(すぎもり)神社」(24)に着きますが、この神社は平安時代に平将門の乱を鎮定するために藤原秀郷が戦勝祈願をしたといわれ、江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、江戸庶民の信仰を集めたが、たびたびの江戸大火により神社仏閣が焼失し、その再建のために、当たりくじの富興業が行われ、当社の富も市民に親しまれ、現在も鳥居の脇に名残り冨塚の碑が建てられている。
   
(22)鯨と海と人形町の碑 (24)富塚の碑
 
   
    (23)からくり人形時計台    


 再び、人形町通りに戻り、小伝馬町方面に向かい、小伝馬町交差点の手前の、三井住友銀行とDOKOMOの間の細道を左折して昭和通りに向かって150mほどの右側に「恵比寿神社」(25)(寶田神社)があり、50mほど先の左側に「於竹大日如来井戸跡」(26)があり、さらに50mほどで昭和通りにぶつかりますと、「べったら市の由来碑」(27)(馬込勘解由の碑)が目に入りますが、この3史跡は共に関連性があり、まとめて説明しますと、徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至り譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の本尊を奉守して住民と共に現在の「べったら市の由来碑」辺りに移転し、この大業を成し遂げた功により勘解由は江戸の筆頭名主となり、後には三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比寿神を授けられ、寶田神社に安置し江戸の平穏を祈願し、現在は「恵比寿神社」とか「寶田神社」とも呼んでいる。
   
(26)於竹夫大日如来井戸跡
 
(25)恵比寿神社  
        (27)べったら市の由来碑


 恵比寿神のご神体は商業の守り神であり、毎年十月二十日に恵比寿講があり、前夜から市が立ち、中でも当時から江戸名物の浅漬大根が売られ、大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけて「ほらべったらべったら買わないで通ると着物にくっ付くよ」と戯れたことから「べったら市」の名がついたと言われているが、私も何度か冷やかしに行きましたが、値段は結構なものですが、三越デパートで買ったほうが、旨くて安いですよ(小生の感想)。
於竹大如来の縁起は、山形の庄内より18歳で馬込勘解由の召使いとして誠実に働き、一粒の米、一切れの野菜も大切にし貧困者に施したり、勝手先からいつも後光がさしていたことから、ある高僧が羽黒山のお告げによる大日如来の化身であると告げられ、持仏堂を造り念仏に専念して、貧困者の敬意が市をなしたという、有名な於竹さんが愛用した井戸の跡がここに残されております。

 今回は少し長々しくなりましたが、次回からは歴史ある品物や暖簾、食べ歩きの店の紹介をさせてもらおうかと思いますので、これからもお付き合いください。


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