そこから江戸通りとの交差点のJR東日本橋駅の入り口の壁に、見過ごしそうであるが「長崎屋跡」(4)の史跡名盤がはめ込まれており、江戸時代の薬屋の長崎屋を、オランダの商館長が一国貿易のお礼に年一度の献上品を携え、江戸出府の際の定宿として使ったが、シーボルトなどの医学者も同行してきており、日本人の平賀源内などの蘭学者や医学者が知識吸収の為に訪問し、西洋文明の交流の場として貴重な存在であった。
次に、江戸通りを西に新常盤橋に向かい外堀通りとの新常盤橋交差点を右にJRのガードを越して千代田区との区界で、外堀通りに架かる横断歩道橋の袂辺りに「龍閑橋親柱」(5)が展示されており、これは先に千代田区と中央区の区界が小伝馬町までの掘川であったことをのべましたが、これを「龍閑川」と呼ばれており、神田堀に架かっていた橋を堀が埋められ、この新しい堀川に架け代えられ、その川の西端の町に幕府坊主の「井上龍閑」という人の家があったことから龍閑橋と名付けられ、その堀川を龍閑川と呼ばれていたようで、この龍閑川も埋め戻され、この親柱がその名残となっております。
埋め戻された龍閑川の道を江戸通りに平行して東に中央通りを越え、昭和通りも通り過ぎて200mほど来ると、右側に十思公園がでてきますが、ここに「吉田松陰終焉の地」(6)と「石町(こくちょう)時(とき)の鐘」(7)と「伝馬町牢屋跡」(8)の碑があり、公園の北隅に故郷の萩城跡付近より掘り出された石に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまじ大和魂」の松蔭の辞世の句碑があり、公園のほぼ真ん中辺に鐘楼があり、石町時の鐘があり、これは江戸の本石町(ほんごくちょう)(現在の日本橋室町四丁目の先に述べた長崎屋の辺り)に城下の人々に時を知らせた鐘で現物は宝永8年に改鋳されたもので、現在地に移転された理由は不明、また吉田松陰の石碑の横にひっそりと「伝馬町牢屋跡」の説明版があり、旧北町奉行所のあった常盤橋外より慶長年間に移転され明治8年まで存在し、獄舎は揚座敷、揚屋、大牢、および女牢部屋にわかれ、90~130人の収容が可能で、吉田松陰の安政大獄時には90人が収容されたとのこと、広さは、十思公園とその傍の村雪別院(9)と大安寺が跡地に建てられた。 |