ちょっと発表



                                     2014.04.22   山崎 泰
「 私と日本橋 -6- 」

 

 前回「老舗の暖簾」をのべましたが、歴史が古いだけの老舗ではなく、歴史は若くとも、江戸並びに日本橋の粋と伝統を重んじることに、努力している暖簾も紹介してゆくことにしています。
 日本橋を渡って今回は日本橋室町、日本橋本町、日本橋本石町の区域をご案内いたしますが、ご存知の方も居られるとおもいますが、以前は家康が江戸城築城の際、小田原城築城の職人を呼び寄せ、この辺に住まわせ、小田原町といわれていました。
 日本橋室町は江戸の初めに市街整備が行われた際、「室町」と名付けられたが、これは京都室町の名を移したとも言われ、又その頃から商家が集まり土蔵(室とも呼ばれた)が建ち並んでいたからともいわれています。  何といってもこの地域の中心である三越から始めますか。


「MITSUKOSHI」  室町 1-4-1 TEL03-3241-3311

 三井越後屋呉服店は延宝元年(1673)の創業であり、この時代は地主・庄屋と小作人との一揆が多発し、中でも「国民的伝説」佐倉宗五郎の農民闘争が有名な次期に、元和8年(1622)伊勢国の商家の四男に生まれた三井高利は、52歳のとき江戸に出て日本橋本町に創業した。
 越後屋の屋号は、武家であった祖父三井高安の官位「越後守」に由来し、これまでの屋敷売り(訪問販売)から「店先売り」という店頭販売を行い、従来の半年先の節気払いを、その場の支払いで安価に販売した「現金掛け値なし」商法を当時としては画期的商売に、庶民の人気を得て江戸を代表する大店となる。
 延宝4年(1678)には近くに2店目を開き両店とも繁栄したが、同業者からの迫害と江戸の大火を機に、天和3年(1683)駿河町(現在地)に移転し、同時に呉服業の補助機関として「両替店」を設け、この両替店が現在の「三井住友銀行」である。
 明治33年10月5日に三井呉服店は、店舗内の畳敷きの広間で番頭が接客して注文により小僧や丁稚に奥の土蔵に品物を取りに行かせて吟味販売する「座売り」を廃止し、全館を現在のような展示陳列販売としてリニューアルオープンし、明治37年(1903)に商号を三井家の「三井」と創業時の「越後屋」から「三越」と命名、日本初の百貨店として発し、守護神として正面玄関にはロンドンのトラファルガー広場のライオン像を模して3年もの時間を掛けて鋳造した二頭が据えられた。一階にアンモナイトの化石があることはご存知ですね。 三越の新館と旧館の間の中央通りの信号を渡り山本海苔店に向かう。

 


「山本海苔店」   室町 1-6-3 TEL03-3241―0261


 創業は嘉永2年(1849)で天保の改革を迎え江戸の大変革期に初代山本徳冶郎が興し、明治2年(1869)に二代目の時代に明治天皇が京都へ行幸の際、東都土産の為に「味附海苔」を苦心創案した逸話は有名で、味附海苔の元祖である。
 ところで山本海苔の商標マークである丸に梅のマルウメの由来ですが、大宝2年(702)の2月6日に大宝律令において海苔が租税として徴収することが決まり、2月6日を「海苔の日」となったが、2月といえば花なら梅、最高品質の海苔が採取されるのもこの時期であり、梅も海苔も香りを尊ぶことからこの商標となり、六代目が代表商品に「梅の花」と“梅”の付く名の商品も多い。
 現七代目は日本橋川の昔本来の姿を取り戻そうと「水辺再生研究会」を発足させ会長として日本橋川の河川浄化活動に努力しているとのこと、店内は広々とし、海苔船の船底をイメージした高い天井は見事である。
 山本海苔から日本橋に向かいチケットの大黒屋の路地を左に入ると、左手に見逃しそうな小さな間口の千歳に着きます。

 



「日本橋千歳」  室町 1-6-13 TEL03-3241―1014


 昭和55年の開業であるが、「江戸の香文化日本橋千歳」を表題に香道の店であり、明治神宮や総本山長谷寺、大本山護国寺などの御用達のあるお香専門の「日本橋千歳」であり、店主は鈴木尭聖氏で、香料を専門とする会社に永年香料研究に携わり、「フレグランスの香り」や数百の香料を扱う調香師であったが、御家流香道宗家の直門となり師範免許皆伝となり昭和55年に開業となり、各種の香木と天然香料を巧みに調和した香袋が人気で、大和、奈良、鎌倉、室町、京都、日本橋の6種があるが、中でも日本橋が人気のようである。
 香を売るだけでなく「香道千歳会」を開催し、第1・3火曜日と第1・3木曜日に素人や門人達に講座を設けている。
 一坪あるかないかの小さな店内に、和服の似合う気品と洒脱な会話の使用人ですという素敵な女性に、目と会話を楽しませて頂きましたが、彼女との話で、先生曰く「香道は香りを“聞く”と表現するが、これはクンクンと鼻を近づけて嗅いだり、手で扇いで嗅ぐのではなく、人に触れて話しを聞く時に自然と呼吸するように、香りに触れる時も目を軽く閉じて、香りに気持ちを集中させて自然に呼吸をすればいいんです」と言われますと。
お暇がありましたらお香を買わずとも彼女との会話を楽しみに覗かれてはいかがでしょうか。

 千歳より山本海苔の方向に第四銀行の角を右にむろまち小路に入り、右手に有便堂が目にはいります。

 


「有便堂」  室町 1-6-6 TEL03-3241-1055


 大正元年の創業で書画材料専門店であり、筆、墨、硯、和紙、顔料を取り扱うほか、額装、軸装などの仕立てや、便箋や木版葉書など季節感溢れる和風小物も扱っているが、創業以来扱っている棒絵の具である。
 日本画の絵の具で、江戸時代には浮世絵や絵馬の彩色に用いられ、顔料と膠を練り固め棒状にしたもので、皿に少量の水を入れ、墨をするように溶きおろして使うもので、どこか日本を感じさせる豊かで深い色のようですが、手は汚れるし、手間もかかるので、現在は取り扱う店はもとより、その存在を知る画家も少なくなったようですが、求めるお客がいる限り取り揃えているそうで、京都の職人が、一本一本手作りしているため値段も高いが、「有便堂に行けばなんでもそろう。これが最大の褒め言葉ですから、それに日本古来のものをいかに次の世代に伝えてゆくか、それが長年続けてきた店としての使命だとも思っています」と店主はいい、“便利で有るように”と有便堂の屋号を考えたのは南画の大家・松林桂月であり、大正時代には横山大観や川合玉堂など日本画の大家がお得意さんであったとか。
 上質の和紙に日本橋のイラストが画かれている便箋やハガキが老若男女を問わず人気のようである。有便堂を出て、昭和通り方向に一つ目の角に利久庵が目にはいります。

 


「利久庵」  室町 1-12-16 TEL03-3241―4006


 昭和27年に開業、サット食べられる蕎麦や丼物は、当時のビジネスマンにとって定番の昼食であり、高度経済成長を支えた活力源でもあった、蕎麦と日本料理の店である。
 北海道北空知産の蕎麦の実の真ん中の部分のみを使った更科そばにこだわり、つけ汁は3年寝かした鰹節を使用し、出来上がってから4~5日間かけて落ち着かせて使用しており、当店のこだわりの一品は“納豆そば”で山葵ではなく辛子が決めてで、ネバネバ感、お蕎麦、つゆの絶妙な三位一体がよい。
 地下は小宴会席で、1階が蕎麦、2階が定食、3階が接待用宴席であるが、店主は店の活気もさることながら、日本橋室町の歴史と活気ある街つくりに奔走している。
 利久庵を出てむろまち小路と交差する小路をコレド室町方向に20~30mに割烹とよだの赤い建物が目にはいる。

 


「割烹とよだ」   室町 1-12-3 TEL03-3241-1025


 文久3年(1863) 薩長の攘夷派の活動を幕府は押さえていたが、長州藩尊攘派は下関海峡でアメリカ商船や、フランス軍艦、オランダ軍艦を砲撃したが、アメリカ、フランスの軍艦に砲撃されメチャクチャにやられたり、前年の生麦事件のゴタゴタの末の薩英戦争が起こった時代に、初代豊田米吉が構えた屋台の寿司屋がはじまりで、大変な人気をよび、その後に寿司や天ぷらを扱う食堂へと発展、さらに隣で仕出し料理を始めると、大店からの注文が相次ぎ大繁盛となり、その後江戸料理の割烹料理屋へとうつる。
 現在は五代目の若旦那が江戸料理の名人の宮澤退助氏に師事して包丁を握っており、写真の胡麻豆腐も師の教えの通りに丹念に作られており、当たり胡麻(練り胡麻)に上質な吉野本葛を混ぜ、水を一滴も使わず、牛乳だけで練り上げ、弱火で20~30分かけて、仕上げる直前に隠し味に生クリームを入れるのだとか、1階はカウンターとテーブル席、2階と3階はテーブル席と座敷の個室、カウンターでは気軽に一品料理が楽しめ、芝海老の揚げしんじょうや穴子の山椒煮など江戸料理の伝統を受け継いでいる。
 昼の彩御膳、夜の会席コースがお勧めである。四代目はさまざまな形で日本橋の地域活性化に携わり「日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会」の会長もやっており、日本橋地区の歴史、文化、伝統を残しながら、日本橋川を中心とした水辺の自然や環境を蘇らせ、次世代に向けた新しい街づくり施策を行政や学識経験者と一緒になり手がけているという。
 割烹とよだからもとのむろまち小路に戻り、本町一丁目方向に30~40mの左側に鮒佐がある。

 

 

「鮒佐」   室町 1-12-13 TEL03-3270-2731


 創業は割烹とよだの前年、文久2年(1862)生麦事件の起きた年で、初代佐吉は北辰一刀流の免許皆伝の腕を持つ剣士であったが、趣味の釣りが高じて、釣れた小鮒を串刺しにして醤油で付け焼きをするという“寿々め焼”を商いにしていたという。
 文久2年に品川沖に釣り船で出かけたが時、化に遭い佃島に漂着し、地元の漁師が雜魚を塩煮にしているのをヒントに、小魚を醤油で煮込み市中に売り出し、現在の“佃煮”の原型を創ったという。
 当時、佃煮は高価であり、一般市民の口には遠かったが、日清、日露戦争で保存性の高かった佃煮が注目され、戦争から帰ってきた人々が帰国後佃煮を買い求め、多くの佃煮店が増え大衆化した。
 現在、鮒佐の正式商標は“金鮒佐”であるが、以前三代目の大野金盛により形作られた江戸名物の佃煮を生み出し、それを記念して「金鮒佐佃煮」と商標登録されていた。
 当店の商品は通常の佃煮と多少異なり、期間限定品や江戸前佃煮、まろやか佃煮、特選佃煮、季節の佃煮、直火焼き煮豆等あり、期間限定品にはフォアグラ昆布巻きとか、江戸前にはシラスやあさり、昆布ごぼう等、まろやかでは胡麻昆布、鶏そぼろ、帆立等、特選には、鰻、穴子、はまぐり等、季節には鰯の佃煮、ふき、はす、蛍烏賊等と、店先を覗いて見ても楽しくなる。
 店先の左に、松尾芭蕉の句碑があり、寛文2年(1672)伊賀上野から29歳の春、小田原町(現・室町一丁目と本町一丁目付近)の門人である名主の俳号はト尺(ボクセキ)の借家に8年間住み、芭蕉の当時の俳号、桃青(トウセイ)は延宝5年(1677)俳諧宗匠として独立し、翌年の春、宗匠としての心意気を“発句也 松尾桃青 宿の春”と詠み上げており、延宝8年に以前紹介した深川の草庵に移住し、「野ざらし紀行」「奥の細道」を書き上げている。
私のお勧めは、鰹節と昆布の合わせだしかけでいただく「江戸佃煮ぶぶ漬セット」で、二日酔いや、胃の疲れた日などに、ほうじ茶でぶぶ漬けでめしあがれ。
 鮒佐の斜め対面に神茂が目にはいる。

 


「神茂(かんも)」   室町 1-11-8 TEL03-3241-3988


 創業、元禄元年(1688)井原西鶴の「日本永代蔵」が刊行された年に、初代神崎屋長次郎が紀州から江戸に出て、日本橋魚河岸に板舟(いたぶね)とよばれる板の上に魚や干物を売る商人たちに、その板舟の権益を商人たちに貸し出す商いから始まった。
 市場で売買された魚で蒲鉾を、鮫を使って蒲鉾の技術を応用して半ぺんを作り始めたのが最初であり現在に至り、おでんの種、蒲鉾、半ぺんのシーフードで、中でも手取り半ぺん(410円)が有名であるが、おでんの種もどれも絶品である。
 手取り半ぺんの材料は江戸時代の風味豊かな青鮫と、柔らかい身のよしきり鮫を使用して一枚一枚手作業のために、その名が付いている。
 私は時々、一口サイズの「おつまみ揚」を買うのですが、具材にごぼう、生姜、海老ねぎ、枝豆、烏賊、アスパラの6種をすり身にまぶして揚げたものである。
 神茂の対面に古めかしい建物の大勝軒が見える。

 


「大勝軒」    本町 1-3-3 TEL03-3241-4556


 大正2年創業の中華料理店の草分け的存在の人形町「大勝軒」の暖簾わけ店で、中華料理店でも界隈の高級店の点在する中では、昔風の味と安さと独特の雰囲気であるが、昼食はラーメンと餃子とシュウマイにチャーハしか無いのに満席なのであり、なぜかラーメンにピンク色のチャーシュウと1⁄4のハムが対になって入っており、ナルトと海苔がなぜか無く、チャーハンは旨いと評判である。
 人形町大勝軒は明治45年(1912)創業で、明治38年(1905)に日露戦争で日本が大勝したことからその名が付けられたが、現在は五代目が昭和63年に業態を変え「珈琲大勝軒」という喫茶店になっており、四大大勝軒(丸長、東池袋、永福町、人形町)の人形町の直系の日本橋店が唯一その味を受け継いでいる。
 神茂と大勝軒の間のあじさい通りを左の日本橋川方向に一区画ゆくと右側に弁松総本店につく。

 


「弁松総本店」   室町 1-10-7 TEL03-3279-2361


 文化7年(1810) 前年に間宮林蔵が間宮海峡を発見し、二宮尊徳が酒匂川の氾濫による荒地を開墾しだした頃、越後生まれの樋口与一が、日本橋の魚河岸に「樋口屋」という食事処を開いたが、時間のない魚河岸の人たちは、せっかくの食事が完食出来ないのを見て残った料理を経木や竹の皮に包んでお持ち帰りいただいたことが大評判となり(今でいうテイクアウトのはしり)、持ち帰り用の所望が増えたことが、弁松折詰のはじまりである。
 三代目松太郎のとき、食事処と折詰料理専門店を開いていたが、嘉永3年(1850)に弁当販売が主流となり、食事処も止め「弁当屋の松次郎」と評判になり、これを略して「弁松」とあらためた。
 徳川御三家の注文はもとより、日本橋から埼玉まで弁当を届けたという記録もあるとのこと。
 弁松の味付けは甘辛で濃いのが特徴で、煮物の味は創業時から変わらず醤油と砂糖で煮ており、信田巻や豆きんとん、たこの桜煮、かまぼこ、卵子焼は古くからある惣菜であるが、この味付けの理由は“もともと日持ちさせるために濃くした”とか“肉体労働に耐えられるようカロリーを高くするために濃くした”“砂糖が高価な時代に江戸っ子は見栄を張って沢山入れた”“江戸っ子は中途半端な味でなくはっきりした味を好んだ”などの“江戸の味”を追求した結果のようである。
 弁松のスタンダードな弁当は「並六(ナミロク)」といい、「並(ナミ)」は弁松専用の経木折のサイズ規格で、「六(ロク)」は六寸を表しており、中味は一本一本手作りの玉子焼き、メカジキの照り焼き、生姜の辛煮(生姜と昆布を佃煮風にピリカラに煮た)、野菜の甘煮、豆きんとん、と甘辛が絶妙なバランスである。
 「並七」や祝事に用いる「本七丸」「尾頭付並八丸」などには「信田巻」や百人一首にも詠われた逸品「たこの桜煮」が有名であり、三越が越後屋時代にも弁松の弁当が用達され、その関連もあって三越本店に出店しおり、勿論、高島屋、大丸にも出店している。
 弁松のこだわりは折箱にもあり、100%経木の折を使用しており、主に北海道のエゾ松と黒松の間伐材が原料で、通気性に優れ、殺菌効果もあり、おいしさを一層引き立てている。
 あじさい通りを大勝軒に戻りむろまち小路を昭和通り方向に2~30mの右側に寿司屋の繁乃鮨がある。

 


「繁乃鮨」   本町 1-4-13 TEL03-3241-3586


 明治初期に日本橋魚河岸に店を開いた魚卸商「高根屋」が前身で目利きの魚屋であり、高根屋は当時から宮内庁御用達を拝命し、神事用の魚を納めていたが、高根屋の廃業後、系譜を継ぐ初代がはじめた繁乃鮨が現在も毎日宮内庁に魚を届けているとか。
 店内は居心地のよい雰囲気で女性の“おひとり様”も多いとか、昼は広々とした付け場の職人さんの笑顔等で男女とも一人で来るひとが多く、当店の一番人気は「にぎりの1.5人前」で9貫のにぎりに巻物で1‚500円とリーズナブルであり、夜はコースで3‚000~7‚000円である。
 繁乃鮨のむろまち小路を戻り、神茂の前のあじさい通りを右に折れて100mほどの大通り(江戸桜通り)角を左折し三越側に文明堂がある。

 


「文明堂日本橋本店」   室町 1-13-7 TEL03-3241-0002


 明治33年(1900)に長崎で創業した文明堂は大正11年(1922)に東京に進出し「カステラ一番、電話は二番」のコマーシャルで知られるようになり、去年2月にリニューアルした店舗に新たにカフエとギャラリーを設置し、カフエでは「焼きたて三笠パンケーキ」などが人気であり、ギャラリーには伊東深水画伯の絵などの美術品展示されている。
 先般スペインに旅行した際に知ったのですが、日本のカステラは室町時代の末期に渡来し、信長や秀吉も好んだと言われているが、スペイン伝来のもので、スペインの「カスチラ(CASTILLA)王国」のお菓子で、それがカステラと呼ばれるようになった。
 文明堂は全国に多数の店舗があるが、昭和21年に長崎に(株)文明堂総本店、神戸に(株)文明堂神戸店、浜松には(株)浜松文明堂、横浜に(株)文明堂、新宿には(株)文明堂東京、銀座に(株)文明堂銀座店、麻布には(株)麻布文明堂と現在7社の文明堂がそれぞれ分離独立の会社となっており、それぞれの落下の店舗名も色々で、文明堂日本橋本店も(株)文明堂東京の落下となっており、各社の製品が別々なので、地方には各社の出先店舗がそれぞれあるため、目的の品を求めるときは店舗の確認が必要の場合が生じることがあり、皆さんご存知の「ハニーカステラ」商標のカステラも日本橋本店の販売品であり、長崎の総本店でも同名のカステラを販売しているが、中味は違うとのこと。
 「カステラ一番、電話は二番、3時のおやつは文明堂」のコマーシャルが有名であるが、オーストラリヤから来日したバーグ夫妻の手作りのクマの操り人形にカンカンダンスを躍らせているが、このCMの「3時のおやつは文明堂」の一節は関東地方だけに流れており、関東以外の子供に聞いても知らないとのことです。
 江戸桜通りを三越方向30m位に貝新がある。

 
   

 

つづく


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