ちょっと発表



                              2014.05.22   山崎 泰
「 私と日本橋 -7- 」

  「日本橋貝新」  
室町 1ー13ー5 TEL 03-3241-2731
 

 慶長元年(1596)家康が内大臣になり秀吉の終焉近い時代に伊勢桑名を発祥の地とし、徳川家康が江戸城に移った天正18年(1590)に、
家康の信任を得た大阪佃村の漁民30余名が江戸に移住してきた。
 三代将軍家光の時代に町家、武家との居住分離が始まり、移住して来た漁民達も別の住まいが必要となり、幕府は漁業に便利な生活の場として鉄砲洲の東の干潟の使用を許可し、天保2年(1645)鎖国に突き進み、鎖国の犠牲のヒロインとなったジャガタラお春の事件のころ、佃漁民は島を造り上げ、郷里の佃村にちなんで「佃島」と名付けたのである。
 鮒佐でも述べたように、江戸幕府の台所に出入り自由の佃島漁民は新鮮な白魚を主に献上し、残った雜魚を魚河岸で商いしていたが、佃島は離島のために海が荒れた時は漁が出来ない時のために、雜魚を塩煮してから干し物にしていたが、やがて雜魚だけでなく江戸前の新鮮な白魚やハゼ、小海老などの色々な小魚を醤油で煮込み始めるようになった。
 日持ちのする佃煮は大変に重宝な食べ物であり、栄養もあり、最適な保存食、非常食として明治政府の軍用食として馴染まれ、日本中に広まったことは、前にも述べましたが、当店の人気は見た目もきれいな六角の秋田杉柾の詰め合わせです。

 江戸桜通りを中央通りに向かい、交差点の右側のコレド室町に入ると1階に木屋とにんべんがありますが、まずは木屋を紹介しましょう。

 



  「木 屋」                   室町 2-2-1(コレド室町1階) TEL 03-3241-0110
 

 本家は豊臣家の薬種商のご用達商人として林性であるが、大阪夏の陣の後、弟が家康の招きで江戸に下り、林家が二都に分かれたため、「林」の字を分けて「木屋」を号し、天正元年(1571)本町二丁目に開店したが、明暦大火(1657)後に室町一丁目に移り、本家木屋は小間物、塗物、蝋燭等の現在の総合商社的存在であったが、本家木屋に「暖簾分けは許すが本家と同じ商品を扱うことは許さない」という掟があり、そのため桑名生まれの伊助少年が本家木屋に年季奉公し本家木屋の隣りに店を開くことを許されたが、何の店にするか色々考えた伊助はその周辺の魚河岸や材木問屋へ通う料理人や大工が多い土地柄に目を付け、自身も包丁の町桑名の出身ということもあり、大工道具や包丁を商う打刃物屋になることとし、アメリカやイギリス、その上ロシヤの艦隊が日本に来航してくる中、老中松平定信が長崎の防備だけでなく江戸湾と蝦夷地の防備の強化を決めた寛政4年(1792)に創業し、品物を見る目が優れていて、良品を仕入れ販売し大繁盛したのである。
 正月の餅を切りやすくするためにアゴ(刃元の先端)を丸くした「菜切り包丁」や鮪を好んだ江戸っ子ゆえにきれいな鮪のサク取り出来るように刃先を四角にした「刺身包丁」などを考えた江戸ならではの包丁とのことです。
 当時暖簾分けした打刃物木屋、三味線木屋、化粧品木屋、文房具木屋、象牙木屋等数店舗が並び「室町に花咲く木屋の紺のれん」とうたわれていたとのことが、明治の「東京名物志」に記述されているとのことであるが、今はこの打刃物木屋のみである。
 現在では、打刃物はもとより、爪切りやおろし金などの小金物の外、料理道具のまな板やセイロ、落し蓋、江戸びつなど金物以外の物も販売商品に扱っている。

コレド室町の同じ1階にあるにんべんを覗いてみましょう。


 




  「にんべん」                   室町 2-2-1(コレド室町1階) TEL 03-3241-0968
 

 伊勢国三重郡から高津伊之助は元禄4年(1691)に江戸に出てきて雑穀屋に年季奉公し、元禄12年(1699)に独立し、四日市河岸(現・日本橋1丁目9番地)土手蔵前に戸板2~3枚を並べて鰹節や塩干の販売を初め、宝永2年(1705)に屋号を伊勢屋とし名前も伊之助から伊兵衛と改名し、商標は伊勢屋と伊兵衛のにんべん「イ」と商売を堅実にする鈎型の「┐」と合わせて「カネにんべん」としたが、江戸の町民は伊勢屋のことをだれ言うとなく「にんべん」と呼ぶようになったとのことです。
 創業以来、鰹節を中心に商いを続け、中でも自慢の逸品が“本枯(ほんかれ)鰹節”であり、店内に削り場を設け、削りたてを袋詰して販売しており、本枯鰹節を使った出汁やつゆも多種あり、最近では糀を使ったものもある。
 “いろまめほへと”という納豆を丸ごとフリーズドライし、納豆菌を生かしたまま「抹茶味」「塩味」「キシリトール味」「きなこ味」「苺味」「梅しそ味」「コーヒー味」の7種類のフレーバーを付けている。
 当店には本物の鰹だしのおいしさを知っていただくとともに“一汁三菜”という健康バランスのよい日本古来の食事の良さを多くの人に伝えていきたいとのことで、店内に「日本橋だし場」を設けており、だし汁が100円、つゆ物、おでんだし、ふりかけご飯と食するコーナーがあり、なかなかの人気です。

コレド室町を出て中央通りを三井本館に渡り、三井本館の三井記念美術館も一見する価値は多いにありますが、その前を江戸通り方向に隣の日本橋三井タワーの1階に千疋屋総本店がある。


 




  「千疋屋総本店」               室町 2-1-2(日本橋三井タワー内) TEL 03-3241-0877
 

 天保5年(1834)経済流通が活発になり、農村の自給自足の形態が崩れ、博徒が多くなり八州廻りとの抗争が始まり、あの国定忠治が人を殺し赤城山篭城生活を始めた年、武蔵国埼玉郡千疋の郷(現・埼玉県越谷市千疋)の侍で、大島流槍術の指南であった初代大島弁蔵が、江戸葦屋町(現・日本橋人形町3丁目)に「水菓子(みずぐわし)安うり処」の看板を揚げ果物と野菜類を商う店を構え「千疋屋弁蔵」といわれた。

 2代目文蔵の妻むらが、元治元年(1864)茶の湯の縁で浅草山谷の料亭八百善に上がるようになり、ここに出入りする各界の寵を受け、徳川家御用商人となり繁盛し、慶応3年(1867)に3代目の代次郎が日本橋本町(室町)に店を移し、当時としては最新式の洋館三階建ての店舗とし、外国産の果物の輸入や国産果物の品質改良に心血を注ぎ、我が国初の果物専門店が創立され、千疋屋総本店の基礎がなされ、その間暖簾わけで京橋千疋屋、銀座千疋屋が出来、明治20年(1887)にフルーツパーラーの前身となる果物食堂を創業し、その後銀座松屋、浅草松屋に本格的なフルーツパーラーを出店し、現在関東に直営店16店舗、出店販売店全国に約50店を有し、総本店に2階にパーラーが在りマンゴカレーライスが人気のようで、フルーツビュフェは一ヶ月前から予約で、なかなか難しいようです。

 現6代目は幼い頃、格好の遊び場だった日本橋室町界隈を“美しい水辺の光景を取り戻す活動、商売の神様「福徳神社」の再建活動”などに関わっており、江戸時代の賑わいを取り戻すような企画も検討しているようです。

日本橋三井タワーを本町通りの対面に海老屋美術店が目に入ります。

 

 

  「海老屋美術店」                          室町 3-2-18 TEL 03-3241-6543
 

 延宝元年(1673)に京都で創業し、社寺仏閣や御所に蒔絵や漆器などの調度品を納めていたが、明治維新の際、天皇家が東京に移られた為に店も明治4年(1871)に東京日本橋へ移転し、以後も宮内庁御用達の店であったが、現在の古美術に携わるようになったのは六代目からで、屋号も「海老屋」にしたのもその頃のことで、昭和天皇の崩御の数年後に御所出入りの札を返上した。

 現在の九代目は若いのに半纏をまとい、腰に手拭をぶら下げ、八代目の近代的な店内や美術品に反発し、祖父や曽祖父時代の店のような土間があって和仕立てで、お客様とゆっくりお話しできるような空間が欲しいと、一人でコツコツと板張りの茶室まで作り“日本橋や街並みを描いた版画や日本橋で作られた生活雑貨、また長崎屋とも縁の深いオランダ貿易にとるガラス器や陶器に注目して購入したり、とにかく日本橋に縁のあるものを見つけ出して次世代に繋げていくのが私の役目”と言っており、展示物の背景と共にどんな使い方なのかを手書きの紹介文を添えたりし、“気軽にお立ち寄りください。一人では寂しいので”と三宅店主の気さくなトークを聞くに、骨董の魅力にはまってしまいそうであり、古びた扉を開けると昭和初期にトリップしたような雰囲気に包まれ、可愛い江戸ガラスの器や味のある暮らしの道具、気持ちが温かくなる骨董や美術品に出会え、以外とリーズナブルで300円ぐらいのものから出会え、骨董や美術品に興味を持ってもらいたいと年2回「がらくた市」を開いているとのこと。

 海老屋を出て中央通りを江戸通りに向かい室町3丁目交差点を左折し、新常盤橋に向かい常盤小学校の対面の位置のいずもやがある。


  「いずもや」                           本石町 3-3-4 TEL 03-5797-2148
 

 昭和21年(1946)の創業で今でも当時の建物のままで、2階への階段を昇り降りの際ギシギシと音を軋ませるが、廊下も柱も床の間も磨き上げながら大切にしており、店内にはさりげなく浮世絵や掛け軸、安岡章太郎の随筆集「風のすがた」で紹介された蕪村の「書艶及牌詰」など日本橋らしい落ち着いた雰囲気を感じさせており、本館の裏には別館もあり、三越にも出店している。

 初代は若くして亡くなり、その遺志を継いだ女将が長らくまさに“細腕一本”で店を切り盛りしてきたことでお客さんに認められ、当店のこだわりを守り続け、亡くなりましたが、現在若い三代目が引きついているが、本館を磨き上げて大切にしていることは勿論ですが、通常の鰻料理は勿論ですがこだわりの料理を紹介すると「蒲の穂焼き」であり、貝塚から鰻の骨が見つかったように古代から鰻は食され、包丁や醤油や味醂の無い時代の当時あった唯一の調味料の塩を振って焼いたものを現代に再現させて「いずも焼」と称し、魚と塩で発酵させる調味料の“魚醤”を世界で初の鰻100%で作った魚醤を蒸した鰻につけながら焼き上げるという最高の贅沢を極める鰻料理であり、双方とも予約をしたほうが懸命のようです。
コース料理も「懐石+鰻料理」が3コースと「鰻づくしコース」が3コースある。

 いずもやを出て江戸通りを中央通りに戻り、室町3丁目交差点を渡り左に2~30mに佐々木印店を覗きましょう。

 


  「佐々木印店」                            室町 4-4-2 TEL 03-3241-0211
 

 佐々木印店の歴史は寛永20年(1643)までさかのぼり、鎖国により長崎の出島でオランダの貿易の独断上となり、特に寛永の銅銭や日本の樟脳の輸出を増大させた頃で、初代は幕府より「伊賀」として国名を名乗ることを許された佐々木伊賀が、江戸幕府のご細工所に召しだされ、幕府御用達の“御印判師”と成ったのが始まりで、以来歴代将軍や御三家、御三郷、諸大名の印章を江戸幕府崩壊するまで御印判師を世襲しており、印章の製作もさることながら、花押の作成も行っており、徳川家康の花押印注文控えもあるとか、天明8年(1788)から明治元年(1868)までの由緒書、御用日記類、各種願書、印章・花押印注文書、見本印諸集など77点が古文書として残されている。
 店で扱う印材はどれも最上級のもので、“天然素材は個々の色味が異なるため、出会いは一期一会だ”と店主は言う。
客層は政治家や日本橋の老舗企業や都内の有名実業家など古くからの馴染み客が多く、象牙では85,000円以上で、水牛で30,000~40,000円であり、眺めているのが精一杯である。

 佐々木印店から神田に向いすぐの角を右折し、時の鐘通り(以前紹介し、現在は恩師公園にある時の鐘が江戸時代にこの辺にあった)を昭和通り向かった一つ目の角にてん茂がある。

 


  「てん茂」                              本町 4-1-3 TEL 03-5797-2148
 

 明治18年(1885)に初代奥田茂三郎が日本橋にて屋台で創業し、明治40年(1907)に現在の地に店を構え、以来129年継承しつづける胡麻油で揚げた江戸前の味を四季折々のネタで楽しませてくれ、「東京特産食材使用店」の登録許可を受けており、東京産の野菜を主に取り入れているが、特に才巻海老(車海老の子供)を使ったかき揚げは絶品で、他に夏場限定の外房アワビの1⁄4カットや、秋の栗の渋皮揚げは当店独特のもので、他に私が食した中にはパセリや、辛子レンコンの揚げたものなど珍しいものも口に出来、お持ち帰り用の「竹皮包み天丼」があり、穴子の天丼であるが人気があり前日までに予約が必要である。

 カウンターが9席で座敷席が10位、お値段は黙っていても領収書が出てくるほど多少高めでお一人様9,500~13,000円であるが、店の雰囲気と、現在は三代目と四代目の親子で息のあった段取りで揚げる老舗の味は堪能できる。
ここで余談となりますが、てん茂の三代目主人の話を基に“天ぷら屋の歴史”をつづった一文を紹介すると、安土桃山時代にキリスト教の宣教師と共に渡来した天ぷらは450年以上たった今、南蛮料理からの代表的な日本料理として成長し、天ぷらが日本の味となったもので、当初長崎から広まった魚介類の揚げ物で、衣は付けずに揚げたり、すり身にして揚げていたそうで、何時から衣を付けるようになったかは定かでないとのこと、天ぷら屋や寿司屋は、初代てん茂も当初は屋台での営業であり、19世紀の初め頃から居住営業が始まったようで、ここでいう店とは、調理現場が室内のあり、外の通りに面したカウンター越しに商品を出す構造で客は屋外での立ち食いであり、今でも天ぷら屋や寿司屋にカウンターがあるのはその名残りで、揚げたてを即刻提供することの利便性も兼ねている。

 江戸から明治初頭までの火力は炭火であり、火災が起きやすかったので屋台でやっていたようで、現在はガスであるが、それまでは炭やコークス等であり、火が舞ってしまい、一定の温度に保つのに苦労していたがガスになってからは、天ぷらが座敷料理にまで上り詰め高級料理化したことも、その一端にあるようで、大正時代にお座敷天ぷらが定着したようである。

油にはサラダ油、ごま油、菜種油、オリーブオイル、ひまわり油と多種あるが、天ぷらにはどんな油が使われていたかというと、菜種油かごま油が当初は主であったが、現在では精製したサラダ油や煎らないで絞った太白ごま油のほうが好まれるとのこと、胃にもたれないイメージがあるらしいが、煎ったごま油はアルカリやビタミンEが豊富で、酸化しにくく、もたれなく、なんといっても風味が素晴らしいので「てん茂」では初代よりごま油で現在も続けているとのこと、余談ですがごま油や菜種油は、元禄期に浜(九十九里浜)の干鰯の肥料によって東海道諸州の米以外の作物の栽培が盛んになり、菜種やごまの生産量も増大し、天ぷらをはじめ江戸の食文化が豊かなものに変化させられたとある。

 今日では野菜の揚げ物も天ぷらと一括りに称しているが、本来は野菜の揚げ物は精進揚げと呼び、戦後過ぎあたりまで天ぷらとははっきりと分けられており、江戸時代はもちろん江戸前で獲れた魚介類だけであり、穴子、きす、めごち、海老、いかといったものであり、(大阪では現在も天ぷらというと衣を付けないさつま揚げのことをいうようで)「てん茂」ではさすがに江戸前の海老ではなく九州の養殖地よりの入手となるが、これも養殖技術による安定入荷を求め「てん茂」「弁慶」「天松」といった天ぷら各店と協力し、養殖企業や問屋と安定供給の情報交換と信頼により、良い商品を仕入れることに心がけているとことです。

 ところで天ぷらの語源は一体どこから来たのかいろいろ諸説があるようですが、まず、ポルトガル語のTempero(調理)という言葉、天ぷらは16世紀の安土桃山時代に南蛮船によって日本に伝えられた西洋料理の第一号とされており、また、スペイン、イタリア語のTempora(天上の日)とする説もあり、この日は獣鳥肉を食さず魚肉や卵を食べたことから、魚料理の名称となったといい、「天婦羅」という字は、油を万葉仮名風に“あぶら”と書いたものを音読みにしたという説もある。
またまた余談ですが、世界の喜劇王のチャールズ・チャップリンは天ぷらが大好きで、海老を36本も食べたという話もあり、来日した際は必ず天ぷら屋に立ち寄ったといい、今は暖簾を下ろしてしまった茅場町の「稲ぎく」がひいきであったようです。

 てん茂の前の“時の鐘通り”を昭和通りに向かって150mほどにホテルかずさやがある。

 


  「ホテルかずさや」                          本町4-7-15 TEL 03-3241-1045
 

 明治24年(1891)に長野県で養蚕場を営んでいた初代工藤由郎が旅館を開業しようと東京に出て来て、開業していた「上総旅館」を買い取ったのが始まりで、江戸時代より東海道の起点であり、商いの中心地であった日本橋には宿屋が集まり、地方の商人が数多く宿泊し昭和初期まで続き、三代目が高度経済成長や東京オリンピックの開催で、都内にホテルが続々と誕生し、ビジネススタイルの変化もあり、旅館からホテルに形を変えて「ホテルかずさや」として新たなスタートを切った。

 現四代目が青年部会長の時に、ホテル前の通りを「時の鐘通り」という名称を決めて中央区に申請して今日にいたり、この小さなエリアは前述したように江戸の時を知らせる“時の鐘”や、長崎屋があったり、与謝蕪村が入門し生活した早野巴人の家や、忠臣蔵の大石内蔵助が江戸入りの際投宿した小山屋もあり、これらの歴史を「時の鐘通り」という名称から感じて欲しいといい、同じ想いから日本橋地域ルネッサンス100年委員会として“日本橋かるた”の製作にも携り、“上毛かるた”をヒントに、日本橋の偉人や、名所、名産を登場させ、歴史を次の世代へ繋ぐことに努力している。

 ホテルかずさやから昭和通りの角に大江戸がある。


  「大江戸」                            本町4-7-10 TEL 03-3241-3838
 

 創業寛永年間(1800)ペリー提督が軍艦4隻で浦賀に来航した頃、初代草加屋吉兵衛画江戸の地に“うなぎ割烹”の店を構え“蒲焼”の歴史と共に歩みを重ねてきた「大江戸」であり、昔の鰻屋といえば座敷が主流でメニューも無く、料理が次々と運ばれた後に鰻で締めくくるという贅沢で高価な食べ物であり、お客も名だたる人々であったようであり、商談や宴会が主であったが、近年は家族や女性同士が来るようになり、幅広く利用できるお座敷は勿論、個室や暖簾で仕切った個室風の席もある。

 “岸朝子氏のお気に入りの日本橋のうなぎ屋”として有名で、“馥郁とした香りの中に、奥深い味わいをつつみこむ伝統の味覚”と評されている。
 土曜日だけの「いかだ」が人気であり、これは開いた鰻を半分にきらずにそのまま焼き上げ、いかだのように2枚、3枚と並べたお重で、平日は1枚のいかだ丼がある。店内の天上は船に見立てた船底天上で、今では貴重なつくりとなっている。

 時の鐘通りを中央通りに戻り右折して神田駅方面に向かい、室町4丁目交差点を左折してJRのガードに向かい100m程の左側の狭い路地に蕎麦屋の砂場がある。

 


  「砂 場」                             室町4-1-13 TEL 03-3241-4038
 

 藪蕎麦、更科と並んで蕎麦屋の三本柱の砂場であり、もともとは大阪城の普請のために資材が集まった場所を“砂場”と呼んで、そこで蕎麦をまかないとして出したのが始まりらしく、ここがそば切りの発祥とする説もある。当店は慶応年間に高輪魚藍坂で砂場を創業、明治2年に日本橋に店を移し、三代目が「天ざる」を考え出したといった工夫で客を魅了しており、砂場の蕎麦は2種類あり、蕎麦の実の芯の部分だけを挽いた更科粉を玉子でつないだ見た目も味も上品な蕎麦は“ざる”として出され、実の外側も入ったいわゆる一番粉を使った蕎麦は“もり”として風味のある蕎麦にし、鰹を本節だけで取った出汁を代々伝わるかえしを使ったものにもり蕎麦をもちいている。私は貝柱をあられに見立てた“あられそば”が好きであるが、冷やかけをベースにした“ぶっかけ”の“三味そば”も好評であり、最近では女性が一人で来店もあるが、昔なじみの客が多く、昼間でも半数の客はそば酒を楽しんでいる姿に歴史観が見られる。

 ここで“江戸ソバリエ協会”の人の話を紹介すると、「蕎麦は江戸で完成した江戸っ子の心の味という食べ物である」といっているが、蕎麦は寺社から庶民に広まった食べ物であり、蕎麦を作るには製粉しなければならず、臼は縄文時代からあったようですが、鎌倉時代に僧侶が宋から挽き臼を輸入し、製粉や粉茶の粉文化に大陸の技術や文化をいち早く享受した寺院で定着したが、とはいえ高価なものであり、麺類は最初素麺であり、次にうどんでその後“きりむぎ”が登場し、“そばきり”が生まれ、江戸で“そばきり”が最初に食べられたといい、慶長19年(1614)に京都のお坊さんの「慈性」が残した慈性日記に“江戸の天台宗の他の寺の2人と風呂屋に行ったがいっぱいだったので江戸常明寺でそばきりを食べた”と記されており、当時蕎麦は庶民の口には入らず、寺で作られ寺で食されていたようであり、そば屋の屋号に○○庵が多いのも寺から伝わった歴史が反映されている。

 江戸時代には行商の時代であり、外出して食事等しなかった時代であるが、蕎麦屋の第一号といえば寛文年間(1661~73)頃、日本橋瀬戸物町(現・室町)に“信濃屋”が開業し、当時の日本橋は日本一の食センターとして全国の食材が集まっていたことから日本橋発祥となったのでしょうが、その10年後に三井越後屋呉服店が“店頭売り”商法を始めた。
信濃屋で出したそばは“けんどんそば”とよばれており、寺院で食されてきたそばは“後段そば”と呼ばれ、茶懐石などの〆として出されたことにあり、けんどんそばは独立した単品として供されており、当時はつゆに付けて食べていたのですが、鰹節、醤油、味醂などは普及しておらず、ダシとかえしの現代のつゆは完成してなく、“垂れ味噌”と呼ばれたつゆが出され、これは味噌に水を加えて布で漉した汁に、大根の絞り汁、陳皮、シソ、梅干し、のり等たくさんの薬味を入れて調味料としたようである。

 室町時代から昆布、椎茸、いりこ、鰹節などを使った煮ダシはあったが、江戸の食の基本の鰹節と醤油、味醂、酒といった調味料が江戸中期に普及し、鰹ダシとかえしを使った江戸のそばつゆが完成し、前述した“にんべん”が瀬戸物帳に移転したのも享保5年(1720)の江戸中期にあたる。
江戸そば御三家(更科、藪、砂場)の由来として、「更科」は信州更級郡出身の布屋太兵偉が故郷の更級と麻布に屋敷を構えていた保科家にあやかり“更科”とし、普通のそばは一皮だけ剥いて使うそばの実を更に剥き、芯の部分だけの更科粉を使用するため、色は薄く気品漂う光沢があり、淡泊な味わいが特徴である。
 「藪」は江戸時代雑司ヶ谷の鬼子母神近くのそば屋が藪の中にあったことから、藪そばと呼ばれ始めたとされ、“神田連雀町”と“浅草並木店”“上野池之端店”を藪御三家となったが、一般的に一皮剥いた二番粉を使用するので更科より色が濃くそばの風味が強い。
 「砂場」は豊臣秀吉の大阪城築城の際、工事現場の砂場でそばを賄いとして出したのが始まりで、通称砂場と呼ばれていたが、いつしか江戸に進出し、寛延4年(1751)に薬研堀で“大阪砂場”が流行ったと記録があるが、神田連雀町の藪そばを始めた人物がもともと営業していた店が砂場系だったので、砂場と藪はルーツで関係があり、前回紹介した藪伊豆も同様である。

 そばのうんちくが長くて申し訳ありませんでしたが、砂場を出て大通りをJRのガードに向かい次の角に茶色の建物の花藤がある。

 


  「花 藤」                            本石町4-5-9 TEL 03-3241-0087
 

 生花店として全国で4番目に古い150年近くの歴史を有する花藤で、慶応元年(1865)フランスやイギリス兵の居留地の勝手な拡張や横暴な行動が目につく時代に初代新呑藤吉が三河安城から江戸に出て日本橋本石町に創業し、「藤吉」の一字を取り「花藤」とした。

 明治の初期まで頭にちょんまげを結っていたために“ちょんまげの花屋”としても人々に親しまれていたようで、初代も2代目も働き者で、2代目の六松が当時としてはモダンな3階建ての煉瓦造りにし、当時の営業内容もいわゆるパーティー用に飾られる花であり、レストラン、演舞場、日本橋界隈の大企業が上得意であった。
 現在は季節の花を予算に合わせて花束にしてくれる他、主にカーネーションを使って犬や猫など動物の形を作るアレンジメント「お花のぬいぐるみ」が大人気で5,000円からあり、また長期保存可能なプリザードフラワーの種類も豊富のようであり、人形町にも支店がある

 大分長くなりましたが、次回は昭和通り以東の人形町を中心とした広範囲となります。

 


                                   つづく


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