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我がオールデイズ

2020.05.08

5組   柳川壱信

 演奏する立場にあって、中学二年次に吹奏楽部でクラリネットを手にしたが、まるでモノにならなかった思い出しかなく、以降もっぱら聴く側で常に音楽は空気のような欠かせない伴侶となった。
 誰もが人生の思い出に伴う流行り歌のいくつかを携えるように、私にも、そのメロディーを聴くや当時の思い出が鮮やかによみがえる音楽がある。私なりの、云わばオールディーズだ。

<小学校・中学校時代>


 先ず「リンゴ追分」。小学三・四年の頃である。それまで耳にする歌のリズムと異なって一音一音がとても長く美しく、何と素晴しい歌い方なんだろう!と、歌い手は誰なのか認識ないまま、その歌唱力を子供心に感じ入っていたものだ。後年、美空ひばりであったことを知る。忘れ得ぬ歌謡曲、最初の出会いであった。
 「湯の町エレジー」。近江敏郎が歌った。この曲を聴くと、伊豆・伊東の駅前で危うくタクシーに轢かれそうになったこと、旅館の窓際でせせらぎを眺めていた夕暮れ時、BGMとして流れていたのが湯の町エレジー。 親父に付き合わされての初めての旅行、子供の私を出汁に使ってやって来た伊東競輪場。この曲で一気にタイムスリップするほどしみじみと思い出す。
 三橋美智也の「哀愁列車」。中学卒業時、父兄同伴の謝恩会のみんなの前で歌った。同級生に卒業間際の教室で教わったものだ。多分堅物と思われていた自分におよそ相応しくない場面であったに違いない。三橋美智也の名を聞いただけで、歌ったそのシーンと仲が良かったその同級生を思い出す。

<大学時代>
 大学受験時代、L盤アワーであったかS盤アワーであったか、夜のラジオ放送による洋楽番組が受験準備の月刊誌・蛍雪時代とともに欠かせない机上の伴侶となっていた。先ずオープニング曲が素晴しかった。マントバーニ・オーケストラであったと思うが「引き潮」である。はなから何とも云い様がなく情感溢れる時間をもたらしてくれた。そして、次々と妙なる洋楽が打ち寄せる波のごとく登場した。
 筆頭はビクター・ヤング演奏の「エデンの東」。 ヒットチャート十四週連続トップまでの記憶が自分にはあったが、実は三十五週連続で一度二位に甘んじて以降再びトップの座を奪還、結局通算七十九週トップを独占した信じられない大記録になったという。映画は後年になって観ているが、主役のジェームス・ディーンが彗星のごとく登場し早世してしまい、世界中の若者と同様に憧れのスターを惜しんだ。
 そうだ、映画といえば、ドクトル・ジバゴ。そのテーマ曲「ララのテーマ」。ずっと後年、多摩に住んで頻繁にビデオで観ることになる。ここぞというシーンでテーマ曲がバックに流れる。いつ聴いても胸がいっぱいになる、我ら夫婦好みのベスト曲だ。
 そしてイタリア映画「鉄道員」の哀愁を帯びたサウンドトラック。けな気な子役の声を挿入した一曲は後に繰り返し聴いた。

<青春時代>
 さて、青春時代の好きな洋楽は挙げたらきりがないが、敢えていえば、プラターズの「夕陽に赤い帆」、「煙が目にしみる」、「オンリー・ユー」。彼らの澄んだ伸びのある声とハーモニーにしびれた。割合高額のステレオプレーヤーを何度も買い換えながらの長い期間にも、常に掛け続けてきたナンバーといっていい。なお煙が目にしみるは、妻の母が若いころ特に好んで聴いた一曲という。原曲は昭和八年ミュージカル・ナンバーであったようで、以降ナット・キング・コールやフランク・シナトラなどもカバーしている。時代からすると、シナトラであったと思う。そのシナトラ盤で聴くと、当時としてはかなりモダンな歌い上げかただ。母・娘で繋いだ一曲になるが、お義母さんはモダンであった。

「ラブ・サム・バディ」(昭和四十二年、ビージーズ)。我ら夫婦ともポピュラー音楽の世界を革命的に変えたとされるビートルズには、何故か見向きもしなかった。むしろ、少し地味であったサイモン&ガーファンクル、ビージーズに惹かれた。敢えて挙げたい一曲はビージーズのラブ・サム・バディ。後に高齢者に仲間入りした頃、マイケル・ボルトンがカバーしたのを聴いてハートを揺さぶられるような衝撃を受け、以来イカレかけたBOSEの機嫌を取りながらしきりに聴くようになった。「夜空のトランペット」(昭和三十九年、ニニ・ロッソ)遥か遠くまだ茜色が残る空の果てに、吸い込まれるように流れゆく重厚で伸びが柔らかい金管の響き。ごく最近、それこそ何十年ぶりに聴いた。今や取り戻せない遠く去った時代が懐かしく、堪らなく切ない気持ちになった。今思うと、一押しの音のアルバムかも知れない。これらの曲すべてが我ら青春時代の背景に記録されたサウンドトラックそのものだ。

<二十代後半>
 二十代後半、森進一の「港町ブルース」。私は印刷会社で広告制作の責任者をしていた。折りしもアメリカで始まった大量仕入れ大量販売による格安商法の「スーパー」が日本に登場した。その先駈けとなった会社に出向して宣伝部に加わり、冬季、金沢市に新店舗出店準備のため来ていた。その日の作業が一段落して、上着を店舗に残してワイシャツ姿のまま仲間と酒場に繰り出した。結構酒が廻って、店内に流れる港町ブルースに後ろ髪を惹かれる気分で外に出た。雪だ!雪がしっかりと降って、夜目にもはっきりとした白い世界になっている。ワイシャツ姿の身なりで寒さに震え上がった。この曲を聴くたび、まざまざと昨夜のごとく思い出される。

<先輩との思い出>
 起業した友人のオーナーに助力するようになって間もない頃である。職場の先輩役員と銀座を振り出しに高田の馬場の飲み屋にやって来て、朝方まで飲んで明かした。コインを入れて選曲すれば歌を発するジュークボックスがあって、何遍も好んで掛けた一曲があった。都はるみの「北の宿から」である。先輩役員は早稲田大学の名ラガーであった。女優であった娘の某国会議員とは絶縁状態にあり、使命感のような気持ちからか役不足を承知で、よりを戻せないものかと議員会館に足を運んだこともあった。北の宿は、それらを走馬灯のごとく思い起こさせてくれるのだ。
 先輩役員が他界して後年になるが、自分はホテル現場を任せられ、そこの開業に専念していたが、半端でない苦労の渦中にあって、ストレスを和らげようと、ウォークマンで聴いていた忘れられないアルバムがある。NHKで放映した特別番組シルクロードのテーマ曲(喜多郎作曲)とショパンのピアノ協奏曲1番(ブーニン・ピアノ演奏)である。幾度となく繰り返し聴いた。シルクロードのテーマ曲はオーナーとともにホテル敷地内の離れに設けた山荘で好んで鑑賞したものである。この二曲は哀切感伴う特別な思い出となった。そして二、三年の星霜が過ぎて、久し振りに東京の本部に戻ったある日、幹部が連れ立って一杯飲った後、歌舞伎町のカラオケバーに繰り出した。そこで、何と美空ひばり最新の演歌「乱れ髪」なるものをオーナーが歌ったのだ。私がホテル現場に専念している間に時代が変わったのか、カラオケに見向きもしなかった彼の変わり様に私は大きな隔たりを感じてしまった。会社が遮二無二、高みを目指して頑張っている間は脇目も振らずにやろうというのが我々の暗黙の姿勢であったのだが、それはもうクリアできたのか?まだまだそのレベルでないはず。以来その隔たりは如何ともし難く、大きな溝になってゆく。

<我が持ち歌>
ついでにこの頃の我が持ち歌から…
田原坂(たばるざか。原曲は民謡で明治三十五年日清・日露戦争を控えた軍の士気高揚のため作成され、その後昭和四十年代に赤坂小梅により流行歌)。カラオケが無い時代である。年末年始の宴会で、指名されれば、役員といえど無伴奏で本社百数十人の前で何か歌わざるを得なかった。♪雨は降るふーる♪人馬は濡れ~る♪と、こぶしのようなものを入れながらやった。男所帯のような会社であった所為か、これが皆を鼓舞したようで意外に受けた。以後必ず歌わされることになる。
白い花の咲くころ(昭和二十五年、岡本敦郎)。飲み屋など小人数の場では、田原坂の男っぽさとは雰囲気をがらりと変えて、やや女々しい歌にした。正直なところ、この歌自分は結構気に入っていて、後にカラオケ時代が訪れても、この路線を踏襲した。

<カラオケ>
 余談ながらこの頃、新しい試みの事業に携わる連中が一団を成して半月ほどヨーロッパを見聞する機会があって、私も新規事業の立場で加わったことがある。仲間に第一興商の社員がいた。その彼は実に行動的で、夜中に独り酒場街に繰り出しては翌日にはケロッと我々一行に戻っていたが、当時の夜の街の危険な体験をしている私は、毎夜ハラハラしていたものだ。カラオケが育つ環境かどうか、調べていたらしい。後にこの会社がカラオケ界を引っ張るようになる。まだ、そんな時代であった。
 湯島の白梅(昭和十七年、小畑実)。白い花の咲くころと同様、小人数の場の持ち歌であった。これは少し粋にしようとして鼻歌のようにやったが、この粋が通じたのか、同僚の若い幹部が歌ってよいかと願ってきた。もちろん著作権が自分にある訳で無い故、歌詞と節を自分流に直伝したところ、どうやら彼の持ち歌のようにして陰で歌うようになったと同僚から聞いている。
ジャニー・ギター(昭和二十九年映画・大砂塵の主題歌、ペギー・リー)、トゥー・ヤング(昭和二十六年、ナットキング・コール)。カラオケが世に普及し歌詞が手許のモニターで読めるようになって、英会話をモノにしている若手の幹部を伴うバーで原曲で披露した。無論周りのほとんどの者は、私の英語力の事情(小学生の頃より稀であった英語塾に通って得意にしていながら中学進学以降すっかり怠けて、後年ホテル現場で外人が近づくと逃げ隠れていた情けない顛末)は知っている。虚勢からか自虐的にか、澄まして歌ったものだ。

<このごろ>
 そして今、暮らしのビー・ジー・エムとして、往年の懐かしい音楽に浸って過ごすようになった。
年がら年中、クリスマスでもないのに、ベートーベンの第九交響曲、フルトベングラーの指揮棒の震えが伝わるモノラル盤(一九五一年七月二九日バイロイト音楽祭の録音アルバム)やベルリンフィルをカラヤンが酔うように指揮したクリスマス・アダージョのアルバム。ムラビンスキーがレニングラード・フィルを率いた名演奏盤チャイコフスキーの交響曲四・五・六番など。
がらっと気分を変えて、ソプラノ歌手・森麻希さんのスタンドアローンや初恋を恋するように聴く。
ジャンルを超えてこれ等すべてが今や、我が人生懐かしのオールディーズとなっている。


                                      以上



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