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戦時下の、足柄平野

2020.05.29

5組   柳川壱信

 箱根外輪山と西丹沢山地の狭間を縫う酒匂川が相模湾に注ぐうち、太古の昔から何度も暴れて土砂が扇状に広がって堆積した平野が形成された。足柄平野の由来である。
その足柄平野の真ん中を貫く酒匂川の堤に、年輪を刻んだ松並木がしばらく続くところがある。氾濫を鎮めようと尽力した郷土の偉人・二宮金次郎の汗を感ずる江戸時代からの面影そのままに、時が止まったかのような景色だ。                                   

 堤に立つと、酒匂の流れを足元に、青々とした山嶺をその間に邪魔するもの無くぐるりと見渡せる。
西にどっしりと大きく構えて麓の人里を身近に感ずる箱根外輪山、その右肩に五合目より上を覗かせる霊峰富士、北にはやや遠く青く尖った丹沢山塊、そして東に低く這ったような大磯丘陵。これら三方を背負って南の相模灘を臨んだ景観には、いかにも沃野の安心感すら覚える。
足柄平野は豊かな水を地下に蓄え、地面を掘れば直ぐ湧水する生活に便利な土地で、「富水」の地名ならずとも、そこここで井戸水が住民の生活を支えてきた。また、その湧水と酒匂川を求めて工場も進出し、フィルム会社や製紙会社が操業した。
この地で生まれて上京するまでの40年、僕は酒匂川の近くでずっと過ごしてきた。
 結婚するまでの25年を多古(現、扇町)、その後の15年を栢山と住むところは異なっても、酒匂川の松並木の堤防を身近かにして安穏とした生活は変わらなかった。
静かなこの地に、かつて戦争の恐怖があったとは誰が想像できよう。
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僕が生まれたのは世界を敵に回すことになったきっかけの日米開戦前年の昭和15年、小田原市郊外の多古。父が勤務する小田原製紙工場の社宅であった。
そして5年後5歳の時、日本はその世界大戦の終息を迎えていた。
しかしおくてなのか戦争末期の緊張感などまるで覚えがない。それでもいくつか衝撃的な事件が起こっていたのは記憶にある。


(相次いだ空襲)
 当時、僕の家の前の道路下には、狭いがあたかも専用のような防空壕が設けられていた。手掘りで出来た二、三畳ほどの地下壕である。頭がつかえて屈まなければ居られない窮屈な空間だ。灯りはロウソク。空襲警報のサイレンが鳴ると、家族はその中に急ぎ身を潜めるようにしていた。
昭和20年に入ると、しきりに米軍による爆撃が主要都市を見舞うようになって、いよいよ小田原の工場や目立つ建物もその対象となって来た。
 当時、小田原製紙工場は風船爆弾なるものを製造していて、学徒動員された代表的な軍需工場の一つであった。それを知ってか知らずか、高い煙突が目印となるのか、小田原製紙工場を目がけて敵機が来襲するようになった。
その日は空襲警報のサイレンが鳴って酒匂川寄りの一番端にあった社宅の一軒屋に社宅中の10数軒の留守家族が集まった。
 そしていよいよ戦闘機の来襲を受けるようになって、恐怖は頂点に達した。みんなで肩を寄せ合い「南無阿弥陀仏」を念じ「くわばら、くわばら」と一心に無事を祈っているその最中、僕の眼に低空飛行で攻め込む戦闘機の正面姿が飛び込んできた。

 僕が知っている米軍のグラマン(艦上戦闘機ヘルキャット)だ。その戦闘機は僕たちが潜む家のすぐ上をかすめるようにして銃弾を工場に撃ち込んで来た。一瞬の風圧を感じ、地響きするような機銃掃射の音が続いた。しかし僕には何か夢を見ているような気分で怖さというものなどなかった。そして社宅の敷地至るところに敵機が撃ちまくった機関銃の薬莢が降下し散乱した。こんな時は防空壕の方が安心だと思うが、大勢の皆で集まると心強いようだ。僕はふと、そんなことを思っていた。

そういえば、終戦直後、隣家の安達さんがその薬莢を筒抜け状に加工してタバコのキセルにしていたことを思い出す。
 その安達さん、僕の両親の話でたしか戦争に採られなかったことを幸運に思っていたというが、戦後間もなく集会所にしていた一軒家で麻雀中に突然脳卒中か何かで息絶えてしまった。僕はたまたまそこに居合わせて、麻雀牌を掴んだまま大きく仰け反る一部始終を見てしまったのだった。同じ頃、母方の祖母の死に際には間に合わなかったが、直後の顔に覆われていた布を取って静かな死に顔を見て切なかった思い出はあったが、安達さんの断末魔に接して、こんな風にあっけなく死んでしまうこともあるのかと、怖い複雑な思いをずーっと引きずった。

ある日また、空襲警報で逃げ込んだ家の前の防空壕が大音響で揺れて、その時初めて戦争の恐怖を覚えた。
近所に爆弾が落ちたらしい。
警報が解除されてから、二百メートルは離れた硝煙の立つ酒匂川へ見に行ったが、河川敷に十数メートル、いやそんなものではなかったか?とても大きなすり鉢状に抉られた穴が開いていた。その辺の河原の様子はよく知っていたので、その変わり様にびっくりし、心底から恐ろしさを感じた。
製紙工場が狙われたらしいが、あんなに大きな爆弾の威力を思うと、つくづく家の前の防空壕など意味がないと思った。
 その年の8月13日、空襲警報が鳴って僕は妹を背負った母の手に引かれて、歩いて数分はかかる大きな防空壕へと走り出した。どうやら大型の爆撃機B29が近づいているようで、堅牢な防空壕に逃げ込む必要があったらしい。ところが何故か逃げ遅れて社宅の中をさまよっていると、巡回中の父に出くわし、「何をしている!そこの家に入れ!」と一喝され、自宅から4,5軒隣の社宅に慌てて駆け込んだ。その玄関を閉めるとき、南側の小田原市街地の空へ黒煙が上がっているのを、何の感慨も無く漠然と見物していたような記憶が何故か不思議に脳裏にこびりついて離れない。その頃からだろうか、土壇場の局面で冷めた自分がそこに居るのに気付くようになった。
 結局ぐずぐずして遅れたことが、実は命拾いとなったことを後で聞かされた。
この日、逃げ込む予定の防空壕のひとつが直撃弾を受け、道路沿い隣組の大勢が帰らぬ人となったのだ。住民13人が亡くなった「多古空襲」と呼ばれた。その犠牲者を供養する「身代わり地蔵」を設置して、近所の老舗の味噌醸造所、加藤兵太郎商店の女将さんが70余年後の今でも守ってくれていた。
友人の下赤君と訪ねたことがある。まだかくしゃくとした女将で、その話を伺ってひとしきり頭の下がる思いだった。
 そして、またも小田原の街なかが夜半に焼夷弾を見舞った。これが日本列島最後の空襲となったそうである。翌日、8月15日。玉音放送によって、国民は終戦を知らされた。そのシーンは後年頻繁に放映されているが、当時の自分にはその覚えがトンとない。


(終戦の報)
敗戦とは云わず、終戦となったのだった。
国が敗れてどうなってしまうのか、親たちは身の安全すら覚束ない絶望感に打ちのめされたと思うが、子供の前では平静を装ってくれていたせいか、5歳になったばかりの僕には、いつもと変わらない日々が過ぎていった。自宅の一室、広めの板敷き間が自分の居場所で、社宅の仲間から遊びの声が掛からなければ、戦闘機などを絵にして過ごしていた。
このように終戦による社会・経済の混乱の様子は親がブラインドとなって防御してくれていたのだろう、そのお蔭で僕のような子供には特段の混乱はなく済んでいたのである。
 食事にしても、さつま芋が多かったが欠かさず食べていたし、すえたご飯も洗って何の違和感もなく食べていた。農家から譲ってもらったり、闇市に足を運んだ親の買出しなどの苦労があったお蔭と思うが、お腹を空かして我慢できないといったような憶えはない。また破れた衣類は継ぎ足したりして、周りもみんなそうであったため、子供には何ら不満も感ずることのない日々を暮らしていた。
 後に知ることとなるが、上野や全国の主要都市に放置された十数万の戦争孤児や、広島・長崎の原爆の悲惨な運命を考えると、格段に恵まれた身の上であった。


(平和、実感)
 そんなある日「朝鮮人が我々を殺しに来る」という噂が広がって、恐ろしさにおののく時期があった。
どのような経緯でその噂が伝わってきたのか解からないが、歴史に残るこれまでの朝鮮人に対する過酷な仕打ちや侮蔑に対する反抗が起きても不思議でないほど、自分の身の回りでも何故か朝鮮人を蔑視していたのは幼心にも知っていた。だからその噂はとても恐怖となった。まさに我ら家族・市民にとっての命がけの日々にならんとしていた。
 それからの日々は、両親もどこか落ち着きがないように見え、僕は僕で自分の居場所に居ることも出来ずに家族みんなの居間に加わって、背後に得体の知れない何かが迫ってくるような怯えの記憶がある。
が、しかし何も起こらない日が経過した。そして、ただの噂にすぎないことが判ってきた。
実際はただの噂でなく、新潟や長崎、京都など地方で朝鮮人の暴徒による殺人や暴力事件が実際に頻発していたのだった。幸いGHQの鎮圧などによって治まったという。
この時である。〝平和〟という実感を幼い僕にも感ずることができたのは。
 やがて、表通りを暗緑色の進駐軍のトラックが通過するようになった。その光景は占領されたという只ならぬ意味には繋がらず、初めて味わうチョコレートやチューインガム、見たこともないお菓子を配ってくれる有難い救いの存在で、減速するトラックの後尾に子供たちが「ギブ・ミー、ギブ・ミー」と言いながら群がった。
ただ僕はそれに加わることなく遠めに見ていただけだった。

 斯くして、昭和6年関東軍の謀略によるとされる満州事変以来、日中戦争を引きずってなお世界を巻き込んだ太平洋戦争に拡大し、果ては広島・長崎の相次ぐ原爆投下で決定的なダメージを受け、軍属・民間人三百万人を超える未曾有の人命を失って敗戦に至る、ほぼ15年間の長い戦争が漸くにして終わったのだ。
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そして、ここ足柄平野にも平和な日常が戻ったのである。



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