兄の家の「寛猛相濟」は、戦前父が勤めていた学校の講堂に有ったもので終戦の時校旗や書類等を焼却した。そのとき持ち帰ったものである。戦後落ち着いてから表装し客間に飾った。因に父は「アメリカの教育はできない」と教員は辞め木工場の親父になった。
「寛猛相濟」の意味を調べようとしてインターネットで検索した。熊本大学五校記念館の「寛猛相濟」の扁額が現れた。
『閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)の書。親王は明治42年3月8日、日本赤十字熊本支部総会に出席の際、松浦校長の懇願で揮毫されたものと思われるが、何時書かれたものかはっきりしない。
「寛猛相濟」の意味は、政治をするのに、寛大な態度と厳しい態度をあわせて用い、双方の欠点を補うよう図るべきであるという意味』と説明が有った。 |