ちょっと発表



2014.01.02    米山 勉

  「引き揚げ」 その1

『ぼけないうちに書いておいた』と数年前に兄から渡された文章です。

  昭和20年8月15日は良く晴れていた。私は朝鮮慶尚南道晋州(市)の晋州国民学校に在学していた。私たち5年生は食料増産のため夏休み中だが学校へ行き、校舎の前の運動場の掘り起こしに精を出していた。昼近くに1年生から3年生まで受け持たれたA先生が校舎から出てきて『あなた達、もういいからすぐ家に帰りなさい。』と言われた。
私はなぜか分からないまま、いつものように父が勤めていた吉野国民学校の前を通り堤防へ出た。この堤防は家が鳳山町に移って以来2年間通学路にしている道であった。中ほどに、蓮池が有り冬は氷がはった。私達は蒲鉾板の下に針金をつけ、これで登校の途中によく滑って遊んだ。
 ちょうどこの蓮池の近くにきたとき、朝鮮人の家からボリュームいっぱいにあげたラジオの音が聞こえてきた。それは特徴のある声と抑揚を持った昭和天皇のいわゆる『玉音放送』であった。もちろんそのときは何の放送かは全く分からなかったが……。どこからか連絡が有り、翌日から作業は中止になった。数日後、双胴の米機ロッキードが数機やってきて上空を旋回して去って行った。それが私達が見た初めての米機であった。この頃から、町を歩くと『日本人は日本へ帰れ』という朝鮮人の声が聞かれるようになった。
 ある日、田舎の方の学校に勤めていたB先生一家が我が家にきた。田舎の方も日本人に対する風あたりが強くなってきたので、吉野小学校の校長を頼ってきたが、校長から『米山のところに行くように』と言われたらしい。1週間後に校長は日本に引揚げて行った。空き家になった官舎にB先生が入った。

 夜になると、朝鮮人が集団になって通りで騒ぐようになった。このようなときでも親父はたびたび出かけていた。家のものが心配顔で居ると『お父さんは朝鮮人に何も悪いことはしてないから大丈夫だよ』と言っていた。そのうち教え子達が次々にお別れに来るようになった。親父はその度に『お前は菊を作れ』『お前は習字をもう少しやれ』などと言って本箱の本をあげていた。親父が出かけるのは、主に勤めていた学校の整理のためだった。当時何よりも大事に思われていた、ご真影や国旗、そして校旗や書類等を焼却するためであった。運動場の真ん中でどんどん燃していった。作業は仲の良かったC先生(福岡へ帰ってからは自衛隊に入り1佐で退官、東京に出張のおり我が家へ立ちよった)と一緒で朝鮮人のD先生に立ちあってもらった。

 学校の整理が終わり、親父が学校へ出なくなった頃からぼつぼつと日本人達の引揚げが始まっていた。多くは職場の家同士や近所が誘い合い、なん家族かがグループになって引揚げる場合が多かった。
 私はこの引揚げを不思議に思っていた。戦争中は『日本人は最後の一人まで戦うのだ』、『絶対に降伏はしない』、『もし降伏するときは日本民族がほろびるときだ』というようなことを繰り返し聞かされてきた。負ければ自分たちの命はないものと思っていた。自分がどうなるとしてもこの時点で恐怖は全く感じなかった。
 10月に入って引揚げの話が有った。家の裏手の方に刑務所の看守の宿舎が有り、そこの人たちに『一緒に行かないか』と誘われた。そこで親父はBさん、Cさん、裏のEさんにも話し、一緒に引揚げようということになった。

 ここまでの話の中に私の記憶は全く有りません。
 兄の話では親父に『お父さん僕たち何時死ぬの』と聞いたら『ばか』と叱られたそうです。繰り返し聞かされた言葉はどうなったのか、親父もそれまでとは違う考えのようだ。だから不思議と思うしかない。怖い時代、怖い教育だったと思います。
 吉野国民学校で書類を焼却する中に『寛猛相濟』の書があり親父は焼かずに持ち帰ったものと思います。『寛猛相濟』の話は以前2012年7月28日に書きました。

 親父が70歳を過ぎた頃韓国から手紙が来ました。教え子からでした。旧仮名使いの日本語、達筆です。そして『先生ぜひ遊びにきてくれ』と書かれていました。

朝鮮半島慶尚南道晋州(チンジュ)(現晋州市)吉野国民学校にあった「寛猛相濟」





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