ちょっと発表



2014.02.06    米山 勉

  「引き揚げ」 その2

 10月上旬荷物を牛車に載せて3キロほど離れた晋州駅に向かって出発した。晋州駅から汽車で数時間かけて馬山駅に行き、また馬車を雇って荷物を積み馬山港に着いた。しかし港では『米山2家族くらいの余裕は有るが、数家族の余裕はないと言われた。
 親父は皆を誘ってきたので自分の家族だけ帰るわけにはいかないということで、皆で港に留まり船を探すことにした。そして親父やC先生やEさんが交代で港に立った。家族は港の近くのどこかの寮に入った。2
〜3泊したところで船が見つかった。(この頃は九州あたりの漁船や木造の貨物船が正規の連絡船とは別に『やみ船』として引揚げ者相手に商売をしていた) 
 しかし、数家族では人数が少なすぎ船賃が出ないと言われた。親父は人数をふやすため晋州へ戻って行った。2〜3日後40〜50家族が荷物とともに集まった。この間船を確保しておくため船長にはずっと酒を飲ませた。私も赤い顔の船長が踊っているところを見た。

 こうしていよいよ船に乗り込むことになった。荷物の積み込みはクレーンなどないので、船底へ滑り台のように板をおろし、その上を荷物を滑らせるのである。船室など有るわけでなく、人はむきだしの船底か荷物の上に腰を下ろすのである。船員達の部屋や機械室は船の後部についていたようである。
 船底はかなり厚い板でできていたとおもわれるが文字どおり『板子一枚下は地獄で、今考えると水が入ってこなかったことが不思議である。夕方だと思うが、船はポンポンと焼き玉エンジンのような音をたてながら港を出た。船内はほっとした雰囲気だった。海面には数十匹のサヨリが群れを作りあちらこちらに見えた。終戦からおよそ40日後であった。

 港を出ると海はうねりが強く、船は大きく揺れた。私は時々船縁に顔を出し海を見た。強く傾くときは海面が船縁すれすれまできた。私達の反対側に乗っていたEさん達は窓からザブンと水をかぶった。船は荷物を満載したせいか船足は重かった。親父の話見よると、船は玄界灘をなかなか横切れず、流れに突っ込んではもどり、またつっこむという試みを何度かやった。最後に思いっきり北に上り流されながらやっと海流を横切ったということだった。
 親父はこの2日間の航海の間家族のところには一度もこなかった。くる暇がなかったのである。船は決して順調に進んだ訳でなく、たびたび故障と称して止まったらしい。そのたびに親父は船員達に金を少し与えた。すると船は動き出した。親父は万一の場合Cさんの軍刀で船員達をぶった切り、自分たちで船を動かそうと思ったと言った。当時は海賊まがいの船も多く,小舟に移されそのままおいてきぼりにされたという話も聞かされていた。

 3日目の朝、水平線の向こうに九州の山々が見えた。それから数時間で船は博多湾に入った。船から降りると人々はさっと自分の帰る場所に向かって散って行った。しかし親父はなかなか降りてこなかった。そのうち胸に韓国旗のマークをつけた2人の男が船に乗り込んでいった。すると間もなく親父が降りてきた。親父が遅れたのは船の中で次のようなやり取りが有ったためだった。親父は船長に『船賃は10万円だったが6万円しか集められなかったこれで我慢してくれ』といった。船長は『それでは約束が違う』という。
 そこで親父は『日本人が困っている時に金儲けをしようとは何ごとか』とやりかえす。船長は『それではあんたはもう一回朝鮮へ行き人を集めてくれ』このようなやり取りの最中に韓国旗のマークをつけた男がきたのである。船員の中に悪いことをした男が居て、それを捕まえにきたらしいということであった。この混乱を幸い親父は船からさっさと降りてきたのであった。船を降りた人たちがさっといなくなったのも、親父が皆にそれ以上の船賃の追加支払いをさせないために、降りたらすぐに散ってしまうようにあらかじめ伝えておいたためであった。

 船から少し離れたところに、Cさんたち関東方面に帰る家族が待っていた。その人達と一緒にひとまず博多の小学校の講堂に入れさせてもらった。その夜は講堂の床にごろ寝した。朝どこかでリヤカーを借り、博多駅の日通に荷物を出しに行った。我々も何時間かまって徳山行きの汽車に乗った。親父は『ここまでくれば後は牛車でも帰れるよ』と言った。安心したようである。

 徳山で列車を降りたのは昼頃だった。我々は次の列車をホームで待った。ホームの上から徳山湾と、自然の石を積んで造ったような素朴な桟橋が見えた。町は駅の周囲を残して見渡す限り焼け野原であった。親父が麦の入ったリュックをしょって駅前の一軒の家に入って行くのが見えた。そして缶詰めと交換してきた。列車を2〜3台待ったが復員兵でいっぱいだった。それに入り口に『番人』がいて中に入れてくれなかった。誰かが船をみつけてくれそれで広島県の糸崎まで行く。
 この船旅は夜風が大変気持ちよかった。糸崎で列車に乗り大阪まで行った。ホームのすみで飯を炊き缶詰の缶を椀代わりにした。ここでも2〜3台待った後、列車に乗れた。この列車は海軍の復員兵で比較的親切であり、一家全員を窓から引き入れてくれた。親父も海軍だったので話が合ったのか、いつの間にかボックスに座り込み兵隊と談笑していた。ここで兵隊からもらった缶詰が旨かった。
 炭焼所(現南足柄市生駒)に着いて、約1か月のち荷物が無事に着いた。今振り返ってみるとあの混乱の時代によく荷物が着いたと思う。当時の人々のモラルにただただ驚くばかりである。

 私が覚えている所は糸崎からの船旅くらいです。波のない鏡面のような瀬戸内海をポンポンと丸い煙を出して走る船に乗っているところです。でも、兄達の話に勝手に想像しているのかもしれません。
 朝鮮から引揚げた人達が作った晋州会という集まりが有ります。兄はこの会に入り2000年頃に晋州を訪ねたことがあります。山や河は昔のとおりだった。以前の建物は一つもなかった。登校の途中でスケートをした蓮池はそのままあったそうです。
 同級生のK君は、父親が警察官でした。玉音放送の日の朝彼は父に言われたそうです。『今日は外に出るな、学校にも行くな』彼はその通りにしたそうです。そして1週間後には軍艦に乗って帰国したそうです。吉野小学校の校長も同じかも知れない。一般の人達を守ったり助けたりするのが警察官かと思っていたらまるで違う、真っ先に逃げちゃったんですね。列車を占拠していた帰還兵も同じです。戦争は負けるわけだ。



          1つ前のページへ