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  踏み絵の時代                      2012.05.05   今道周雄

 戦国時代に広まったキリスト教は、戦国大名に南蛮貿易や武器・弾薬を見返りとしてもたらした。キリスト教の入信者は異教撲滅をはかり、寺や神社を焼き払うなどの行動に出たため、豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、キリスト教信者を迫害した。その後、徳川幕府もキリシタン禁令を出し、1629年(寛永6年)に踏み絵を導入した。
 踏み絵の目的は、キリスト教信者であるかどうかを見分けることである。信者であればキリストの像を踏みつける事ができまいと考えたからだ。
 このような手法は、権力者が被支配者の内心を見分けるために、繰り返し使われてきた。例えば昭和の「ご真影」である。宮内省は明治7年(1874年)から天皇・皇后の写真を学校に下付し、奉安殿や講堂に掲げ尊重するよう定めた。その前を通り過ぎる時には、鄭重に最敬礼をしなければならなかった。それを怠る物は「国體」に背く者と見なされた。昭和の軍国主義下では「ご真影」はまさに「踏み絵」の役割を果たしたのである。
 昨今、「国歌」を歌わぬ教師はけしからぬから首にしろ、という議論がかまびすしい。このような論者は、「国歌」は国民誰もが歌うべき物であると考えていて、教育者が歌わなければ反逆的な国民が生まれると心配している。国歌を「踏み絵」として使い、教育委員会の方針に背く教師を洗い出そうとしている。
 弾圧されたキリシタンたちは、当初こそ踏み絵を拒んだが、次第に内面でキリストを信仰すれば良いという考えが広がり、役人の前では堂々と踏み絵をしたという。だから、「踏み絵」は有効な手段ではなく、人々が内心を一層隠すきっかけを作るに過ぎない。
 権力者が二者択一を迫るのは、物事を決めるためには手っ取り早いやり方だ。9/11事件後に、ブッシュ大統領が「我々と共にあるか、さもなくばテロリストと共にあるか」と迫ったとき、日本は唯々諾々と米国と共にある事を選んだ。しかし、イラクからは大量破壊兵器は発見されず、残されたのは泥沼の戦闘だけだった。日本は中立的な立場から、もっと冷静に助言を与える事ができなかったのだろうか。二者択一を迫られたとき、良い知恵を出せる可能性は低くなるようだ。
 やや脱線したが、政治が「二者択一」を要求し、「踏み絵」を国民に踏ませるという手段をとるのは、ファシズムへとつながる道ではないだろうかと心配している。「ご真影」を教育の場に持ち出される事が二度と有ってはならない。

       
            踏み絵      
         
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