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 日本経済に関するイチャモン

2014.02.08   3組 佐々木 洋


 −1− 深みと鋭さに欠ける似非分析

 TQC(Total Quality Control)

 日本企業はアメリカから伝わったQCを経営思想のTQC(Total Quality Control)に昇華させ、これによって企業のあらゆる業務工程(Business Process)を改善することによってクオリティの優れた製品・サービスを世界市場に送り出してJapan as No.1の地位を得ることに成功した。
 しかし、TQCには「現存工程ありき」の視点でその“改善”を旨とするところとどまるものであり、ITの活用度の面でも欠けるところがあった。TQCの先進企業であったトヨタが開発したカンバン方式も手書きベースであり、逆に今度はアメリカ企業がITを用いたJIT(Just In Time)システムに昇華させている。

 ICT革新とビジネス革新
 インターネットの普及によって、PCがPersonal ComputerからPersonal communicatorになり、コンピュータを主役視して用いられてきた「IT」という言葉も通信(Communication)を重視した「ICT」に変わった。また、パソコンの機能が、従来のメインフレームコンピュータ並みになり、価格と機能のトレードオフ関係が崩れ、情報流通のコストが劇的に低下すると同時に機能が劇的に向上することとなった。このようなICTにおける“革新”は、これを活用する企業の業務工程(Business Process)のコストを劇的に低下させると同時に効果・効率を劇的に向上させるBPR(Business Process Reengineering)を可能にした。実際に、アメリカでは、企業内のBPRにとどまらず、顧客・企業間、企業間、更には、国際的な業務工程(Business Process)の“革新”に成功したアマゾンをはじめとしたドットコム企業が輩出し、アメリカ産業が蘇生した。

 IT革命による世界経済の構造変化
 インターネットを中心としたICT革新を利用したビジネス革新によって製品・サービスは、コスト(C:Cost)が下がると同時に品質(Q: Quality))が向上した。革新的なグローバル・ロジスティクスが実現し、調達(D;Delivery)が格段と効率できるようになったため、供給連鎖(SC : Supply Chain)もグローバル化が進んだ。日本企業は、外国産の製品・サービスとの商品性(QCD)をめぐる競争に直にさらされることとなり、アメリカの企業に遅れをとりながらも多国籍企業化した企業のみが命脈を保てるような状態に陥っている。要は、実際に「IT革命」が起こって、世界経済における日本の地盤が沈下し、代わってアメリカに主導権が移るとともに、アメリカからの資本の流入を受けた中国が世界の向上として台頭するという世界経済の構造変化が起きたのである。

 国内空洞化と財政窮乏化
 インターネットを基軸としたICTを活用したグローバルなサプライチェーンとロジスティクスの構築は、後れを取って国際的な競争力が低下していた日本企業でも大幅に進み、生産拠点の海外移転に伴って国内空洞化が顕著になった。従来は大企業のサプライチェーンの中で下請けとして部材や部品の供給を失った中小企業、更にそのサプライチェーンに加わっていた中小・零細企業の業績が悪化し倒産する企業も相次いだ。更に、企業業績の悪化と倒産件数の増加とこれに伴う雇用機会の減少と失業者増加の波は“失われたサプライチェーン”の従業員が購入する消費材を供給する企業にも及び、特にこうした“負け組企業”の存立基盤となっている「地方」の疲弊化現象は日本全土に現れ、多国籍企業に成功した“勝ち組企業”の存立基盤となっている「都市」との間の「格差」が顕著になった。一方、“勝ち組企業”の日本国内における生産拠点においても、国際競争力を強化するための対策として、非正規従業員や派遣社員の雇用への傾斜が進み、これによって日本の国民所得のレベルの低下が加速された。これに伴って、事業税と所得税の税収入は大幅に低減し財政窮乏化が深刻さを増してきた。要するに、サプライチェーンのグローバル化に伴って、日本国内から生産拠点が移転した先の国が日本から流れ込んできたカネで潤っているのと裏腹に、日本国内の“カネ回り”は極端に悪化しているのである。公定歩合は歴史的な低金利になっているにも関わらず、民間企業に資金需要がないため、市中銀行にカネがジャブついている状態が続いている。

 
 −2− 似非批判のイチャモン

 現状は「不況」ではなくて常態なのだ
 「IT革命」の予兆があり、右肩上がりの成長を続けていた日本経済の先行きに陰りが見えてきた時に、日本の不動産や有価証券の投機的な価値が急激に下がって起きた一種の恐慌を、日本の識者たちは「バブル経済の崩壊」という甚だ文学的な表現をして悦に入っているように見える。また、日本経済の低迷はIT革命による日本経済の地盤沈下に根差すものであり、現在の状態がIT革命によって様変わりした世界経済構造のもとでは常態になっているのにもかかわらず「長引く不況」なる表現が未だにまかり通っている。景況サイクルにおける「不況」とは異質の事態であるということがまるで認識されておらず、ここでも「失われた10年間」などという文学的な表現が用いられていたが、これがいつの間にか「失われた20年間」という表現にすり替えられている。

 支離滅裂なデフレ論議
 価格低下という“デフレもどき”の現象も、実態はICT革新とビジネス革新による世界的な価格低下傾向の流れによるものであるにも関わらず「デフレ脱却」論議がシラフで白昼堂々と行われている。本来のデフレは、需要と供給のアンバランスによって生ずる現象であるから、需要が低下すれば価格が下がるが、価格が下がれば、市場の原理によって、需要は上昇に向かうはずである。価格を上昇させれば、逆に需要が低下するにもかかわらず「インフレターゲット」を設けているのは支離滅裂だとしか思えない。
 日本が歴史的事象であるIT革命によって甚大な被害を受けたのにもかかわらず、日本経済新聞でさえ「IT“革命”を利用して」などというノー天気な表現をしている。IT“革新”を“利用して”ビジネス革新を行うべきであったのにもかかわらず、日本の産業のこれに対する対応が遅れてしまったために“不況もどき”と“デフレもどき”の現象の常態化を招来しているのだということを、過去の栄光に酔い続けている私たち日本人は肝に銘ずる必要がある。

 エコノミクス不在のアベノミクス
 アベノミクスでは、深層部で働いている経済や市場の法則を顧みることなしに、表層部に現れている現象だけとらえて、「デフレ→販売価格低下→企業業績の悪化→従業員所得の低下」という原因系列を、「デフレ脱却→販売価格上昇→企業業績の回復→従業員所得の向上」という結果系列を安易に結び付けている。労働力も商品の一種なのだから、その価格(賃金)は労働力市場における需給関係によって決定される。同じ中国でもブルーカラー層とホワイトカラー層の所得動向の間に跛行現象が生じているのも、これを例証している。「世界の工場」の名にふさわしく、世界核国から製造のアウトソーシングを受けている中国の製造現場での労働力需要が拡大するに伴ってブルーカラー層の賃金が高騰を続け、今や自らが更にタイ、カンボジア、ベトナムにアウトソーシングする中国企業が続出するまでに至っている。一方で、ホワイトカラー層の所得レベルが向上しないばかりか、大学新卒者が就職困難な状態にさらされているのは、特に企業の間接部門における中国人に対する労働力需要が低迷しているところに、進学率が急激に向上したためホワイトカラー層の労働力供給が急上昇しているからである。日本における「従業員所得の低下」も、日本経済の地盤沈下や国内空洞化によって日本国内における雇用機会が大幅に低減したこと、つまり、労働力市場における需要の縮減によるものであって「デフレ」によるものではなく、総理大臣が経営者団体の代表たちに懇請して回ったところで解決される問題ではない。「アベノミクス」の正体は、エコノミクスが混ぜられていない(ノーミクス:no mix)「アベノーエコノミクス」なのである。

 “リストラ” で身をすくめていた日本企業
 大方の日本の企業は、アメリカの企業がIT革新を利用して、顧客・企業間、企業間、更には、国際的な業務工程の革新、即ち、BPR(Business Process Reengineering)を急速に進めつつある間に、本来は機構改革という意味を持つ「リストラクチャリング」なる言辞を弄して、何の機構改革も伴わない人減らし(実際には単なるダウンサイジング)をして当座を凌ごうとしていた。これも、当面している経済の状態を、首をすくめて耐えていれば通り過ぎる景況サイクルにおける一般的な「不況」と見誤っていたからであろう。経営コストを下げるだけのリストラでは、顧客に対する価値の提供度の視点から業務プロセスを根本的に見直し、デザインし直すことにより、コストと同時に、サービス、スピード等を劇的に改革するBPR(Business Process Reengineering)に太刀打ちできないというのは自明の理であり、勝ち目がないのは当然のことであった。

 企業努力がもたらした “デフレ”
 
しかし、日本の民間企業の場合にはまだ救いがある。インターネットを中核としたITC
の企業活動に与えるインパクトの大きさに気づき、ビジネス革新を敢行することによって“勝ち組”に転じた企業が相次いでからである。「物作りを持たないSCM(Supply Chain Management)」と称されるSPA(Specialty store retailer of Private label Apparel:製造小売業)を開発して、QCD(Quality / Cost / Delivery)の劇的を同時に革新したユニクロがその典型例である。ユニクロは、中国やインドネシアなどの企業との間の業務工程(Business Process)を抜本的に改編する(これが私の言う国際的BPR)ことによって、良質な衣料品を安価で販売しているのであって、需要が低迷してデフレ状態になっているために価格低下を強いられているわけでは決してない。ユニクロと同様に、企業努力によってコストを下げて競争力を高め、品質改善とともに低価格販売を同時に実現した企業が次々と現れ、その結果市場価格が低下して “デフレもどき” の状態が現出しているだけなのである。

 低QのJRが高C を維持しているのは何故か
 
因みに、民営化されたJRでは、スイカの導入によって業務工程(Business Process)の改善と業務コストの低減を同時に実現しているが、それによって得られた利益が顧客(JRが利用客を“顧客”扱いしているようには見えないが)に還元されることはなく世界一高い水準の運賃は据え置かれたままである。C(Cost)が据え置かれているのはまだしも、顧客輸送企業にとって最も重要なQ(Quality)である安全性は寧ろ軽視されており、JR西日本福知山線での大事故や、最近のJR北海道で露見したような、手抜きによる過剰なコストダウンが行われており、“顧客に還元されてはならない”安全性上のリスクが増大している。競合状態にさらされている独占的な企業であっても、需要が低迷すれば販売価格を下げて収益を確保をせざるをえなくなる。限りなく独占企業に近いJRでQ(安全性)のレベルを寧ろ下げながら高いC(運賃)を保っているということは、経済の現状が需要低迷によるデフレではないことを何よりも雄弁に物語っているのではないかと思う。

 元の木阿弥の官僚依存体制へ逆行
 一方、救いようがないのが政治の世界である。民主党が政権を握った時に掲げた“政治主導”は、官僚が“実効支配”している政治体制を正す上では大いに意義のある主張であったが、惜しむらくは“政治主導”を実現するための方法論を欠いていた。もともと、立法機関と言われながら立法能力がない議員が大勢を占める国会では、本来なら当たり前の「議員立法」がなされることは寧ろ稀なので、国会議員の立法能力が高まらない以上は「官僚たちによる法案作成を政府主導の形にする」しか道がなかったはずである。ところが、現状の官僚体制は、基本的に産業別の縦割り体制におり、省庁別のピラミッド組織の頂点に立つそれぞれの事務次官に全ての権限が集中し、それぞれの産業別のが追求される仕組みになっている。議員大臣は、屋上屋を重ねる形で、それぞれの省庁の事務次官の上に“安座”させられ、それぞれの“個別ベスト”を代弁する存在にしかなっていない。結果的に、民主党の議員大臣が官僚たちの支援が得られなくなったため、「何も決められない民主党」の烙印を押されただけで、結局は元の木阿弥の官僚依存の自民党に政権が戻されることとなった。TPP交渉は、産業別の“個別ベスト”の合計で済ますことができず、まさに“全的ベスト”が追求されなければならない場面である。産業別縦割りの官僚機構に依存している自民党政権が、この“全的ベスト”追求の課題に如何に対処していくのか大いに関心のあるところであるが、結果的には各省庁の官僚の間での“省益”をめぐる激しいバトルの結果を受けて、自民党の票田を考慮した“党益”の観点から、どの産業のベストを優先させ、どの産業を切り捨てるかを選択する形にしかならないのではないかと思う。


 −3− ゴマメの歯ぎしりの対案と対策

 “軍事費” を撤廃せよ
 アベノミクスの“3本の矢”の一つとして 「民間投資を喚起する成長戦略」が掲げられているが、これが実現できるくらいなら、もうとっくに他の政権で手掛けていたに違いない。ましてや、財政がますます窮乏化している今日、限られた財政支出で民間企業にとって魅力的な投資機会を創出することは不可能だと言って良い。今、政府にできることは、国内の“カネ回り”の改善に役立っていない財政支出を極小化することである。その第一のターゲットは“軍事費”である。日本が貧乏な国になってきているのにもかかわらず、“軍事費”だけは大幅に増大してきて、今や日本は「集団的自衛権」の名のもとに“地球の裏側”まで“派兵”できるだけの“軍事力”を身につけるに至っている。しかし、“軍事費”の投入産出計数はゼロ、つまり、“軍事力”は経済成長に寄与しない。“軍事費”を充当して生産される武器、弾薬は生産財にも消費財にもならず、“軍事費”から所得を得る“軍人”の提供する用役は何の付加価値ももたらさないので労働とは言い難い。他国からの経済援助まで“軍事費”に投入してしまっている北朝鮮の経済規模が拡大していないことからもこれは自明である。アメリカで起きたリーマンショックも、経済不振の原因ではなくて、アメリカ軍がアフガニスタンとイラクで“軍事費”を湯水のように使ったために“カネ回り”が極度に悪化した結果なのである。日本と日本国を守るのには警察があれば足りる。平和憲法の解釈をゆがめたことを反省して、規模を大きく縮小するとともに、自衛隊を元の警察予備隊に戻すことである。

 国土 “自衛” に重点を
 日本の国土を保全するための財政出動は、直接には日本経済の“カネ回り”を改善することにはならないが、日本の産業インフラを維持拡大することになり経済成長につながってくるところが“軍事費”と決定的に違う。しかも、災害復旧のための財政出動よりも、災害防止のために財政出動した方が産業インフラの維持拡大効果が遥かに高い。警察や消防とともに災害復旧に出動するのを見て自衛隊の存在意義を述べ立てる向きが多いが、これは筋違いというものだろう。“災害列島”と呼ばれるほどに日本であるにもかかわらず、国土“自衛”の災害防止投資が極めて不十分な中で、平素は経済成長に資する活動を何一つすることなく、カネに糸目をつけずに武器、弾薬を用いて行われる“軍事”演習に明け暮れているだけの“自衛隊”に巨額な国費がつぎ込まれている実態が“国益ベスト”を追求する行政体制になっていないことを如実に示している。

 国内の産業立地条件改善が急務
 日本国内の“カネ回り”を改善するためには、カネ回りの悪化の原因となった国内空洞化の問題を解決するために、国内の産業立地条件を改善して海外に流出したために“失われたサプライチェーン”の国内への回帰を促進することが急務である。そして、“デフレ”のために原材料コストや人件費も低下している現在、最も効果的な産業立地条件改善策は、経済的な交通インフラを再構築することである。民主党政権が掲げていた「高速自動車道利用料ゼロ化」というマニュフェストが無に帰したのは、それがどのような「国益」に結びつくか不明であったからである。産業立地条件最適化という「国益」の観点から、更に高速道路網を拡充して利用料を無料化すれば、現在のところ“デフレ”と無縁で高値を維持し続けているJRなどの鉄道会社も、自動車運輸との間の競合上、運賃を大幅に下げざるを得なくなる。これによって、既に格安航空会社の出現によって大幅に下降している空輸と合わせて、日本国内の物流コストが大幅に低減するばかりでなく、サプライチェーン間でのリードタイムが短縮することによって流通在庫が減少して日本の産業コストが大幅に低減する。“失われたサプライチェーン”が国内に回帰すれば、周辺の企業も含めて事業機会と雇用機会が増大して、税収も豊かになるので、たとえ道路国債などを発行して交通インフラ再構築の財源として充当したとしても、健全な形で負債を償還することができる。

 官僚機構をマトリックス組織に改編せよ
 国益ベストを追求するためには、基本的に産業別縦割りになっている官僚機構に横串をさしたマトリックス組織に改編して、縦主導から横主導の形に変えていくしか道がない。例えば、上記の産業立地最適化という国益を追求するためには、「国土活性化省」を設けて、ここに国土交通省内の道路、鉄道、空輸、内航、土木などの専門官だけでなく、産業拠点間の最適なネットワーク化を企画推進する経済産業省、農林水産省などの専門官、また、これにかかわる財政問題にかかわる財務省の専門官を、それぞれの縦割り官庁に原籍を置きながら常駐させて、複合的な問題の解決のために協働させるのである。そして、政治家が「国土活性化省」の大臣となることによって初めて“政治主導”が実現する。

 “安全な国日本” を取り戻せ
 「国民・国土安全省」も然りで、政治家大臣の指揮命令のもとに、警察、消防、(警察予備隊に戻るべき)自衛隊、海上保安庁がここに属して、国土の保全・強化のために協働する傍らで、国民の安全保障のために協働する体制を採る。近年とみに“安全な国日本”の実態が失われつつあるのは、一つに街角から、市民の味方となっていた“お回りさん”と、交番も閉鎖され駆け込み寺の役割を果たしていた“駐在さん”の姿が消え、警察官たちがひたすら警察署内にタムロするようになってしまったことに一因がある。古ぼけた警察無線を更新してモーバイル装備するとともに、白バイ台数を大幅に増やすことによって機動力を高めた上で、再び“お回りさん”や“駐在さん”として街角に繰り出していくことになれば犯罪抑止力が大いに強化される。火災件数が減って“小人閑居して不善をなす”傾向になりがちな消防署員も、緊急時に備えるためのモーバイル装備をして、平常時には警官となってパトロールに加わらせることができる。何よりも、火災現場でもないのに“消防”庁に119番通報するという“不思議”なことをせずに済むのが嬉しい。

 縦のものを横にせよ
 環境庁も、その名にふさわしく横断的で複合的な問題に対する解決能力のある内実を備える必要がある。数々の公害を除去するためには、その“加害者”側を取り仕切る経済産業省や農林水産省などからの専門官、また、環境保全にかかわる国費出動の任に当たる財務省の専門官を常駐させろ必要がある。日本の行政は、もともと責任・権限のない委員会を“アリバイ組織”として多用する傾向があるが、原子力問題も恣意的に選んだ委員から構成される原子力安全委員会の決定に委ねるのではなくて、然るべき省庁自体の責任と権限のもとに決定し、遂行すべきであったのだ。新生「環境保全省」は放射能問題を組織課題として取り込むことになる。少子化問題も、複合的な原因が内在する問題であるにもかかわらず、その名も奇妙な“少子化担当大臣”を置くという姑息な現実糊塗策策を採って済まされている。生産年齢人口は極めて大きな国益をもたらす。消費者庁も全く然りで、問題解決に力を発揮し得る官僚を足腰として備えなければ機能を発揮しえないのは当然である。縦向きに位置している各省庁の専門官の力を横向きの問題解決に結集するところに閉塞状態に陥っている日本の活路がある。

 “キャリア官僚” を根絶できる
 在来の縦割り官庁は、当該担当業界の監督指導を専管する専門官が常駐するだけで済む。このようにマトリックス組織を導入すると、結果として、現在の縦割り組織のヒエラルヒーを昇っていくにつれて、高給ジェネラリスト化していく“キャリア官僚”の存在が極めて小さなものとなる。この世界にも類例のない“キャリア官僚”こそが、国益ならぬそれぞれの官庁の省益(組織防衛)のために活躍し、財務省との折衝によって可及的多額の国費を我が省庁の歳出予算として勝ちとることがその最大の手柄とされているのである。しかも、同期入庁のキャリア官僚との昇進競争に敗れたキャリア官僚の受け皿として不要不急の特殊法人が設立され、ここでまた巨額の国費が空費されている。民主党は「公務員人件費の削減」というマニュフェストを掲げていたが、キャリア官僚をこそターゲットにすべきだったのである。民主党が行っていた事業仕分けも一定の意義はあったものの、根底にあるキャリア官僚の存在を否定するところまで立ち至ることができなかったのだから、公務員に対する過大な人件費支出による国費の空費という問題点を根絶することができなかったのもいわば当然の結果なのである。官僚機構をマトリックス組織に改編することによって、キャリア官僚とこれにかかわる国費の空費の除去が可能になり、財政の健全化を大きく前進させることができる。しかし、国会議員に立法能力がないため官僚に法案提出の機能を委ねている現状では、キャリア官僚の存在を否定するような官僚機構改革案が提案されてくるはずがない。大型シンクタンクを競争させる形で改革案のコンペティションを行い、提案される複数案のいずれを採るか国民投票によって決するしか道がない。

 年金を生活保護の枠組みに
 消費税率が上がって財源基盤が強化されたからといって、年金基金制度は命脈を長らえるだけであって、将来の存続が保証されたわけでなく、いずれ立ち行かなくなるのは必至である。年金制度は、日本で経済も人口も右肩上がりに増加していた時代に、その延長線上に将来の日本があるという前提のもとに制度設計されたものであるから、経済と人口が縮減傾向に転ずると破綻に向かうのが必然だからである。問題点として顕著なのは、社会保障ではなくて社会保険の枠組みで制度設計されている点である。保険というのは、保険加入者に及び得るリスクによる損害を加入者全体で補償しあうリスク分担のためのシステムである。例えば、生命保険の場合は、若年者にも及び得る死亡や罹病というリスクに対して、老若にかかわらぬ加入者が拠出した保険金をもって“相互に”補償する仕組みであるから、若年層にも生命保険に自発的にでも加入しようとする誘因がある。ところが、年金の場合は、高齢者には必ず訪れる所得喪失の事態に対して、決して加齢による所得喪失の機会が訪れることのない若年層の拠出金によって“一方的に”補償する仕組みなので、若年者にとっては年金納付が義務でしかなくなる。しかも、年金給付開始年齢が高まるとともに、受給金額が先細りしていく傾向が露わになっている現在、年金納付を怠りがちになっている若年層を非難することができない。年金制度を、社会保険から社会保障の中の生活保護の枠組みに移して、支給額を生活保護費と同レベルに引き下げる必要がある。

 貧富格差を縮小して「清貧」を目指すべし
 日本国憲法第25条が「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として保障している「健康で文化的な最低限度の生活」を若年層が享受しにくくなっているのは、若年層の能力や意欲が劣っているからではない。にもかかわらず、若年層が低所得での就労を余儀なくされている傍らで、日本の企業が、過去における恵まれた経済環境のもとで得た潤沢な収益の中から相応の退職金を手中にし、年金受給という既得権益を得て「健康で文化的な最低限度」を遥かに上回る生活を高齢者層が享受しているのは何としても不正義である。諸々の改革を断行することによって、財政再建と相応の経済成長は実現し得るが、日本の経済が世界経済の中で再びヘゲモニーを握るようにならない限り、“過去の栄光”を取り戻すことはできない。“豊かな日本”から“貧しい日本”に戻ったのだという意識を認識を明確にもって、高齢者層と富裕者層に偏在している国富を再配分し分かち合うことによって、ともに古き良き日本の頃の“清く正しく貧しい”生活に立ち戻らなければならない。
 後輩たちに美田を残すことなく退職金を得て、それを原資として購入した不動産は、日本経済の“貸借対照表”上の豊かなストックとなっていて、日本経済の循環過程には何の貢献もできない形になっている。このストックを、日本経済の“損益計算書”上に利益をもたらすフローに変えるためには、消費財ばかりでなく不動産税を大幅に高める必要がある。しかし、必需品レベルのものから奢侈の限りを尽くしたものまで多様な不動産が存在することを考慮して、資産価値が上がるに従って税率の高まる累進課税方式を採るべきである。消費税も全く同様で、必需品の税率はゼロにして、奢侈品に向けて高まる傾斜課税方式を採らなければ貧富格差を縮小することができない。全ての政策を「清貧」に向けて舵取りし、日本人の生活を物質的な豊かさから精神的・文化的な豊かさを追求する方向にシフトさせていかなければならない。そうすれば、古き良き時代の日本でそうであったように「貧乏人の子沢山」となり、結果的に少子化問題まで解消できるようになるかもしれない。


 近 況

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