戦 争 ・ 紛 争


 日本人人質殺害事件に思う

2015.02.11
3組 佐々木 洋

不幸にして不吉な予感が的中

 イスラム国(ISIL)に人質として捕えられていたジャーナリストの後藤健二さんが惨殺されたという報道に接して大きな衝撃を受けるとともに心にポッカリと大きな空洞ができてしまいました。何一つ相手に対して危害を加えることなく、ひたすら戦争と貧困にさらされている人々の惨状を取材して訴え続けてきた後藤さんだけは釈放してくれるだろうという「人間」としての期待を抱いていたからです。「本誌だけが知る日本人人質事件の許せない真相…安倍首相は“テロでツイてる”と笑った」というタイトルに釣られて買った週間ポスト2月6日号の記事の中に「身代金目的の誘拐事件は人質の存在を公表される前に解決するのが“セオリー”」と書かれているのを読んで感じていた不吉な予感が不幸にして的中してしまいました。いったんインターネット上に公表してしまった手前、ISIL側にメンツや何かの手前引くに引けない事情ができてしまったのではないかと思われます。


水面下での対応を怠った“セオリー”無視

 週刊ポスト誌では、ISILがインターネット上で2億ドルの身代金要求をするよりずっと以前に人質事件の発生を察知し、外務省を取材し続けていて外務省からの報道規制の指示も受け、それに従っていたようです。そして結果的に “セオリー”通りことが運んでいないことについて「そもそも外務省は誰一人、現地に入りこんで邦人救出に動いておらず、外国の仲介者に任せていたのだから、その本気度は疑わしい」と義憤を込めて報じています。更に、中東訪問中の安倍首相がビデオ公開後になって初めてパレスチナ自治政府のアッバス議長に邦人救出の依頼を要請したことについて「なぜ中東諸国への協力要請をもっと早い段階でしなかったのか」と糾弾し、「はっきり言えば、これまで救出をサボタージュしてきた関係各省や安倍氏が、最後になって“全力で”“あらゆる手段で”“人命が最優先”などといってみせても白々しく許し難い」と続けています。危機にさらされている邦人の安否を気遣いながら取材しつつ記者が見聞きした外務省の“水面下での対応”に関する無作為ぶりに対するやるかたない憤懣が行間に表れているように思えます。


無用で危険な対峙関係の強調

 恐らく、湯川さんと後藤さんが人質にとられているという情報を外務省から得ないまま、「ここは日本の存在をアピールできる絶好の出番」とばかりに勢い込んで安倍首相は中東訪問に出かけてしまったのではないでしょうか。そうでなければ、近傍で日本人の人質の命が危機にさらされているエジプトまでノコノコと出かけて行って、「日本はテロに屈しない」と豪語した上で、「“イスラム国と戦う周辺各国に”、総額で2億ドル程度支援をお約束します」などとイスラム国と自ら対峙するかのような発言をして無用に相手の神経を逆撫でするようなことをするはずがないからです。同額の2億ドルの身代金を要求する殺害予告ビデオがアップされるに及んで、慌てて「2億ドルの拠出は人道支援のため」と強調していましたが、先方にとっては「有志連合側の武力強化のための支援」としか受け取られなかったに違いありません。実際に、週刊ポスト誌でも「そもそもカネに色はつけられない」としているように、支援金が有志連合諸国によって確実に人道支援目的のみに使われることは担保しようがないのではないでしょうか。それに、人道支援が目的であるのならば、有志連合側であろうとISIL側であろうと敵味方なく、「その武力行使によって被害を受けた人民の人道支援」のために使われるべきなのですから、支援を約束するにあたって対峙する姿勢を強調するのは無用どころか逆に危険だったのではないかと思います。安倍首相は総額25億ドルに及ぶ中東支援について「日本にとっては大したカネではないが、中東諸国にはたいへんな金額だ。今回の訪問はどの国でもありがたがられるだろう。」と自信満々に述べていたそうですが、“大したカネではない”にしても首相のポケットマネーで払うわけではなく、結局は日本国民が負担するわけですから、支援金の拠出に当たっては、その目的と用途や管理方法について充分な配慮をした説明をしておくべきでした。


「テロに屈しない」という言葉

 アメリカで9・11同時テロ事件が起こった時に当時のジョージ・ブッシュ大統領が発したのが、この「テロに屈しない」という言葉でした。その後、イラクで人質として拘束された日本人青年の香田青年がテレビカメラを通じて助命を嘆願していたにもかかわらず、釈放の条件となっていた自衛隊撤退について、当時の小泉首相が開口一番「自衛隊は撤退させない」と言い放った時に枕詞として発したのも同じ「テロには屈しない」という言葉でした。“自己責任”論が声高に叫ばれるようになった当時も、自衛隊の派遣は「人道支援」が目的となっていました。しかし、小泉首相がアメリカのイラク侵攻方針に対して真っ先に支持の意を表した日本から銃を携え迷彩服を着た自衛隊がサマーワに乗り込んきたのですから、イラク国民の目には「すわ、日本軍隊の侵攻!」と見られても仕方がない状況でした。“米国のポチ”と蔑称された小泉首相の頃から、中東の地でも「戦争をしない国」として得ていた日本の好感度が大きく揺らいでいるということを安倍首相は理解しておくべきでした。「屈する」は「相手に劣り負ける」という意味ですから、「屈しない」は「相手を凌いで勝つ」という意味になります。従って、直接に勝負を競う立場にない日本としては、「テロに屈しない」ではなくて「テロの標的になる筋合いがない」と表明して、「日本人は武力行使をして危害を加える存在ではない」ことを説明して相手方の説得に努め、そのことを身をもって示していた後藤健二さんの釈放を求めるべきだったと思います。


「十字軍」の意味するもの

 安倍首相が行ったエジプトでの記者会見の2日後にインターネットにアップされた殺害予告ビデオでイスラム国が「日本の首相は自発的に“十字軍”に参戦した」と語っていることにももっと注意を向ける必要があります。「十字軍」は、中世に西ヨーロッパのキリスト教諸国が度重ねて対イスラム遠征軍のことですので、西欧諸国からみると、「聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣された“義にして聖なる軍隊”として美化されがちになります。そして、欧米流の歴史観に基づいて行われている日本の学校の歴史教育でも十字軍は“善玉”として位置づけられているのではないでしょうか。しかし一方、中東の人々の目からみれば十字軍は、武力行使によって自分たちの祖先を迫害したに危害を加えた許し難い“悪玉”であり憎悪の対象でしかないはずです。ですから、安倍首相のエジプトでの記者会見の内容は、ISILにとってみれば“にっくき今様十字軍”(有志連合)入りした日本からの“宣戦布告”そのものように見えたことでしょう。いずれにしても、欧米流歴史観に偏した学校教育しか受けていない私たち日本人には、「中東の人々が何を願い何に対して憤っているのか」知らないことが多過ぎるということを反省する必要があるのではないでしょうか。


アメリカが撒いた種

 近年では、アメリカ軍がイラクに対して大義名分なき戦いを仕掛け、多くの無辜のイラク人たちの命を奪ったり国富を破壊したりすることによって、イラク人の民衆の中の反米感情を募らせています。もっと悪いことには、“諸悪の根源”とされていたフセイン政権は除去することこそできましたが、イラク国内に内乱とテロを蔓延させる結果になってしまいました。いくらフセイン政権が非道を尽くしていたとはいえ、少なくとも内乱やテロは封じ込んでいたのですから、フセイン政権亡きあとにどのような事態が訪れるか当然予測することができたはずなのに、当時の小泉首相をはじめ日本の為政者たちはアメリカの“向こう見ずな”イラクへの軍事介入を掣肘するどころか、自称“世界の警察”の尻馬に乗って囃したてているだけでした。そして、大義名分なきアメリカの軍事介入こそが「テロ」であるとして、同じように「テロには屈しない」という思いを強めてますます尖鋭化していったイラク国内の反政府勢力(アメリカの傀儡政権ですから“反米勢力”と言っても過言ではないかもしれません)が地域的にも拡散してきたのが現状ですから、日本の為政者たちは結果的にイスラム国の台頭に間接的に加担したということになります。いずれにしても、いつまでも“アメリカ命”と盲従していないで、イラクばかりでなく世界のあちこちで“世界の警察”らしからぬ“向こう見ずな”愚行や暴挙の類を繰り返して反感を抱かれているアメリカに対して「ノ―と言える日本」にならなければならないのではないかと思っています。


“憎悪の連鎖”の拡大

 後藤健二さんのお母さんの石堂順子さんは、記者のインタビューに答えて、悲嘆にくれながら「悲しみが“憎悪の連鎖”となってはならないと信じます」と声をふりしぼって語られ、なおも健気に「『戦争のない社会をつくりたい』『戦争と貧困から子供たちの命を救いたい』という健二の遺志を引き継いでいきたい」と続けておられました。しかし、その切なる願いも空しく、後藤さんとともに釈放することを求めていた自国パイロットが既に殺害されたと知ったヨルダン国民の憎悪は爆発し、ヨルダン政府は身代わりとしてイスラム国に釈放しようとしていた女性捕虜に直ちに死刑を執行するとともに、イスラム国の拠点に対する空爆を強化して“憎悪の連鎖”が拡大する結果となってしまいました。もちろん、残忍なテロ行為は決して許せるものではありません。しかし一方、空爆によって、何の罪もない市民を巻き添えにして死傷させることも許されることではありません。そんな空爆も、過去の歴史が語っているように抵抗勢力を根絶できるものではなく、空爆を凌いだ後にイスラム国は更に潜伏しながら先鋭化して勢力範囲を拡大させて“憎悪の連鎖”が延々と続くことになるでしょう。産油国でもなく財政が貧しいヨルダンが日本を含む有志連合から支援を得て最新鋭の爆撃機や弾薬を空爆に用いているのに対して、ISILが世界を恐怖に陥れているのはどこでも手軽に入手することができるナイフ1本だったということを覚えておく必要があると思います。


安倍首相の“思う壺”?

 後藤さんの「戦争のない社会をつくりたい」という願いは日本国の平和憲法の精神をそのまま映したものでした。「喧嘩両成敗」は古今東西を問わず通ずる原則です。喧嘩する当事者には、それぞれの言い分があります。何よりも、両者に向けて喧嘩を止めるよう働きかけなければ“憎悪の連鎖”を断ち切ることができません。「戦争のない社会をつくりたい」という思いをもち直して臨まなければ、日本は中東ばかりでなく国際社会で矜持ある立ち位置を得ることができないばかりでなく、本来は「テロの標的になる筋合いがない」はずなのに、その恐怖にさらされながら日本国民は周囲を警戒しながらオズオズと日々を過ごしていかなければならなくなります。ところが、日本国内でも“憎悪の連鎖”が始まって、「海外邦人を自ら救出できないのはおかしい」という主張が台頭してきて、国会でも集団的自衛権行使の延長線上に「海外邦人救出のために自衛隊を出動させるべきである」などという“向こう見ずな”論議が交わされるようになり、更には、安倍首相がかねて念願していた平和憲法改憲への動きが顕在化してきました。これは、安倍首相の“思う壺”であり、週刊ポスト誌記事の副題「安倍首相は“テロでツイてる”と笑った」というのはここまで読み切って付けられたのかと改めて思い直しています。思えば、今回は小泉首相当時のように「自己責任論」が表面に出ないのも不思議なことでした。ことによると、最初から「日本国民の人命が最優先」として善人首相ぶりを装いながら事態を“思う壺”に誘導しようとしていたのではないかとさえ思えます。私の心にポッカリと大きな空洞があいたのは、安倍首相に対する「後藤健二さんの死から学んで反省してほしい」という「人間」としての期待が裏切られたことが最大の要因になっているのかもしれません。


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