戦 争 ・ 紛 争


戦争と平和を考えてみよう
2014.02.08
3組 佐々木 洋

梅津さんの戦争体験を聴いて


許すまじ戦争体験の風化
 御歳93歳の梅津忠雄さんは、小田原の「和みの会」のいわば総指揮官である。歩行こそ電動カーを使われているが、矍鑠としておられ、この人の元気で若々しい「スタンバイ」の発声で、毎朝のラジオ体操が始まる。そんな梅津さんがある時ご自分の戦争体験の片鱗を口にされた。そしてこれにいち早く呼応したのが、単身で立ち上げてから、梅津さんとのコンビでおよそ10年間にわたって「和みの会」を育ててきた参謀総長格の浅田絢子さんであった。
 そして、「今や数少なくなってしまった戦地体験者の経験を風化させてはならない」という浅田さんの思いが広がっていって、小田原市会議員をされている植田理都子さんが企画してくださった「梅津さんの戦争体験を聴く会」(2014/1/25:於、「音羽」) には「和みの会」メンバー総勢17名が参集することになった。


満州にもあった“和み”の一時
 梅津さんはお話を始める前に「なにぶん70年も前のことだからこんな写真しか残っていなくって」と前置きされてから2葉の写真を回覧に付された。当然モノクロ写真だが、写っているのは紛れもなく、今になお面影を残す若かりし日の梅津さんの若手将校姿。梅津さんはまた、「“トン”と“ツー”」の二つの符号の組み合わせでデータを送る(これぞデジタル!)モールス信号を駆使しておられたのだから、今をときめくITエンジニアのはしりのようなもの。イケメンでハイテク技官の青年将校殿のことだから、平和時ならさぞやオモテになったことだろうにと羨望交じりに思っていたところ、梅津さんの話は思いがけずも、戦時にあるまじき“見目麗しき女性”がらみの話から始まった。梅津さんにとって忘れられない日となった昭和20年8月8日に、同僚とともに将校が集まる軍人会館で、夜の10時頃まで大和撫子二人を侍らせて酒を飲んでいたのだという。そうか、♪ここは御国を何百里 離れて遠き満州の♪と歌われる辺境の地にも“和み”の一時があったのか!?!?。意表を突く梅津さんの語り出しであった。


雨あられの砲弾を浴びつつ“敗走開始”
 しかし、昭和20年8月8日の“和み”の一時を境に梅津さんの人生は一気に暗転することになる。満月がかかり夜道を照らしていたが、まさに月に叢雲、虫の知らせを感じて官舎に戻ってみると、馬の蹄の音が聞こえる異常な気配。果たして当番兵の迎えが来て「呼集です」とのこと。かくて師団長から非常呼集がかかり、非常事態宣言が連隊に下達された。やがて程なくして、山をはさんで対峙していたソ連軍の戦車が南チグロ山を下ってくるのが見えてきた。いよいよ戦闘開始である。そして、ソ連軍の攻勢は凄まじく、暗号書を焼却してから陣地に戻る時には、それこそ砲弾雨あられ。死の恐怖に怯えながら陣地に入った。“戦闘開始”とは言いながら、彼我の間の戦力格差は甚だしく、必死の防戦も空しく苦戦に次ぐ苦戦の果ての“敗走開始”を強いられることになったものと思われる。

命がけの撤退
 やがて、梅津さんたちの部隊は、後方からの砲撃を受けながら、めいめいボンネットなしの日産車などに乗り込んで後退を開始。琿春(フンチョウン)の陣地へ渡る鉄橋を爆破して敵軍の進路を断ったものの、、なおも砲弾の雨は激しく迫ってきて、トーチカに逃げ込んだ時には命からがらの状態であった。因みに、「トーチカ」はロシア語のточкаに発する軍事用語で(日本語では「特火点」と訳されるのだとか)、「鉄筋コンクリート製の防御陣地」を意味し、本来なら、避難だけでなく、機関銃や小型火砲などによって敵部隊に対して攻撃を加えるためにも用いられるのだが、抵抗する術もなく命からがら逃げ込んだ梅津さんたちにとっては「単なる防空壕」でしかなかったのではないかと思われる。このようにして8月8日から18日まで、ソ連軍の圧倒的な優勢のうちに戦闘が続いた。

戦い済んで日が暮れて
 18日に送られてきた電文の暗号を解いてみると、終戦を告げる詔勅がその内容であった。ただちに師団長のもとに持参すると、既に覚悟されていた様子で、すぐさま「将校全員集合」の指示が下された。そして、師団長は部下に対して「捕虜となるのは屈辱だが、生きて日本に帰り、教育を全うするよう」訓示された後、自らは護身用ピストルを用いられ、従容として死に就かれた。弾薬の上に座して、火を燃やし酒をあおりながら自爆した兵器部の将校など、師団長の後を追うものもいたが、梅津さんは、オリンピック馬術競技のメダリストとして名を馳せていた西大尉と同期の高杉中佐らとともに、部下たちを引き連れて“山を下ろう”という決意を固めた。「山を下る」は高き誇りを捨て、低き虜囚の立場に身をやつすことに通ずるが、全員自決を迫られた戦地が数多くある中で、自分たちを生き残らせてくれたのは、師団長が私たちに、「教育」という帰国後の将来の望みを託してくれたからこそだと思っている。但し、師団長殿が胸に描いておられた「教育」とは、ご自分が受けられた日本帝国主義教育ではよもやあるまい。

♪忘れてしまいたいことが♪
 不思議なことに、梅津さんの中では、8月18日以降10月頃までの記憶が抜け落ちてしまっているという。 極度の精神的な緊張が続く場合、人が行き着くのは、自殺か狂気か宗教のいずれかだという。しかし、今津さんの場合には、無意識のうちに忘却することによって精神が辛うじて健康を保つことができたのではないかと思われる。この間に、後陣にいた将校たちと違って、前線にあって直接ソ連兵と対峙していた招集兵たちは更に悲惨な経験と措置を強いられていたにちがいない。また、梅津さんが憎からず思っていたあの“見目麗しき大和撫子”も含めて様々な動機から満州に新天地を求めて居留していた民間の日本人に対しても耐えがたいほどの危害が加えられていたものと思われ、戦時中と終戦直後にありがちな、見るに忍びず聞くに堪えない、それこそ阿鼻叫喚の地獄絵図が梅津さんの周辺で繰り広げられていたのではないだろうか。この梅津さんにとっての“空間”の1か月半の間こそ、実は、梅津さんが最も悲惨な出来事を目撃されていた時期なのではないかと想像するに難くない。梅津さんの心境は♪忘れてしまいたいことが今の私には多過ぎる♪と歌われるのより遥かに深刻だったのではないかと勝手に推測している。

“交易”を求め駆け寄ってきた「ロスケ」たち
 そうこうしているうちに12月1日にウラジオストックに移送されることになった。「これで日本に帰ることができる」と思ったのだが、実はこれが糠喜びで、50トン貨車はひたすら北上していって、満州鉄道の終着駅チタに着き、そこから更にシベリア鉄道に乗り入れてバイカル湖畔のノボリシビルに梅津さんたちは身柄を移されたのであった。ここでは、ロシア人たちが「ダバイ、ダバイ」と口ぐちに言いながら近づいてきて、手にしてきた白パンと当方の手拭や褌などの布類との交換を求めてきたのを覚えている。ダバイ(Давай)には英語の”go”に似たニュアンスがあるから.「ダバイ、ダバイ」は日本語なら「早く早く」とか「さあさあ」に当たるのだと思う。ともかく、“交易”を求めて我先に駆け寄ってきたのが印象的だった。今にして思えば、紡績産業や織布産業が発達していた日本では普及し尽くしていた布類が、工業未発達のソ連では貴重品だったのであろう。そんな工業の発展が遅れていて民度が低いロシア人たちを梅津さんたちは「ロスケ」と陰で蔑称していたとのことであった。

極寒と飢餓を凌ぐ
 梅津さんの“シベリア道中”はなおも続き、今度はモスクワから30km程のところにあるラーダの収容所に移されることになった。 ここはかつて10月革命の際に囚人が収容された揚句に銃殺されたといういわくつきの薄ら寒い雰囲気が漂っていたが、外界は薄ら寒いどころではないまさに極寒で、気温が零下50度に及び、またたく間に防寒帽に霜が付くほどであった。収容されていたのは将校約1,000名。国際法では将校にラボータ(労働)をさせるのが禁じられているのだが、ここでは水汲みの仕事などをさせられていた。地面が掘っても掘っても氷のツンドラ地帯なので、氷を階段状に切っていって掘り当てた水をくみ上げるのは結構きつい作業であった。食事は1日2食であったが、配送過程で中間搾取が行われていたためか、国際法で将校宛として規定されている塩や砂糖の量まで満たされなくなり、食糧不足の事態に見舞われた。師団長から授かった、帰国してから教育をするというミッションがあったからこそ生き延びることができたと言えば美談になるが、実際には、“貧すれば貪す”で、草を摘んで飯盒で煮て食べるのはまだしも、ネズミ、ヘビに至るまで手当たり次第に食材として飢えを凌がざるを得なかったというのが事実だったようだ。

極寒の地にも「和み」の一時
 ラーダでの収容生活は1年間に及んだが、ここでも梅津さんは「和み」の一時に恵まれることになる。ある日突然、ロシア人女性が「タバーリッシ、ナイトウ」と声をかけ握手を求めてきたのである。因みに梅津さんの旧姓は内藤である。そして、このロシア人女性は日本語が上手で、かつて(梅津さんの言によると、「多分諜報活動をしながら」)飲食店を経営しており、内藤青年が何くれとなく面倒を見ていた人らしい。梅津さんにしては、まさに“地獄で仏”であり、「情けは人のためならず」と述懐されていたが、「同志」という意味の「タバーリッシ」を敵国将校の名前に関して呼んだところから察すると、このロシア人女性も梅津さんに対して大いに恩義を感じていたのだろう。この恩返しなのだろうか、梅津さんには無届外出許可証が発給されるところとなり、爾後、梅津さんが外出して町に出て、かつての上官筋にウォッカなどを調達してくるようなことができるようになったのだとか。因みに、ロシア人女性は一般的に、若い頃にはテニス選手のシャラポアのようにスタイルの良い美人が多いのだが、お年を召すと総じてビアダルポルカみたいになってしまう。梅津さんに恩返しをしたロシア人女性がシャラポア・タイプだったかどうかは残念ながら聞き損ねてしまった。

いざ帰国、そして故郷の甲府市へ
 更に、エラブカ収容所に移ってから、昭和23年6月にようやく帰国ということになり、カザンに移って帰国の準備を整えた。そして、ナホトカまで汽車で行って、「遠州丸」に載っていざ帰国。舞鶴港が見えた時には、感動のあまり涙を禁じ得ず、涙ににじむ日本の風景はことのほか綺麗に見えたという。その時、上陸してから港周辺で買った饅頭の値段が10円。かつては将校の給与が180円(そのうち80円は留守宅宛送金)で兵隊が9円50銭であったから、兵卒にとっては饅頭一つ買えない状態になっていたわけである。厳しい境遇の中にあったとはいえ、職業軍人であるがゆえに何かと優遇された上、このように無事帰還することができた我が身は未だ恵まれている方だと改めて思い直したと梅津さんは言われる。しかし、そんな思いで、中央線に乗って故郷の甲府駅に向かった梅津さんを迎えた家族の中に、父親の姿はなかった。母親に聞いてみると、昭和21年6月に亡くなっていたということで、ちょうど梅津さんのいう「夢にオヤジが出てきたので不吉な感じがした」時期と符合する。梅津さんは更に、父親がお茶箱に米を入れて天井裏に隠しておいてくれたことを知り、親の有り難さに感激して涙したと言われるが、遠く離れたシベリアにいて会うことができない子供を思いやりつつ逝去されたお父様の思いも強烈であり、これがテレパシーとして伝わったものと思われる。いずれにしても、平和な家族関係が戦争によって断たれるという点では、将校であれ兵卒であれ変わるところがないのは確かである。

“非美こもごも”の“ユーラシア大陸往復横断”
 梅津さんの「満州・シベリア流転ルート」を可視化するために、「梅津さんの戦争体験を聴く会」に参加した小田高3年3組同期同級の根岸敏郎兄が以下のような地図を作ってくれたので、これまで記してきた地名を辿って梅津さんの足跡を辿ってみてほしい。趣はいささか違うがまさに「東奔西走」の形で、ほぼ“ユーラシア大陸往復横断”を達成されている。東端のウラジオストックからシベリア鉄道で、西端のラーダの最寄り駅モスクワまで9,259Km、 往復で約18,500Km。気が遠くなる程距離の長いシベリア流転の行程でもあった。暖房はおろか屋根構さえ満足に装備されていない車両の車窓から、果てしなく続く寂寞たるツンドラの荒野に目を見やりながら梅津青年は何を思っていたのだろうか。

 しかし、梅津さんは、ロシアのソチで行われた冬季オリンピックのテレビ放送をご覧になって、「特にスラブ系のロシア人の若い女性の美しさは今も昔も変わらない」と感慨深く思っておられたそうである。極寒や飢餓にさらされてユーラシア大陸横断を“させられ”ながら相手国の美点を見失わなかった梅津さんが、ふと漏らされたさりげない一言から、「相手国の“非”を見るだけでなく、より以上に“美”を認め合っていくところに相互コミュニケーションの原点がある」というヒントが得られるように思う。

梅津さんの「教育」の成果
 帰国してからの梅津さんは、かつて師団長から示唆されていた「教育」の実践について色々模索されたが、教育は一人の手に負えるものではないと実感して断念され、その代わりに、甲府市から移転してきた小田原市に協力して「あいさつ運動」などを主導して子どもたちとの交流する形をとられたとのこと。そして、「教育」の難しさを思い知らされたのは、戦争終結から29年目にしてフィリピン・ルバング島から単身帰還された後、南米で成功を収めてから、日本での「教育」の必要性を感じて「自然塾」を立ちあげながら、失敗し失望して南米に戻った小野田寛郎さんも同様だっただろうと続けられた。確かに、大きく「教育」と振りかぶると、教育内容の体系が整備されていなければならず、とても一人では立ち上げ難いものとなろう。しかし、梅津さんが「和みの会」で毎朝率先励行されている「大きな声であいさつを交わし合う」ことが何よりの教育なのではないかと私は思う。「大きな声であいさつを交わすこと」が「相手を気遣うこと」と「双方向コミュニケーション」の原点だからである。現に、梅津さんと浅田さんが「大きな声であいさつを交わすこと」から始まった「和みの会」は、60人規模になった現在でも「相手を気遣うこと」と「双方向コミュニケーション」に満ち溢れている。翻って考えてみれば、今回の梅津さんを囲む会の主題となった戦争さえも、「相手の国と国民に対する気遣いのなさ」と「相手国首脳との間の双方向コミュニケーションの欠如」によって起こるのではないかと思う。

荒廃した日本の家庭の復興に向けて
 梅津さんは、戦前の日本人は「教育勅語」によって、「父母ニ孝ニ」や「兄弟(けいてい)ニ友ニ夫婦相和シ」、「朋友相信シ」などといった修身教育が、学校内とともに家庭内でも一貫してなされていたと述懐されている。そして、敗戦後、教育行政が180°変って、欧米流の民主主義教育が導入され、日本人がそこから“勝手気まま”を良しとする“誤った自由”を学びとってしまったことが現在の日本の精神的風土を荒廃させてしまったと悲嘆にくれられている。家族制度の崩壊もあって、家庭内教育も一貫性のない“勝手気まま”なものとなり、「父母ニ孝ニ」とは対極の親殺しやその逆の子殺しが多発する現在の日本は、梅津さんにとっては見るに堪えられないものになっているに違いない。確かに、「教育勅語」の基本精神となっている「忠君愛国」の天皇制思想には問題があるものの、学校や家庭内での教育によって、かつての日本人が豊かな愛情に満ちた心を育まれていたのは事実なのであろう。梅津さんが未だに「閣下」と呼ばれている師団長殿が辞世の辞代わりに託された「教育」の原点は、まさに「人に対する思いやりや施し」だったのだと強く語っておられる。家族間の思いやりによる絆を失ったために親殺しや子殺しが起こった家庭では「お早う」の挨拶さえ交わされていなかったに違いない。毎朝のラジオ体操の際に、多くのメンバーを家族同然に迎えて、「大きな声であいさつ」を交わして「相手を気遣うこと」を実践されているのにも、更にそのメンバーの個々が家庭内で実践することによって、「人に対する思いやりや施し」の輪が広がっていくことを願う梅津さんの切なる願いが込められているのではないだろうか。実際に、毎週水曜日のラジオ体操にしか参加していない私に対しても、多くの「和みの会」のメンバーが思いやりの声をかけて下さるので大いに「思いやりを受ける」ことの喜びを感じ、今度は「思いやりを与える」側に回らなければと常々思っている。

戦争体験談を正しく語り継ぐために
 お話のしめくくりに当たって梅津さんは、謙虚に、「戦地体験と言っても、爆弾三勇士や人間魚雷・回天、神風特攻隊などの劇的なものから、戦地に赴いて病死したというものまで様々であり、今日お話しした私の体験談などは戦争の全局面のうちのほんの1点でしかない。しかし、今日ここで皆さんが私の話の中に耳を傾けてくださったのはとても嬉しいし、その中に少しでも皆さんの御役に立つところがあれば光栄だ」という旨述べられた。確かに、お話しいただいた内容は、戦争の全局面のうちの1断片に過ぎないのだろうが、これは誰にお話しいただいたとしても同じことであって、お聞きした内容が戦争の全局面のうちにどのように位置づけられるものなのかということは聴き手が判断すべきことだと思う。私自身は梅津さんのお話をお聴きしながら、梅津さんが置かれていた境遇を理解するには、時代背景などについて自分があまりに無知過ぎると実感した。そこで、梅津さんのお話しの背景を理解することによって、せっかくお聞きすることができた戦争体験談を正しく語り継げるよう、改めて自分の知識の欠けたるところを補いながら、以下のような「梅津談話補講」の記述を取り纏めた。

何のための戦争だったのか


当時の日ソ関係
 日本とソビエト連邦の間には5年間の有効期間をもつ「日ソ中立条約」が1941年(昭和16年)に締結されていた。そして、対連合軍戦の戦況が悪化し続ける事態に及んで、日本政府はこの「日ソ中立条約」を頼みとして、ソ連を仲介した連合国との外交交渉を行うよう働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保英を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとしていた。一方、自国の戦力も消耗させながら対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のために当時ドイツと交戦中であったソ連の対日参戦を画策しており、1943年(昭和18年)3月の米英ソ外相会談では、ルーズベルト大統領の意を帯して、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請している。そして、日本と連合国との“二股”をかける形になったソ連は、文句なく連合国側に与することとし、1945年(昭和20年)2月には具体的に「ドイツ降伏後3カ月以内に対日参戦する」ことを連合国側に約束する一方、 同4月には「日ソ中立条約の延長を求めない」ことを日本政府に通告してきた。梅津さんの人生が一気に暗転したという「昭和20年8月8日」の4か月前既に日ソ関係は“累卵の危うき”の状況に達していたのである。

一触即発の事態であった
 もともと自国を「悪」と位置付けて戦争を仕掛ける国はあり得ない。従って、ジョージ・ブッシュ流に言えば、ドイツ、イタリアとともに「悪の枢軸」に名を連ねていた日本に与すれば、ソ連は、国際世論上圧倒的に「善」とみなされていた連合国と対立することになる。しかも、連合国に与すれば千島列島と樺太を領土とすることが担保されるという国益が得られる。従って、ソ連国民にとっても“悪との連携”としか思えなくなった「日ソ中立条約」がソ連政府首脳にとって“目の上のたんこぶ”でしかなかったのだろう。そして、「日ソ中立条約の延長を求めない」と日本政府に通告した直後の1945年5月にドイツの降伏が実現。今度は、ソ連が、連合国との「ドイツ降伏後3カ月以内に対日参戦する」という約束を守るために躍起になる事態となったわけである。梅津さんは、いつソ連が対日参戦してもおかしくない一触即発の境遇に置かれていたことになる。

日ソ間の戦力格差
 もともと、軍拡競争で日本はソ連に対して大きな遅れを取っている上に、陸軍省が太平洋戦争の戦火拡大に伴って軍備の重点を南方にシフトするため満州からも南方前線へ戦力が抽出され満州における軍事力は急速に低下していた。一方、ソ連はドイツに戦勝した後、シベリア鉄道をフル稼働させ、シベリアに急速に戦力を集結していた。そして、満を持してソ連が対日参戦を開始したのが梅津さんの遭遇した昭和20年8月9日未明のソ連軍の侵攻だったのである。対日戦闘に加わったソ連兵の総数が160万人弱でこれに応じた日本兵の総数が約70万人でおよそ人員比2.3 : 1だから、ランチェスターの法則によると戦力比は人員の2乗の比で5.2 : 1になる。戦地によって戦力格差は異なっていたと思われるが、平均5倍以上の戦力による攻撃を受けたのだから日本軍がひとたまりもなく撃退されたのも無理はない。梅津さんたちが敗走を重ねざるを得なかったのも、このような戦力格差があったからなのだ。

危機意識を持ち得なかった

 しかも、この8月9日開戦に関しては、東京本部がその気配を予め察知していたのに対して満州部隊を統べる関東軍には甘い見方があったようである。やはり、ドイツ戦線との関連などから全体を見極めることのできた東京本部と、目の前の局地情報しか持ち得なかった関東軍とでは判断レベルが違っていたのであろうか。それとも、ソ連軍の戦力の強大さだけは察知していながら、これに抗する術のない関東軍としては、ひたすら「日ソ中立条約」が有効期限の1946年(昭和21年)までは破棄されることがあるまいと、ひたすら信じ願っている他になかったのかもしれない。また、現地居住の日本の民間人に対しても、他の地へ移転して避難させることが検討されはしたものの、居住民の引き上げによって関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される恐れありとして、「対ソ静謐保持」の理由で危機迫る現地に居住している日本の民間人はそのまま据え置かれることになった。いずれにしても、昭和20年8月8日の酒席におられた梅津さんも、これに侍っていた大和撫子たちも、危機意識をもたらす情報を与えられることなく日々を過ごさせられていたのである。戦勝事例ばかり報道していた「大本営発表」も然りだが、最近日本で制定された「特定秘密保護法」についても、同様に国民を情報から遮断するものとなるのではないかという危惧を強く感ずるのだがこれは私だけなのであろうか。


そもそも「満州」とは
 そもそも「満州」(本来の表記は滿洲)とは、17世紀に「清」の国を興した満州族が居住していた地域であったことから満洲国建国の際に付けられた地名である。しかし、その満洲国が中国の主権によるのではなく、関東軍(大日本帝国陸軍)の主導のもとに建国された国であるとしてその存在が認められていないので、現在では「満州」という地名は用いられておらず、代わりに「中国東北部」と呼ばれている。日本がこの土地に進出したのは、1904-5年(明治37-38年)の日露戦争に勝利してロシアから「関東州」とここを通る「東清鉄道」の一部を得てからのことであった。そして、満州を守備するために関東州に送り込まれたのが後の「関東軍」の前身であり、その「関東軍(大日本帝国陸軍の満州駐留軍)」が主導した「満州事変」(1931-1933年:昭和6-8年)が起きて、関東軍はわずか5ヶ月の間に満洲全土を占領することになる。梅津さんが逗留されるより10余年前に、満州では、大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)が起こっており、逗留中は中国全土で大日本帝国と中華民国の間で行われた「日中戦争」(1937-1945年:昭和12-20年)の最中だったのである。なお、大日本帝国政府は、「日中戦争」を勃発当初は「支那事変」と呼んでいたが、1941年(昭和16年)12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴って、支那事変から対英米戦までを「大東亜戦争」という呼称に改めた(中国側では、「抗日戦争」と呼称されている)。

なぜ日本は満州を死守しなければならなかったのか
 ちょうど100年前に「第一次大戦」(1914-1918年:大正3-7年)が起こった時、日英同盟を理由に参戦を促してきたイギリスの誘いに乗って日本は参戦してドイツに宣戦布告し、アジアや南洋諸島にあるドイツ租借地を攻略・占領し、かねての狙い通りに、ドイツの権益を入手したばかりでなく、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアとともに「五大国」の一つとして「善の枢軸」に位置付けられるようになった。では、その「善」の位置を捨てて、満州事変や大東亜戦争を引き起こすことによって世界中から「悪」呼ばわりされるようになりながら、なぜ日本は満州を死守しなければならなかったのだろうか。「第一次大戦」で戦勝したものの、自らも多くの犠牲者を出し経済活動も低迷していた欧米諸国と違って、“いいとこどり”をした日本の経済には空前の好景気が訪れたが、欧米諸国の復興に伴って反動としての戦後不況に見舞われて企業の倒産が相次ぎ、更に、関東大震災(1923年:大正12年)に追い打ちをかけられ日本経済は破綻状態に追い込まれていた。こんな時に活路として注目されたのが、広大な農耕地と豊富な鉱物資源に恵まれていて、日本の困窮している農民や都市部の失業者を吸収することが期待できる「満州」であった。そして、実際に、関東軍要員とともに132万人にも及んだ開拓団や民間人が大挙して満州に渡っていって、南満州鉄道の経営権も含めた権益を獲得していき、その急激に拡大した権益を守るために軍備配置が必要になったものと考えられる。

物質的な権益と精神的な支柱と
 多くの戦争は、このような物質的な権益を得たり守ったりすることが動機になりがちであるが、それだけではそれぞれの国民を「お国のため」という強い気持ちをもって戦地に動員することができない。日本の場合は、大東亜戦争から第二次世界大戦にかけて大日本帝国の政策標語として用いられた「八紘一宇」というスローガンが精神的な支柱となって愛国心と戦闘意欲の昂揚に役立てられたものと考えられる。「八紘一宇」とは、「世界を一つの家とすること」という意味であり、昭和15年(1940年)の第2次近衛内閣による基本国策要綱には、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」と表現され、大東亜共栄圏の建設と併せて言及されている。「八紘一宇」の言葉の裏には、「東亜新秩序の実現を軸とした世界平和の確立という“善”は皇国の臣民(大和民族)によってのみなし得る」という強烈な民族意識の訴求が垣間見えるような気がする。こうした意識が軍国主義教育によって強烈に刷りこまれることによって、かつての日本の若者たちは戦地に駆かりたてられていったのではないだろうか。かつて師団長殿が梅津さんたちに帰国後実行するようにと示唆された「教育」はこのような軍国主義教育とは全く違うものであるはずである。

民族蔑視と暴虐行為
 しかし、愛国心や民族意識の昂揚の仕方を誤ると、特に戦争時には痛ましい悲惨な事態を招来することになる。梅津さんは、お話の中でご自分もロシア人を「ロスケ」と蔑称していたと正直に“白状”されていたが、日本人がロシア人に対して戦時に特有の暴虐行為などを働いたとは誰からも聞いたことがない。これは、日本軍が勝利モードになかったからであって、逆に、ロシア人が銃を持たない日本人の民間人に対してさえ、手当たり次第に、見るに忍びない暴虐や慮辱、略奪の行為をしているのを梅津さんは目の当たりにされている。
では、日本人が中国人や朝鮮人をそれぞれチャンコロ、チョンと蔑称していて、しかも日本軍が勝利モードにあることが多かった中国や韓国の地ではどうだったのであろうか。「南京大虐殺」や「慰安婦問題」については、事実無根だとして退ける意見もあるが実態はどうだったのだろうか。
 私は2012年の大連旅行の際に「二〇三高地陳列館」を訪れて、右の写真を見て大きな衝撃を受け、いきなり冷水を浴びせられたような思いがした。日本兵が農民と思われる中国人を打ち首にしようとしている瞬間を撮った写真で、うすら笑いを浮かべながらそれを見て立ち並んでいる日本兵の姿も写っている。この写真にさえ「中国政府のプロパガンダのために作られた写真であり、日本の非道の証しとして、同じ写真が使い廻されている」という意見があるがどうなのだろうか。
 私は、民族蔑視がある場合、殺すか殺されるかという切迫した精神状態に置かれる戦地にあっては異常心理が働いて、少なくとも“このような蛮行が行われがちだ”ということを認めて、「当時の日本軍は中国内では全く蛮行をしなかった」と言いきれない限りは、無駄な弁解はすべきでないと考えている。

戦争の影に「国家の権益」あり
 かつてアメリカ軍は、広島と長崎に原爆を落とすことにより銃をもたない日本人を“大量虐殺”するという“蛮行”を犯したが、これは相手が“JAP”と蔑む日本民族だからであって、もし日本人がアングロサクソン系であったならば決して犯さなかった“蛮行”ではなかったのではなかろうか。ナチス・ドイツも然りで、民族に対する偏見をかきたてることによってユダヤ人迫害という“蛮行”に及んでいる。戦争が終わって、“鬼畜米英”と思い込まされていたアメリカ人が実は“陽気なヤンキー”だったと分かり、「こんな“いいヤツ”と銃を向け合い殺傷し合っていたのか」と改めて思った日本人も数少なくないはずである。本来、国籍は違っても “いいヤツ” 同士では、梅津さんが率先垂範して行われている実質的な「教育」の成果が示しているように、お互いに「相手を気遣うこと」と「双方向コミュニケーション」ができるものなのだ。ところが、お互いに権益を争う国家が介在すると事態はややこしくなる。お互いに自国の権益を犯そうとする相手国を「悪玉」として、「白玉」である自国が権益を守るための大義名分を仕立てあげて、それぞれ“聖戦”だの“自衛のための戦争”だのという美名のもとに、また、相手国民を蔑視するよう仕向けて、本来は国家の権益とは直接かかわりのない国民に銃をとらせて戦地に赴かせ、結果的に両国の“いいヤツ”同士が銃を向け合い殺し合うことになってしまうからである。

“武器にさらば”をしなくては
 戦場においては、撃つか撃たれるかの状況に立たされることが常なので、“自衛のため”心ならずも敵兵に向けて発砲して“殺人”せざるを得なくなる。兵士の戦死を悲しむ遺族も多いが、戦地における“殺人”の事実が消し去り難いトラウマとして残っている元戦士も多いはずである。勝つにせよ負けるにせよ、国家の権益に直接かかわりのない国民にとっては、権益を争って武力を使いあう戦争というものは悲惨で愚かなものでしかないということを私たち日本人は過去の戦争体験を通じて身にしみて知ったはずである。だからこそ、“武器よさらば”を世界に告げる平和憲法に出遭って歓喜したのではなかったのではなかろうか。実際に、日本人の平和憲法に対する思い入れは強く、国の権益にあずかる為政者たちも、平和憲法の解釈を歪めこそすれ、改憲については口をつぐみ続けていなければならないような状況が続いてきた。しかし、「戦力なき軍隊」という詐称をもって作られた警察予備隊が自衛隊に、そして、防衛庁が防衛庁にと平和憲法の解釈と運用は歪めに歪められて、ついには、かつて日本が「日英同盟」のもとにイギリスからの要請を受けてドイツ軍と交戦し、地中海まで駆逐艦隊を派遣したのと全く同じの「集団的自衛権の行使」が正当化されようかという状況に立ち立っている。口をつぐんでいた“戦争を知らない”為政者たちも、後出しジャンケンのように「お仕着せ憲法論」を口にし、マスメディアも平和憲法“改憲”を価値観をこめた“改正”と報ずるようになっている。平和憲法があるからこそ「美しい日本」だったのだが、今や日本は“いつか来た道”に戻って、“積極的平和主義”の美名のもとに「平和のために戦争をする」という人類史を通じて行われてきた愚行を繰り返す国の一つになり下がろうとしている。しかし、このような風潮を嘆き悲しんでばかりいてはならないと思う。危機感を感ずる者は自ら「自分に何ができるか、何をすべきか」考えて行動する必要がある。以下は私が「今しなければならないこと」について纏めたものである。

戦争体験から学び直さなければ


梅津さんの“同期の桜”瀬戸内寂聴の訴え
 梅津さんとほぼ“同期の桜”の宗教家で作家の瀬戸内寂聴さんは、「特定秘密保護法」をゴリ押しした安倍晋三首相と、デモで意見を表明する国民に向かって「デモはテロだ」と放言した石破自民党幹事長について、「安倍さんも石破さんもみんな戦争を知らない世代でしょう。それは仕方のないことだけれども、政治家であれば人一倍、歴史を学ぶ必要があるのではないでしょうか」と述べた上で「私は戦前・戦後に、日本人が中国や韓国の人にどう接したかを目の当たりにしています。それなのに、いまは政治家や公の立場にある人がそれを否定して信じられないような発言をしている。」と街頭に立って警告を発し、更に、「安倍さんが今やっていることを、そのまま許していいのでしょうか。まるで、戦前の日本に戻して、戦争ができる国にしようとするような政策ばかり打ち出している。憲法改正だって、戦争にしたいということです。あの暗い時代を知っている私には、いまが昭和16-7年のように感じられ、軍靴の音がすでに聞こえてくるような気がして怖い。」と訴えている。

戦争も歴史も知らない為政者たち
 私自身も瀬戸内寂聴さんと全く同じ危機感をもっていて、特に、安倍晋三首相が「尖閣諸島に海上自衛隊を常駐させる」と口にした時には慄然たる思いがした。日中両国がともに“警察”機能を果たす機関(日本の場合は海上保安庁)が対応している分には、お互いに「国の財産の保護」をし合う範囲にとどまるが、“戦力ある軍隊”である自衛隊が出動するとなると、“戦争”(武力による国家間の闘争)になってしまうではないか。私は安倍晋三の“戦争音痴”ぶりに呆れるとともに、その歴史認識の貧困さにも胸を痛めている。靖国神社参拝について、「“国”のために命を捧げた“英霊”に対して尊崇の念を表すのは国家元首として当然の責務である」という旨のコメントを繰り返しているが、「英霊」という尊称を用いているのは、実は当時の帝国主義国日本の権益を守るため、国民に“お国のために”と称して銃を取らせた行為を「善」として認めているからとしか思えない。まして、“英霊”が銃の引き金を引くことによって落命した対戦国の遺族にとって“英霊”は許し難い存在なのだ。

“昔の日本” に戻ってはならない

 長年外国人に対する日本語研修に携わってきている関係上、私には多くの外国人、特に、中国人の日本語研修生の教え子がいる。総じて、“いいヤツ”ばかりであり、文字通り“老”師の私との間での「相手を気遣うこと」と「双方向コミュニケーション」が成り立ち“良好な日中関係”が保たれている。こんな愛すべき中国の若者たちに対して、日本のマスメディアは「中国では反日教育が行われている」と喧伝しているが、一体どのようなカリキュラムやコンテンツで反日教育がおこなわれているのだろうかとかねがね疑問に思っていた。センシティブな問題なので、なかなか質問できずにいたが、ある時、お花見という“課外活動”の際にさりげなく尋ねてみたところ、「確かに、反日本帝国主義教育は受けていますが、反日教育は受けていません。私たちは昔の日本は大嫌いですが、今の日本が大好きだからこうして日本に来ているのです。日本に来たくても来られない中国の若者もたくさんいるんですよ。」という答えが返ってきた。そしてその後、何回か同様な試みをしたが、返ってくる答は同じようなものであった。しかし、こんな親日的な中国人であっても、日本の総理大臣が靖国神社を参拝することだけは承服できないようだ。学校で教育を受け、家庭でも祖父母から伝え聞いている“昔の日本”に戻りつつあるように感じられるせいかもしれない。

如何にして語り継いでいくか
 安倍晋三首相や石破自民党幹事長といった“戦争を知らない”政治家が台頭してきたのは、かれらに清き一票を投じ、結果的に「圧倒的な国民的支持」を与えてしまった人びとたちに対して、きちんと戦争体験を伝えてこなかった私たち世代に大きな責任があると思っており、遅ればせながら自分自身が戦争体験から学び直さなければならないと思った。恐らく、「梅津さんから戦争体験談を聴く会」に参加したメンバーも多かれ少なかれ同じ思いをもっているのではないだろうか。同会に参加した際に私は植田理都子さんから飯田濯子さん(「戦時下の小田原地方を記録する会」代表)編になる「語り伝えよう小田原の戦争体験」を1冊いただいた。また別途、同会に出席された中西由季子さんから同じく飯田濯子さん編の「撃ちぬかれた本」をお借りしている。いずれにも、戦争体験を綴った文章が綿密に集録されており、読んでいると、飯田さんが後者の前書きで述べられているように「私たちの生活の場も戦場と同じであったという思い」が切々と伝わってくる。このように後代に「語り継ぐべき内容」は既にかなり整えられているのだ。問題は「如何にして語り継いでいくか」である。私は、インターネットを用いて、伝達先がネズミ講式に広がっていく方法を試みたいと思っている。


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紹介の輪が広がっていって、見も知らない方から
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軍国主義の行く末に
 以下の京土竜なる人物の書いた詩「竹矢来」は私自身がインターネットから検索して、「こんな無残な戦争体験もあったのか!」と胸を突かれ、保存し続けてきたものである。梅津さんも、近在の軍人から士官学校を受験するよう勧められたのを断ったところ、「“非国民め”と大声で罵られ、本当に目から火が出るほど殴りつけられた。」と話されていた。軍国主義がとられていくと、国家の権益にそぐわない国民は随所で「非国民」扱いされ、果ては、この詩のように自殺した「国賊」の家族まで「国賊」扱いされて非業の最期を遂げることになる。詩中で母親が「あの子に罪ゃ無ぇ 兵隊にゃ向かん 優しい子に育ててしもた ウチが悪かったんジャ」と嘆いているが、人の命が軽視されていて親殺しや子殺しのニュースが絶えない現在こそ「兵隊には向かない優しい子」を育てることが教育の課題なのではないだろうか。

竹 矢 来
 

岡山県上房郡 五月の山村に 時ならぬエンジン音が谺(こだま)した
運転するのは憲兵下士官 サイドカーには憲兵大尉 行き先は村役場

威丈高に怒鳴る大尉の前に村長と徴兵係とが土下座していた --- 貴様ラッ!責任ヲドウ取ルカッ!
老村長の額から首筋に脂汗が浮き 徴兵係は断末魔のように痙攣した

大尉は二人を案内に一軒の家に入った  ---川上総一ノ父親ハ貴様カ コノ 国賊メガッ!

父にも母にも祖父にも なんのことか解らなかった
やっと理解できた時 三人はその場に崩れた
総一は入隊後一カ月で脱走した 聯隊(れんたい)捜索の三日を過ぎ 事件は憲兵隊に移された
憲兵の捜査網は二日目に彼を追い詰めた 断崖から身を躍らせて総一は自殺した

勝ち誇った憲兵大尉が全員を睨み回して怒鳴った --- 貴様ラ ドウ始末シテ天皇陛下ニオ詫ビスルカッ!
不安気に覗き込む村人を ジロッと睨んだ大尉が一喝した  ---貴様ラモ同罪ダッ!
戦慄は村中を突き抜けて走った

翌朝 青年団総出の作業が始まった 裏山から伐り出された孟宗竹で 家の周囲に竹矢来が組まれた
その外側に掛けられた大きな木札には 墨痕鮮やかに 国賊の家

---あの子に罪ゃ無ぇ 兵隊にゃ向かん 優しい子に育ててしもた ウチが悪かったんジャ
母親の頬を涙が濡らした
---わしゃ長生きし過ぎた 戦争せぇおこらにゃ 乙種の男まで 兵隊に取られるこたぁなかった
日露戦争に参加した祖父が歎いた

---これじゃ学校に行けんガナ
当惑する弟の昭二に 母は答えられなかった
---友達も迎えに来るケン
父親が呻くように言った
---お前にゃもう 学校も友達も無ぇ ワシらにゃ 村も国も無うなった
納得しない昭二が竹矢来に近づいとき 昨日までの親友が投げる石礫(いしつぶて)が飛んだ
---国賊の子!!
女の先生が 顔を伏せて去った

村役場で歓待を受けていた大尉は 竹矢来の完成報告に満足した
---ヨシ 帰ルゾ オ前ラ田舎者ハ知ルマイカラ オレガ書イトイテヤッタ アトハ 本人ノ署名ダケジャ
彼は一枚の便箋を渡して引き揚げた 大尉の残した便箋は 村長を蒼白な石像に変えた
石像は夜更けに 竹矢来を訪れた

三日後 一家の死が確認された 昭二少年の首には 母の愛の正絹の帯揚げ
梁(はり)に下がった大人三人の中央は父親 
大きく見開かれたままの彼の眼は 欄間に掛けられた天皇・皇后の写真を凝視していた

足元に置かれた 便箋の遺書には 
「不忠ノ子ヲ育テマシタ罪 一家一族ノ死ヲ以ッテ 天皇陛下ニお詫ビ申シ上ゲマス」

村長は戸籍謄本を焼却処分した 村には 不忠の非国民はいなかった


国防は亡国に通ず


軍拡は軍拡を呼ぶ
 軍国主義に至らないまでも、軍事力を備えること自体が百害あって一利なしなのである。以下の釈迦の言葉が、国家間での軍拡競争が起こる必然性を見事に説明している。一旦、A国が刀杖(軍事力)を持つと、B国の軍事力を“おそれ”て自らの軍事力を拡大し、それがまたB国の“おそれ”と軍事拡大を招き、このようにしてエンドレスな軍拡競争の循環過程に入っていくからである。そして、「敵意は敵意によりていつまでも鎮まることなし」という言葉は、たとえ軍事行為で勝利したとしても相手側の敵意は消えることがない、したがって、「戦争によって真の平和は得ることができない」という古今の事実と符合している。そして、ただ敵意なきによりて鎮まる。われらは怨み憎しみ合う人々の中にありて怨みも憎しみもなく安らかに生きたい。」が、平和憲法の精神に合致しているところでもある。

 もろもろの敵意は敵意によりていつまでも鎮まることなし。ただ敵意なきによりて鎮まる。われらは怨み憎しみ合う人々の中にありて怨みも憎しみもなく安らかに生きたい。刀杖をとれる人々を見よ、刀杖をとるがゆえにおそれを生ず。

国内軍需産業維持の問題
 軍拡とともに国内軍需産業の規模が拡大するのも必然的なところであるが、今度は国家として国内の軍需産業を維持することが大きな政治課題となる。武器、弾薬などの発注を途絶えさせてしまうと、軍需産業を枯渇させてしまい軍事技術レベルの向上が望み難くなる。そこで、継続発注をすると、今度は武器、弾薬などの在庫量が過剰となり、“在庫処分”のための武器、弾薬使用、つまり軍事力発動の機会が求められることになる。アメリカ軍が、アフガン、イラクの空爆に当たって、必要量を遥かに超えると思われる量の爆弾を、それこそ雨霰と降らせている映像を見て“在庫処分ショー”を見せられているような気がしてならなかった。

軍事費の投入産出計数はゼロ
 税収からなる歳入が諸官公庁の運営経費に充当される場合には、主に学校、病院、警察などの社会インフラの維持拡大に用いられるのであるから、間接的に経済循環過程の維持拡大に寄与することになる。また、財政支出として道路建設など経済インフラの整備に充当されれば、直接経済循環の効果・効率向上につながり、中長期的な経済成長に貢献することが期待できる。しかし、こと軍事費の投入産出計数はゼロ、つまり、軍事支出は経済成長に全く寄与するところがない。軍事費を充当して生産される武器、弾薬は生産財にも消費財にもならず、軍事費から所得を得る“軍人”の提供する用役は何の付加価値ももたらさないので労働とは言い難い。農場や工場の労働者が戦場に駆り立てられていったために極度の食糧難と深刻な物資不足に陥った戦時中の日本を見ても、他国からの経済援助まで軍事費に投入してしまっている北朝鮮の経済規模が拡大しないどころか危殆に瀕していることから見てもこのことは自明の理である。アメリカで起きたリーマンショックも、経済不振の原因ではなくて、アメリカ軍がアフガニスタンとイラクで軍事費を湯水のように使ったためにアメリカ経済の“カネ回り”が極度に悪化した結果なのである。

平和憲法は窮乏財政をも救う
 日本が財政破綻に瀕しつつあるのにもかかわらず、“軍事費”だけは大幅に増大してきて、今や日本は、実際には復興支援の必要がないイラクのサマーワに自衛隊を派遣したり、「集団的自衛権」の名のもとに“地球の裏側”まで“派兵”したりできるだけの“軍事力”を身につけるに至っている。尖閣諸島問題や竹島問題を必要以上にあおりたてているのは更なる“軍事力”強化に向けての財政支出について国民の同意を得るための方策のように見える。日本国の国民と財産を守るのには警察力を強化すれば足りる。さしたる資源もなく年寄りばかり住んでいる日本列島を攻略して占領したとて得るところがないのであるから、他国からの侵略に対して過剰な心配をすることなく、“軍事費”を大幅に削減すれば、日本の財政を立て直すことができる、つまり、平和憲法の遵守が財政再建の道にも直結するのである。
以 上

 


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