主 張 Home



  戦時中の慰安婦問題 2013.07.10
吉田明夫

 慰安婦の問題として、ここでは太平洋戦争中に強制連行があったかどうかを推測してみます。現政府や歴史家の話としては強制連行を示す証拠は何も無いとのことである。ここでいう強制連行とは慰安婦に関することで朝鮮人労働者の連行を意味してはいない。
 ••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••
 
1965年の日韓条約で植民地時代の請求権問題は「完全かつ最終的に解決」とされている。当時はこの中に慰安婦の問題も当然含まれているものと解釈されていた。
 ところがこれに火をつけたのがこともあろうに日本の言論機関であるという。盧泰愚元大統領が来日時に浅利慶太氏との対談で「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ国民を憤激させてしまいました。」とこぼしたように、日本のマスコミやNGOが、挺対協(
韓国挺身隊問題対策協議会などと結んで大問題に仕立てたのを迷惑がっていたとのことである。
 又、韓国のマスコミの中でも「朝鮮日報」のように「我々が保証し、もうこの恥ずかしい過去の幕を下ろそうではないか」(1993年8月5日)と呼びかけるところが出た。ところが、その前に朝日新聞は「日本の道義が試されている」と題した社説で「だからといって・・・それに甘えるような対応は許されまい・・・<保証は求めない>という韓国側の態度に、安直な対応は出来よう筈もない」(1993年3月20日付)と不満を示した。これこそ盧泰愚が嘆いた日本マスコミによる「焚きつけ」の見本であるという。

 •••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••秦 郁彦 著【慰安婦と戦場の性】より•••••••••
 
 慰安婦問題が米国を含む複数の国で大きな問題となった原因は、元はといえば日本人の「事なかれ主義」、「自虐史観」という
戦後独特の国民性から来ているのではないだろうか。最下段に1993年8月4日の河野内閣官房長官による「談話」全文を掲載。

 元慰安婦への謝罪談話を発表した宮沢内閣の加藤紘一、河野洋平両官房長官を官房副長官として補佐した石原信雄氏(70歳)は2012年7月8日、川崎市麻生区の自宅で産経新聞のインタビューに応じ、「 いくら探しても、日本側には強制連行の事実を示す資料も証言者もなく、韓国側にも通達すべき文書など物的なものはなかったが、総合的に判断して強制性を認めた 」などと語った。つまり認めれば韓国側とねじれた問題は納まると。

                 ♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢
 山口県労務報国会下関動員部長だったという吉田清治氏の「自ら、韓国・済州島で慰安婦狩りを行った」とする証言を取り上げ、日本による強制連行があったと断定した。吉田氏の加害証言は、朝日新聞などで勇気ある告白として紹介された。

 しかし、現代史家、秦郁彦氏の済州島での現地調査により、
吉田氏の証言は噓と分かった。秦氏はクマラスワミ氏と会い、吉田氏を「詐話師」と指摘し注意を喚起したが、無視された。この吉田証言は、多方面から疑義が出され、1996年には吉田氏本人が「創作だった」と認めている。

 クマラスワミ氏・・・1996年、国連人権委員会が出した慰安婦問題に関するクマラスワミ報告も、虚偽の多い内容だった。報告書を作成したクマラスワミ氏はスリランカの女性法律家だ。
 戦争とは、勝てば官軍、負ければ賊軍となり、賊軍はあらゆる方向から、あらゆる事に関して批難や攻撃の標的になるのである。正しかったことも間違ったこととされてしまうのである。

 元従軍慰安婦だったとされる複数の女性から強制連行されたという発言が有ったと言うが?
 先ず
従軍慰安婦という言葉は、1972年に元毎日新聞記者の千田夏光氏が『従軍慰安婦』を発表、朝鮮人女性5~7万人が強制的に慰安婦にさせられたと書いた。1970年までは、韓国側からも慰安婦の問題等は出されたことは無かったのである。正にこの問題の火付け役は一部の日本人達なのであった。
 本年2013年5月、韓国から元戦地で慰安婦をしていたという二人の女性が来日したが、その証言が2転3転し、とうとう橋本市長に会わずに帰国したようである。彼女らは反日の団体に利用されていたのである。

 前述の「
吉田氏の嘘発言」や「千田氏の造言」を得意げに好んで取り上げたのが、朝日をはじめとする左翼系新聞なのである。こんな無責任極まる報道が言論の自由の下に行われるから、周辺諸国から次から次へと日本批判の材料とされるのである。そういうマスコミに翻弄されてきた我々の世代も自虐史観的な歴史認識をもってしまうようになったのでは無かろうか。

 さて日本は、その植民地支配、朝鮮人の強制労働、慰安婦の諸問題に対し、総額8億ドルの賠償金を以て、1965年に解決され日韓基本条約が締結されたのである。


 朝鮮(現韓国及び北朝鮮)は戦勝連合国ではないので、これは戦後処理の一環(終戦と共に終了した植民地支配に関する補償)ではあっても厳密な意味での「戦争賠償」 とは見なされない。朝鮮はサンフランシスコ条約第14条のような平和条約で規定されるところの正規の「戦争賠償権」を持たないので、賠償請求権の放棄の代わりに「財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決された」と記されている。

 朝鮮に対する補償とは、サンフランシスコ平和条約第4条に基づき、朝鮮との請求権問題を解決するため1965年6月22日に結ばれた日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約と同時に締結された財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定において大韓民国に提供された1080億円の経済援助金である。(Wikipedia)

 本題の慰安婦に戻ります。
戦時中の慰安婦とは売春婦であり、売春婦とは遊郭で客を取る女性、カフェで男性の相手をする女性、芸妓置屋で客に身体を売る女性等を指す。それらが在る一帯を赤線地帯といった。オランダ・ドイツ・ベルギーに在った「飾り窓」も遊郭であり、ベルディの歌劇「椿姫」の主人公ヴィオレッタも売春婦である。
 
 朝鮮半島では高麗時代から早婚の風習があった。これは、中国への貢ぎ物として若い未婚の女を送る(貢女 こうじょ)ために、若い女が供出対象となったため親が自分の娘を早く結婚させて、既婚者にしてしまったためである。既婚女性は供出対象から外されたので。李氏朝鮮が妓生(キーセン、まともな官妓、官庁に属する妓生)を妓生庁という官庁を作り管理していたが、これは李氏朝鮮式の公娼制度ともいうべきものであるが、妓生庁に登録していない私娼がたくさんいた。1910年の日韓併合後、妓生の監督は総督府の警務総監部になる。許可した検番(見番)組合を通じて監督を行い、日本内地と同じく定期的性病検診も義務付けられた。又
日韓併合後に少女を妓生とする事は禁止された

 日本で売春防止法が成立されたのは、1956年である。韓国の売春防止法成立は半世紀の差をもって2004年である。
 元来売春というものは国全体が貧しいか、多くの貧困地域を抱えている国に多い。ヨーロッパは多くの国が禁止法を定めておらず、未だにその意味の天国であるという。数年前知人がスイスへ所用で行ったとき、それらしき館に居たのは殆どが東欧の若い女性だったそうだ。

 日本では1930〜1934年にかけて東北地方を中心に度々発生した大飢饉では、多くの娘が遊郭に売られた事実がある。その時代の日本統治下の朝鮮半島にも貧しく多くの遊郭があったという。1948に李承晩を初代大統領として大韓民国が樹立されたが、ソ連・中共(中華人民共和国)に後押しされた北朝鮮との間の朝鮮戦争が1950年から3年間続いた。
 1960年代になっても1人当たりの国民所得は世界最貧国グループであった韓国経済がベトナム戦争参戦と、日韓基本条約を契機とした日本からの経済・技術援助を要因に漢江の奇跡と呼ばれる成長を遂げた。

 とは言っても、国民の殆どは貧困層であり、1988年のソウル・オリンピック(通称パルパル・オリンピック)迄は、どの都市や地方にも数多くの遊郭が存在していたのである。
 ソウル地下鉄吉音(キルム)駅の弥阿里(ミアリ)、清涼里(チャンニャンニ)の588地区。通称588(オーパルパル)は、一辺は短いが碁盤の目のような地形をしていて、全ての角に4、5人ずつ街娼が立っていて、それが何十カ所もあったのを覚えている。

 それらの遊郭とは別に高級娼婦を置く組織も在った。客の要望に応えてホテル等に派遣するタイプである。また、団体客等を相手に料亭や遊郭等で開く妓生パーティーがある。1980年代はダンスホール等で、踊り子を指定して紹介を得る方法もあった。中には一流女子大在学中の学生も学費稼ぎを必要としていたという。名門の梨花女子大、淑明女子大の学生もいたという。1980年代に知人から聞いた話であるが、彼女らは一度この世界での生活に入ると生計が楽になり、普通の生活には戻れないと語ったそうである。

 1980年頃、未だ仁川国際空港が無かった頃、仁川にはイエローハウスというのがあった。韓国の知人から聞いたのだが、入港する外国の船員が主な相手だそうである。
 慶州に近い大邱には桃園洞(タオンドン)にチャガルマダン、釜山市玩月洞(ウォノルドン)の通称みどり町があった。この大邱のチャガルマダンの車道に面したある遊郭で郭内に手押し車でDDTを撒いていたのが強く印象に残っている。

 上記のことから察すれば、その40年前の1940年代には、戦時中の日本と同じように更に数多くの売春婦が居たことは容易に想像出来る。朝鮮では10円の売春料が戦地では100円になることは魅力であったから募集はあっても強制的に連行したとは考えにくい。当時としてこの金額は高給取りと同じであったと言われる。故に下記河野談話の中にある「集、移送、管理等も、甘言、弾圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」というのは、実調査上のものではなく、河野氏とその周辺の「事なかれ主義」的な発言ととらえるべきである。
 戦地の慰安所ではどんな男でも相手にしなければならないという過酷な問題があった。日本や半島ではそのような場合、「ちょっとあんた代わって」で済んだことが前線ではそんなことは出来なかった筈である。もし、問題があったとされるならば、慰安所内の自由の無い辛い生活そのものであったのではなかろうか。



河野官房長官の朝鮮半島慰安婦に関する談話
1993.08.04
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接、間接にこれに関与した。
 慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が 数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したしたこともあったことが明らかになった 。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、弾圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを 問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からのお詫びと反省の気持ちを申し上げ る。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考え る。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究。歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

       
          1つ前のページへ