年寄りのつぶやき・主張等
Home



  2015.11.01 4組 吉田明夫
日中・日韓首脳会談は前提条件無しが当然

 

♦韓国は史実に忠実で無い「従軍慰安婦」を会談の条件にするな♦

 そろそろ開 催される日中韓首脳会談。韓国は「従軍慰安婦」の問題で日本に謝罪しろという。何を謝罪しろと言うのか。日本による朝鮮統治時代の韓国は貧しく教育も極度 に低水準であった。それが日本の統治によって教育水準は高くなり戦後の韓国の国造りに貢献したのである。日本から無償資金3億ドル、有償財政資金2億ド ル、その他商業借款3億ドルプラスアルファで、10億ドルを越える資金と、技術的支援を受けることになる。これを踏み台にして、第ニ次経済開発五カ年計画 (1967~1971)を実行し、基幹産業である重工業を起こし、以後1988年にオリンピック誘致まで成功させ、海外メディアの間で「漢江の奇跡」と呼 ばれる経済成長を成し遂げたのである。

 1965年の日韓基本条約が成立された。日本はこの時、韓国の国家予算(当時)の2.3倍もの金額を支払った。これで韓国の日本に対する一切の請求権が放棄されたのである。それからは「慰安婦問題」などは一度たりとも日韓の間で話題となったこは無かったのである。

 吉田清治(元 共産党員)という人物が、1977年、新人物往来社刊『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版。そこでは、慰安婦狩り(強制連行)の話は出てこず、朝鮮人地区の女 性が慰安婦を中継ぎする話になっている。慰安婦狩りの話が出てくるのは1982年の講演であり、1982年9月2日朝日新聞大阪版では、吉田が慰安婦狩り の内容を講演した旨が採り上げられている。その中身とは戦時中朝鮮半島の婦女子を強引に連れ出し、日本軍の慰安所へ強制的に送り出したという内容である。
 これを又、赤旗より赤いとされる朝日新聞や毎日新聞が取り上げ、吉田清治が嘘であったと告白してからも昨年まで肯定していたのである。
 1982年以降、済州島の新聞「済州新聞」が追跡調査で当時そうした「慰安婦狩り」を住民が聞いた事がないという証言を得て吉田証言は事実ではないと報道。

 慰安婦については秦郁彦氏がその調査で「日 本軍による「朝鮮半島において婦女子を強制連行し慰安婦とした」ことについては否定的である。1999年、それまでの議論や様々な資料を広く参照し、おも に時代背景やその変化などから慰安所制度や慰安婦の実態を明らかにすることを試みた著書『慰安婦と戦場の性』を出版した。

 1992年3月済州島において慰安婦狩りをおこなったとする吉田証言について現地調査を行い、そのような事実が存在しなかったことを明らかにした。

  ところが河野洋平が1993年4月、慰安婦に付いての謝罪をしてしまった。彼が戦時中の朝鮮半島の慰安婦の実体などを知ろう筈がないのに。政治家は事軽や かに知らないことを口走るべきでは無い筈だ。少なくなってはいるものの、未だ統治の朝鮮半島に従軍していた方々も存命で在る筈だ。そのような方々に聞き取 り調査を何故して来なかったのか、これからでも未ださらなる真実が得られるかも知れない。

 当時の朝鮮では売春婦を強制的に連行するような必要性は全く無かったのである。
 
終 戦から35年経った1980年代でさえ、1988年のソウルオリンピックまでは数多くの売春宿が存在していたのである。芸生(キーセン)パーティーに集 まってくる芸生は所謂売春婦なのである。今でもそうであるが、韓国は売春王国なのである。ましてや戦時中の朝鮮半島で強制連行があったなどとは日本を貶め るの精神による全くのデタラメなのである。

 最後に、もし11月2日に予定されている日韓会談に韓国側から「慰安婦問題への謝罪」を要求されたら、その要求を引っ込ませるか、会談を延期又は中止にすればよい。


※ 秦 郁彦氏の著書を読むと良く理解出来る。 略歴 1963年ハーバード大学、1964年コロンビア大学に留学、防衛大学校講師、1977年プリンストン大学大学院客員教授、1997年日本大学法学部教授。 昭和戦史にに詳しい。

 

♦南京大虐殺の捏造♦

 中共が世 界に全くデタラメな大嘘を演出している。日本軍による南京市民(中国兵では無い)の虐殺数は数年前は30万人だといい最近は50万人だと宣伝している。当 時の南京の広さは世田谷区の80%程度である。1937年の南京の人口は20万人であった。20万人しか居ない南京市民(一部軍属を含む)を30〜50万 人も虐殺等出来る筈が無い。
 更に詳しい真実を知りたい方はInternet上に沢山掲載されているので参照してください。
中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。

これは日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受 け、歓声をもって迎える南京市民ら。市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配った ものである(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)

南京市民に食糧等を配る日本兵たち。(イギリス系新聞
 「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)

南京市民と楽しく会話する日本兵ら(1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)

日本軍による南京占領5日目の朝日新聞。(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手製の日の丸の腕章をして笑っている。
(朝日新聞 1937.12.18付)

 南京占領8日目の朝日新聞。タイトルは、「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵 (真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら (右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら

 南京の病院の中国負傷兵と看護する日本兵
(ノースチャイナ・デイリー・ニュース 1937.12.18付 南京占領の5日後)

中国負傷兵を看護する日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後 1937.12.15撮影 南京安全区にて)

日の丸の腕章をつけ、通りで野菜を販売する南京市民(1937.12.15 南京占領の2日後)
  1937.12.18付

疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵 (南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)

日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族(1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

南京陥落直後、南京近郊にて中国人の子供と手をつないで歩く赤星昂(あかぼしたかし)少尉(夫人提供)

安全区で南京市民に食糧や菓子を配る日本兵ら(南京占領の5日後 1937.12.18付 東京日日新聞より)

戦禍の終わったことを知り、防空壕から出てきた南京の女性たちを庇護する日本兵ら(南京陥落の翌日1214日。朝日新聞1937.12.16付)



          1つ前のページへ