⑨ イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882~1971)
1882年6月17日、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生れた。ウクライナ系またはポーランド系ロシア人の父フョードルはペテルブルク・マリインスキー劇場のバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていた。
イーゴリは法律を学ぶために現在のサンクトペテルブルク大学に入学した。しかし在学中に作曲家となる意思を固め、1902年から1908年まで、リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学ぶ。大学でリムスキー=コルサコフの息子と知り合い、仲介してもらったという。1906年には、 従妹エカチェリーナ・ノセンコと結婚。翌年には息子テオドール、翌々年に娘リュドミラを授かる。作曲家のスリマは末子。
1908年に、自作曲『幻想的スケルツォ』と『花火』が初演される。ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフに認められる。『花火』はもともと師リムスキー=コルサコフの娘の結婚祝いに書いたものであった。
1910年には、ディアギレフの依頼でロシア・バレエ団のための第1作『火の鳥』を創作し、パリのオペラ座で初演、大成功を収める。翌1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が委嘱され、これも成功を収める。さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演される。この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込む。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。同時期、デザイナーのココ・シャネルと不倫関係になったとされ、2009年の映画『シャネル&ストラヴィンスキー』は『春の祭典』初演後から再演前までにおける両者の不倫を題材にしている。
1950年頃より、これまで否定的だった十二音技法を採用して新たな創作の可能性を開く。『七重奏曲』、『エレミアの哀歌による「トレニ」』、『バリトンと室内オーケストラのためのバラード「アブラハムとイサク」』、『J.F.ケネディへの哀歌』などを作曲。
1959年、来日し、日比谷公会堂、フェスティバルホールで演奏会を行う。また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介する。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけになった。
1962年、ソ連を訪問する。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷であった。
1969年、ニューヨークのエセックスハウスに転居し、1971年4月6日に88歳で没する。ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。のちに、妻ヴェラもイーゴリの隣に埋葬された。