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 日本の学園は今

2014.05.06  3組 佐々木 洋


静謐(せいひつ)、あまりにも静謐
 先日(5/31)「豊島寮OB会」に参加した際に、会場が設営されていた東大本郷キャンパスの内外を散策してきました。赤門前では、東南アジア系と思しき若者たちが何やらパフォーマンスらしきことを演じていました(下上段左)。まさに深緑のシーズンで銀杏も生い茂っていました。赤門をくぐって鬱蒼とした銀杏並木を進んで行くと前方に医学部の建屋が見えてきました(下上段右)。土曜日ということもあってキャンパスに人影はまばら。三四郎池も深緑を蓄えて静かに佇んでいました(下下段左)。改修中なのか、すっぽりと覆いが被せられていた安田講堂を背にして見る銀杏並木の姿は下下段右の写真の通りで、これが往時と同様に、正門との間を結ぶメインロードになっています。ん?往時と同様に?いや、どこかが違う。鬱蒼とした銀杏の並木は“昼なお暗く”、週末とはいえ静寂、あまりに静寂。ここに学生たちの姿が配されていたとしても、何か違和感があり、私は異邦人感覚を味わうことになったことでしょう。私たちが在籍していたほぼ半世紀前(昭和36年4月~昭和38年3月)には感じることのなかった雰囲気がそこはかとなく漂っています。私に違和感を抱かせているものの正体は何なのだろうか。暫く、この謎は解けずにいました。

 
赤門前
 
医学部建屋
 
三四郎池
 
安田講堂前の銀杏並木

学生寮の今昔
 豊島区巣鴨の庚申塚にあった豊島寮は、昭和25年6月に開設されています。今回集まったOBは、寮の開設時の大先輩から昭和38年入寮者までの範囲ですから、昭和37年入寮の私などは“最若手”のうちに入ります。最長老の先輩は私とは一回りほど 違うのですから85歳前後になっておられるのですが、なおも元気矍鑠としていて、近況報告アワーで豊島寮の開設当時の苦労話なども披露してくださいました。当時の学生は貧しく、文字通り“食うに困っている”状態だったので、お金がなくても食事にありつける豊島寮食堂が昭和27年12月になって開設された時には、開設に尽力された大先輩たちが寮生一同から大感謝と大感激を受けたそうです。私たちの時期になると、さすがに“食うや食わずや”の状態は脱していましたが、ほとんどの学生はアルバイトなどをして学資稼ぎをしていましたので、生活費ミニマムで済ませられる寮に入れることが大きなメリットで有り難いことになっていました。ところが、経済大国になるのに伴って日本人の生活が豊かになったせいか、学生寮入寮希望者が減ってきたため、この豊島寮ばかりでなく、駒場寮や三鷹寮なども次々と閉鎖されてしまっています。
 右の写真は、私たちが駒場の教養学部の課程を修了して本郷に進む時に駒場寮の寮室で開かれた「追い出しコンパ」の際に撮ったものです。私たち弓術部の部屋は3室で、1室に6人居住していましたから、「追い出しコンパ」ともなるとこのように賑やかな様相を呈します。“今は亡き駒場寮”ですから、寮室内部の模様の断片が伝わるこの写真も貴重なものとなりましたが、これをご覧になれば、当時の私たちが貧しくても底抜けに明るかったということが分かっていただけるのではないかと思います。
 思えば、住宅事情にも恵まれず、大家族世帯が普通であった私たちの世代とは違って、現代の子供たちは、専用の子供部屋が与えられ、家庭内で「個」の時間を過ごすようになっています。
 
学生寮生活を止めてしまった現在の学生たちは、それぞれ個別に下宿などにこもって、家庭生活と同様に「個」の世界に浸り込んでしまっていて、私たちが寮生活で経験したような、底抜けに明るいオープンな交友関係を享受することができていないのではないでしょうか。 キャンパスに漂っていた寂寥感や“昼なお暗い”感じは、現代の学生たちが身に帯びている寂しさや暗さを映したもののようにも思えます。

「個」の世界への浸り込み
 また、当時の駒場寮は、60年安保闘争の渦中にあって、「全学連書記長籠城事件」もマスコミで連日報道されていました。駒場寮内も安保問題で持ち切り。よるとさわると寮生同士で、真剣に、日本の将来を憂い議論を戦わせ合っていました。論点は様々でしたが、私は「おぞましい戦争の体験をした日本人に対して天恵であるかのように与えられた“平和憲法”を護持したい」という想念に駆られて、連日のように安保反対の市街デモに参加して、樺美智子さんが亡くなった時(1960/6/15)には、同じく国会南大門にスクラムを組んで突入し機動隊と対峙してもいました。石原慎太郎は最近になって、当時の模様を「安保の何たるかもよくわかりもしない手合いが群れをなし、語呂の良いアンポハンタイを唱えて、実は反米、反権力という行為のセンチメントのエクスタシーに酔って興奮していただけだ」と評していますが、単なる“反米、反権力”だけでは、交通費の出費にも事欠く貧乏学生たちを、様々なリスクが伴う市街デモに15万人余りも動員することができなかったはずです。いずれにしても、駒場寮だけでなくて学生寮は、「日本の将来を憂いあい語り合う」場にもなっていたのですが、現在の学生たちは政治からも目をそらして「個」の世界にひき籠ってしまっているのでしょうか。
 キャンパスの外に出て、道路を渡って正門(下左)の写真を撮りました。ここは往時と変わっていないようですが、外から見た銀杏並木(下右)は、往時に比べると、一層鬱蒼としているように見えます。私たちが加齢を重ねてきている間に、かつての銀杏青年も老壮年銀杏になってきているわけです。そして、この老壮年銀杏の並木が、学生たちの動きを外部から見難くするとともに、学生たちから学園外の動向を見る視界を閉ざし、市街に繰り出して学生パワーを発揮するのを妨げているようにも思えました。キャンパスに漂っていたそこはかとない違和感は、こうした閉塞感や隔離感が入り混じったものなのかもしれません。

 
正 門
 
外から見た銀杏並木

学園の「ノンポリ化」に大ショック
 豊島寮OB会でどなたかも言われていましたが、「キャンパス内のどこを見ても“集団的自衛権に抗議”の立て看板の類が見られなかった」のは私にとっても大きなショックでした。日本の平和憲法は「世界遺産」に値するものであると考え続けてきた私は、いざ改憲の危殆に瀕した場合には、老骨をなげうって反対デモに加わりたいと未だに思っています。安倍晋三首相や石破茂自民党幹事長などの“戦争を知らない老人”たちの主導によって、“行政”機関に過ぎない内閣の閣議決定によって解釈を変更することによって、平和憲法が実質的に新しい法律として“立法”されようとしています。私が大ショックを受けたのは、平和憲法ばかりでなく三権分立の原則までが危殆に瀕していて、立ちあがるなら「今でしょ!」というこの時期に、60年安保闘争を主導したような学生運動の盛り上がりの気配がキャンパス内に微塵も感じられなかったからです。「ノンポリは、”nonpolitical” の略で、もともとは「政治運動に関心が無いこと」あるいは「関心が無い人」という意味ですが、1960〜70年代には「日本の学生運動に参加しなかった学生」を指す言葉として用いられていました。現在は、学園全体が「ノンポリ化」していて、「日本の将来を憂いあう学生」の姿は学園から消え失せてしまっているようです。「学生が主導して盛り上がる市民デモの輪に加わろう」という私の目論見は見事に外れてしまいました。おりしも、タイで軍事クーデターが起きて、市民デモを鎮圧するために「5人以上の集会を禁止」する方針が取られていますが、言ってみれば、学生寮はこの“5人以上の集会”により学生たちの政治意識を芽生えさせる場となっていて、ここを起点として盛り上がっていった動きが学生運動の核の一部を構成していたのではないかと思います。私たちの豊島寮OB会は、ノンポリで体制順応派の学生しかいなくなってしまっている静謐過ぎる学園のキャンパスに、“今は亡き”学生寮でかつて「日本の将来を憂いあって」政治論議を熱く交わしていた元学生が集いあって往時を偲ぶ会になっていたのだと改めて思いました。

“バーチャル市民デモ”の展開へ
 「学生運動頼るに足らず」と、臨場感をもって思い知らされた老デモ隊参加志願者としては、今後の“自分の行動”の律し方を決めかねて困っています。しかし、無い知恵を絞ってつらつら考えてみても、半世紀前にあって現在ない学生運動に対して、半世紀前にはなくて現在あるインターネットのSNS(Social Networking Service)やホームページ、ブログの類を使って“バーチャル市民デモ”を仕掛けていく方法くらいしか思い当たりません。身近な例を挙げれば、我が高校同窓同期の今道周雄囲さんがホームページ「小田原高等学校11期」に「セオウル号と日本」と題する記事( http://odako11.net/ippan/imamichi_1.html)を掲載し、その中で、「日本国民は、傾斜し沈没してゆく船内でじっと死を待った乗客のように、危機を自覚せず何も行動しないまま将来をむかえるのだろうか。300万人の血で購った憲法を、何の議論もなく、『解釈』でやすやすと変えてしまうのだろうか。他人の事故を笑うのではなく、自分の足下を憂うべきだ。」と警告を発し、何らかの“行動”を取るよう促しています。同世代の友人たちから、新聞やテレビなどのマスコミ論調を鵜呑みにして受け売りしただけの“ご隠居談義”を聞かされることは度々あるのですが、韓国で起こった船舶事故を対岸の火事とみて評論家っぽいことを言っていないで“自分自身の問題として考え行動する”べきだ」と説く今道さんの論調は新鮮で我が心に強く響きました。ですから、機会のあるたびに、知人友人たちに「セオウル号と日本」のURLを紹介しまくりましたので、それなりに同調者が増えたのではないかと期待交じりに思っています。
 今回の豊島寮OB会でフィクサー役を務めた下山興一さんも、参加した別の会合で、ご婦人たちが口を揃えて「安倍晋三首相はお子さんがないから、あんな前のめりな発言ばかり繰り返すのだろう」と呟きあっているのを聞いたと言っていました。残念ながら学園には見る陰もありませんが、巷には「声なき声」が満ち溢れているのです。60年安保闘争の時には、最大25万人余(1960/06/19)の市民が国会を取り囲んで、「声なき声」を当時の岸信介首相に見せつけましたが、現在ではこのようにインターネットを使って「声なき声」を広め強めていくことによって、岸信介の孫に当たる安倍晋三らの“戦争を知らない政治家”たちの“改心”を迫っていくしかなさそうです。Facebookを通じてお知り合いになった小田原市会議員の方からメールで「8月15日を考える会…語り継ごう戦争と平和を」(8/10  13:00ー16:00 於.小田原市栄町・音羽プラザ)のご案内をいただいたのも、“バーチャル市民デモ”につながるものかもしれません(ご参加ご希望の向きは「8月15日を考える会」TEL.0465-23-7871宛にお申し込みください)。幸い、スマホやタブレット端末が普及して、キー・アレルギーから解放された人たちが加わって「インターネット人口」が大きく増えています。また、インターネットによれば、PCオタクになっている者が多いという現代の学生たちにも「声なき声」が伝わる機会が増え、やがて学園にも再び、「日本の将来を憂いあって“自分自身の問題として考え行動する”学生」の姿が蘇ってくるのではないかと切望もしています。

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