「・・・・・・」
誰かの視線を感じてつと顔を上げた。両親の墓参を済ませ、小田原駅前でお土産の品定めをしているときであった。
「としみちさんではないですか?」「・・・よしこちゃん・・・」
一瞬立ち尽くした。そこには忘れようにも忘れえぬ初恋の人の笑顔があった。
高校二年の春から十年余り、青春の全てともいえる歳月を共有した彼女である。そしてそれは四十数年振りの再会であった。万感の思いがこみ上げてきた。
「たしか名古屋にお住まいでしたね」
「ええ、今は妻とふたり穏やかな老後を過ごしています。そちらはずっとN町ですよね」
「あら、よく知っておりますね」
「この前の小学校のクラス会で知りました。あなたは出席しませんでしたね」
「怖くて出席できませんでしたわ。皆私たちのこと知っているんですもの。多分これからもそうでしょうね」
「小田原にはよく帰ってくるんですか」
「いえ、年に数えるほど。今日は母の十三回忌だったんです」
そのお母さんの反対さえなければ結ばれたはずの二人であった。時の流れはそんな怨念も風化させてしまったようだ。今思えば、運命の赤い糸は最初から違っていたのかもしれない。
「そうですか。私の母も七年前に亡くなりました。両親の墓参りに寄った帰りです」
「わたし、もう五人のおばあちゃんよ。としみちさんの方はいかがですか」
「我が家も息子のほうの孫が五歳、娘のほうの孫が三歳で、ともに七五三を迎えます」
「それはよかったですね。もうそんな話しかできない齢になってしまいましたわね。“お茶でも”と言いたいのですが、待ち人がおりますので・・・」差し出された右手に、一瞬逡巡したが、そっと握り返した。
「それではお元気で」「ああ、あなたも達者でね」
〈またいつか・・〉、つづく言葉は飲み込んだ。もう二度と会えぬ二人であろう。
当時とあまり変わらぬ、弾むような彼女の後姿。その先にけげんそうにこちらを見つめている初老の男性の姿があった。
§ § § §
「明け方にいい夢をみたよ。初恋の彼女に小田原の駅前でばったり会ったんだ」 ゆっくりとした朝食を済ませ、紅茶をすすりながら傍らの妻に語りかけた。
「あなたって相変わらずロマンチストね。女性は昔の彼の夢など追わないわよ。それに彼女に振られたんでしょ。向こうから声かけてくるなんてありえないわ」
「いや、彼女も相当苦しんだんだ。決して嫌いで別れたわけじゃないよ」
「本当に今出会ったら、しわだらけのおじいさんとおばあちゃん。お互いに幻滅を感じるだけよ。夢は夢の中だけでいいの」
「・・・そうだろうね・・・」
たしかに夢は夢の中、憧れは憧れのままでよいのであろう。〈でもね〉、言い返そうとする私を知ってか知らずか、「そんなことより今日は『ごみの日』よ。早く出してちょうだい」 何事もなかったかのようにテレビに見入っている。
それは、穏やかに晴れ渡った九月のある朝の出来事――。
(完) |