母のふるさと Home



  2011.09.11     6組 榮 憲道

 名古屋に居を定めて二十余年、年に何回かは故郷である小田原(栢山)を訪ねる。
 東西に長く延びる静岡県を横切り、富士の裾野を登りきると、東名高速道路最大の難所酒匂峡谷が待ちかまえている。
 箱根連山と丹沢山塊を分ける狭い峡谷である。御殿場の最高度地点からトンネルと橋とを連ねた道は高度を下げつつ足柄平野へなだれこむ。そのほぼ中間地点に東名随一の高架橋・酒匂川橋がある。全長720米、高度75米、ゆるやかな曲線を描いて酒匂川を横切る。その右手やや上方の山合いに小さな村落が垣間見える。(注)
 そこは箱根の北端に位置し、急峻な山肌が酒匂川に向かって落ち込んでいる。その急斜面にへばりつくように軒を寄せ合った百余戸の村落――母の生まれた谷峨(やが)村(現在は足柄上郡山北町谷ケ)である。
 見下ろせば、川の堤に近い低地にJR御殿場線の【谷峨駅】がある。昔は蒸気機関車が息を切らしながら上り下りしていたが、ディーゼル車(今は電化されている)に変わった。昭和四十四年、東名高速道路が開通、その後新道も出来て便利になったが、村のたたずまいは往時とさほど変わらない。
 幼い頃、私はこの母の生家をよく訪れた。御殿場線では、トンネルを入るたびに、開いたきりの窓からもうもうたる煙と石炭礫が飛び込んできて容赦なく顔を叩いた。バスで羊腸とつづく山道をたどったときには、履いていた靴の片方を落として泣きべそになったこともある。体が小さくひ弱かった私は、山育ちのたくましい悪童たちにいじめられたり、あまり好い思い出は少ないが、母にとっては格別に嬉しい帰郷だったにちがいない。
 そんな休息は束の間である。寺の“大黒さん”として檀徒との応対、本堂・庫裡の掃除、境内や墓地の清掃・草取り。主婦としての仕事もいっぱいある。七人の子供の世話や炊事、洗濯、繕い物、野良仕事――電化製品など一つも無い時代である。朝早くから夜遅くまで立ち働いた。私たちもそれぞれ手伝いはしたが、中心にいたのはいつも母であった。
 そして思いもかけぬ父の死――若くして寺統を継いだ兄の後見役としても奮闘した。
 私の手元に母からの手紙が五十数通ある。結婚後、関西地方に長くいた関係で、私たち家族を案じてよく手紙が届いた。改めて読み直してみると、母の愛が溢れ出てくる一文字一文字であるが、何度か出席した小学校のクラス会のこともよく出てくる。
 子供たちがそれぞれ独り立ちし、肩の荷を下ろしたころには足腰が弱くなっていた。老衰の進んだ母の脳裏には、ふる里ですごした少女時代の残影がいつまでも消えることはなかったようで、長い療養生活の中でも「谷峨、谷峨」と繰り返し、懐かしんでいた。
 しかし、母はあまり自分の少女時代を語ろうとしなかった。嫁ぎ先で骨を埋める覚悟 の母は、きっと昔語りを潔しとしなかった。そしてその分、胸の奥底での“谷峨”への思い入れはさらに深まったのであろう。
母が亡くなったのは平成十六年六月、箱根の南、相模湾を望む湯河原である。箱根山地を挟んで直線距離にしてわずか二十余キロ。  唯一心残りがあるとすれば、最後に一度はふる里の土を踏みたかったのではなかろうか。

  § § § §
 母のそんな気持ちに導かれ、昨秋、谷ケを訪れた。
車一台がやっと通ることのできる狭い参道の先に本堂を仰ぐ。母の生家、円通寺である。庭先にしだれ桜が二本並んで大きな樹陰を作っている。私も数年前、満開の桜花を愛でたことがある。そのあでやかさは見事なもので、「拝見させてください」。東名高速道路から見かけて、わざわざ見物にくる人もよくあるという。
 私のいとこに当たる住職は、歳も同じで話も合う。八十四歳を迎えたお母さんも健在である。たまたま近くに住む次男夫婦も訪れており、昔話に花が咲いた。
 「ますます、おとうさんに似てきたね」
 たしかに顔形から、よく父に似ていると言われる。
 しかし内面的に見ると、母から受け継いだものが多いと自分では感じている。ただ、あのやわらかい春風のような優しい心と柳のようにしなやかで強靭な忍耐力。それは 谷峨の風土が育てた母特有の資質であり、私にはとても及びのつかないものである。
 母を育んだ本堂は築百十年の風雪に耐えてきたが、庫裡と合わせ大改修を計画しているという。 少女のころ、兄弟や友達と遊んだであろうその本堂や境内、近辺の景色を何枚かカメラに収め、別れを告げた。
 そして旧道と新道の交わる部落の外れ、最近出来たコンビ二の前にクルマを停めた。巨大な酒匂川橋の橋脚が頭上に迫り、すぐ脇を鮎沢川と河内川とが合さって呼称を変えた酒匂川が、七十年前嫁いだ栢山村方面へ、当時と変わることなく滔々と流れ下っている。すこし上流の山陰には母が通った小・中学校があり、それこそ母の思い出のいっぱい詰まった道である。
 「お母さん、今、谷峨だよ。谷峨にいるよ」
 もっともっといろいろ聞きたかった、いろいろ知りたかった。こみ上げてくる感情を抑えることができず、暮れなずむ秋空に向かって呼びかけた。

 谷峨――その言葉は、私にとって“母”と同義語である

                                   (完)
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