熊野古道 第一章  古道の成立ち Home



  2011.11.23     6組 榮 憲道

 和歌山・奈良・三重三県にまたがる紀伊半島は、日本最大の半島である。
 その南部一帯を人々は熊野と呼ぶ。そこは三千六百峰と形容される果てしなく険しい山々が海に迫り、平野部はほとんどない。村里をつなぐ道は、山々を迷路のように巡って険しい。集落は住む人も少なく、田畑は狭く、それぞれが孤立している辺境の地である。
 またこの地方は、2週間に10日雨が降るといわれる大台ヶ原に代表される、日本一の多雨多湿地帯でもある。その温暖多雨の気象は昼なお暗い森林を形成する。その森には、日本列島の南北の生物が出合っている。たとえば、南北の代表的樹木であるカシとブナが混ざり合って林をつくったり、樹木や草の種類は多く複雑で多彩、そこに寄生する動物や野鳥や昆虫も豊富である。
 熊野の海も寒流と暖流が混ざり合って重層的であり、《鯨の町》太地町は那智大社のある勝浦町の西隣り、またサンマの丸干しは尾鷲の名物であり、各所にサケの定置網さえあるというほどに変化に富んでいる。また海岸から海に向かって、大陸棚の部分が狭く水深二千メートルまで急激に落ち込んでいる。浅海と深海が連動する豊饒の海である。
 この地方の中心部は奥熊野と呼ばれ、熊野三山(本宮大社・新宮大社・那智大社)の鎮座する熊野川の下流域一帯にある。この辺境の地に熊野信仰が奈良時代から連綿と続いてきた。熊野権現というのは、仏が衆生を救うため、仮(権)に神のかたちで現れたものとされる。つまり、日本で生れた神道と伝来の仏教を一つにまとめた解釈で、神仏混交という。その接着的な位置にあるのが、日本古来の山岳信仰から発した修験道である。熊野三山は、古代より修験道の根本道場として重きを成してきた。
 《熊野御幸》と呼ばれる皇族の熊野詣は、延喜七年(907)の宇多上皇に始まっている。その後、花山天皇から白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇、後嵯峨上皇など、国家の最高権力を握っている人々が、多くの従者とともに往還したのである。後鳥羽院などは毎年熊野詣をしており、ときには年に二度も訪れている。
 その道は京都から舟で淀川を下り、大阪から陸路をとって和歌山を通って南下、田辺からは中辺路(なかへじ)街道を山中に入って熊野三山を巡拝した。三百数十キロの旅程であり、それは名古屋・東京間の距離を上回っている。
 皇族の熊野詣のあとには、武士や農民をはじめ一般庶民が主役となった。それら参詣者が陸続として列をなして行くさまを「蟻の熊野詣」と呼ばれた。人々は三山の社寺で手を合わせるけれども、信仰の根源は大自然である。すなわち山や川や森、あるいは海にほかならない。三山のご神体も、本宮の場合は熊野川の水に対する信仰である。新宮では神倉山の中腹にある丸い巨岩、那智はもちろん滝を神として崇拝した。
 その信仰の道として、大阪から紀伊半島の海岸沿いのルートをつないで、紀伊路と大辺路があり、この道は船便とも補い合っていた。内陸の道としては、口熊野、田辺から熊野三山に至る中辺路、本宮と高野山を結ぶ小辺路(こへじ)、熊野から大和への西熊野街道と東熊野街道、さらには修験道の大峯奥駈け道があった。《奥駈け》というのは、那智山から本宮大社を経て、紀伊半島の尾根と呼ばれる大峯山系の尾根伝いに、桜の名所の吉野山までの140キロを踏破することを指す。近畿地方の最高峰・八経ヶ岳や女人禁制の秘峰・山上ヶ岳等三十岳と称する山々が連なり、谷は深く道は険しい。
 そしてあと一つ、私が目指す伊勢路は伊勢神宮から熊野三山につづくルートで、中辺路とともに歴史が古く、後白河法皇撰の『梁塵抄』にすでにその名が登場することから、平安時代後期から開けていたと思われるーーー。
 この春古希を迎えた私は、この伊勢路から“神々のふるさと”とも“日本人のふるさと”ともいえる熊野古道を、何年かかけて走破したいと考えた。これから一年一年、足腰は急激に衰える。まだ歩けるうちに歩きたいところを歩いておきたい。名古屋からは、日本三大アルプスや八ヶ岳などの山歩きもあるが、幾つかの山は若い頃登っている。未踏の地であり、海と山の魅力を一年を通して同時に味わえる、歴史と風土の霊地を直に味わっておきたい。京阪近鉄旅行社の熊野古道バスツアーに勇躍申し込んだ次第である。
 
  参考資料    『山と渓谷社刊「熊野古道を歩く」(宇江敏勝・著) 』
                                       (第1話 完)

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