熊野古道 第五章  花の窟(いわや) Home



                               2012.05.24 6組 榮 憲道

 ◇熊野路は神話伝承そこかしこ夢とロマンの〈男旅〉行く

 明けて2012年春、熊野古道ハイクの旅は、“黒潮回廊と神々の古郷” 熊野よりスタートした。尾鷲より辿る羊腸たるその道筋は、それこそ「山が海に突っ込んでいる」形容がぴったりの難路であった。さらにこの日(4月20日)の紀勢地方は大雨という予報であり、十分な雨対策の上で参加した。
 坂上田村麻呂の海賊退治伝説の残る鬼ヶ城の前でバスを降りる。濡れた石畳に滑らぬように注意しながら小一時間、坂道を登り切ると松本峠。三体のお地蔵さんが迎えてくれた。その足元にはにょきっと立派な竹の子が二本・・・杉や桧の山林がどういうわけか、峠付近一帯には竹が群生していた・・・。
 峠から十分ほど下ると東屋の山落から長く続く白い海岸線が見渡せた。七里御浜である。熊野の市街地を通り抜け、海岸道路に出る。ゴールデンウィークには数百匹の鯉のぼりが南国の潮風に翻る七里御浜も、今日ばかりは波浪激しく、人っ子一人見当たらない。
 
 ◇獅子岩は熊野の海に真向かいて補陀落(ほだらく)浄土を護るがごとく

 御浜にせり出した獅子岩の少し西方に鎮座するのが五十㍍の巨岩、お綱掛け神事で有名な〈花の窟〉である。
 「伊勢志摩から延々と続くリアス式海岸は紀伊半島南部・三重県の熊野市の鬼ヶ城で終わる。鬼ヶ城から南へはそれまでの荒々しい海岸とは打って変わったように、百メートル以上の幅を持った砂礫のなだらかな七里御浜海岸が和歌山県新宮市まで続く。日本で一番長い砂礫海岸で、世界遺産や日本の渚百選などにも選ばれている風光明媚な場所である。眼前の熊野灘沖には補陀落の海が広がっている。その海岸に一箇所だけ、まるで半島のように突き出した山塊が花の窟である。」(神話社『海の熊野』三石学編より)
 補陀落とは、南の海の彼方にあると信じられた観音菩薩の在ます理想郷のことである。平安時代成立した熊野三山信仰以前では、〈窟の熊野〉――即ち、「花の窟(いわや)」こそが熊野地方の中心地であったのである。
 岩頂より御浜に延びる、日本一の注連縄といわれる百八十メートルの〈お綱〉の三本の播旗には花が飾られている。天照大神、月続命(ツクヨミノミコト)、須佐之男神の三貴神を表しており、毎年春と秋に、神の魂を鎮めんと季節の花を飾り、笛や鼓を演奏し、乙女が舞い踊るのである。
 
 ◇宙(そら)に架く〈花の窟〉の大しめなわ、幡旗揺らして三界結ぶ

 〈三界〉とは現世と来世と常世(とこよ)の三世界を指し、この不老不死の常世思想が補陀落浄土につながっている。
 『古事記』に拠れば、女性神イザナミノミコトが男性神イザナギノミコトとの間に火の神カグツチノミコトを産んだ場所がこの〈花の窟〉であり、その産褥熱によって亡くなり葬られた場所でもある。〈産立ての窟〉とも呼ばれ、巨岩そのものが御神体であり、多産豊饒の祭祀場として連綿と現在に至った。そこは日本最古の神社であり墳墓――巨岩の正面には大きな窪みがあり、イザナミノミコトの女陰とされ、また彼女が赴いた黄泉の入り口ともされている。

 ◇磐座(いわくら)に母神(イザナミ)祀る巨岩とう〈花の窟〉に神石捧ぐ

 古代、丸石には神霊が宿り霊力があると信じられていたようだ。大峯山系の山から紀伊半島を南北に流れる熊野川に運ばれ、七里御浜に打ち寄せられた白石は神の石とされてきた。
 参拝後、ツアー仲間とその丸石を、岩の小さな窪み(石積み場)に投げ上げる挑戦をした。私は何とか三回目に成功、拍手を浴びる。

 ◇窟背に建屋清しき茶店あり尾鷲ひのきの香りに憩う

 まだオープンして三日目という総桧造りの茶屋で串団子をほおばり、ゆっくり休憩を取る。終日降り続いた雨も、頑丈で幅広な傘を用意したせいかそれほど気にはならず、いつも渋滞する東名阪道も快調に走って“雨の恵み”さえ感じた帰路であった――。
 そして今、我が家の庭には、風雨のなか七里御浜海岸で、神石とは露知らず拾ってきた丸石が数個、信楽土産の招福狸の前に謹んで置かれている。
 
                                             (第五章 完)

   
鬼ヶ城   七里御浜からみた神体の巨岩   花の窟入口
   
花の窟   七里ヶ浜   獅子ヶ岩
     
松本峠の地蔵   松本峠の東屋    
         

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