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  2013.02.06     6組 榮 憲道

  ♢ 白秋と小田原と
 
 銀杏の黄葉が舞い散る昨年11月28日、小田原高11期3年4・6組の合同クラス会が地元・小田原で開催された。
 その案内状には、箱根湯本での懇親会の前に小田原文学館と豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城を巡る企画があり、是非一度訪ねてみたいと思っていた場所なので喜んで《参加》とした。   

 当日午後1時、小田原駅前の北条早雲像の前に待つマイクロバスに乗り込む。参加者は13人であった。文学館は小田原城の南、御幸ヶ浜に近い明治の元勲田中光顕伯爵の別荘を整備し、平成6年に開館した。スペイン様式を主体にした建物が本館で、芝生を敷きつめた洋風庭園があり、北村透谷や谷崎潤一郎、三好達治、北條秀司など小田原に縁の深い文学者の自筆原稿や活動紹介等を展示している。そして庭園の一隅に尾崎一雄邸の書斎が移築されてあった。実は、氏は小田原高校・早稲田大学の大先輩で、私が所属した御殿場線稲門会の最長老でもあり、大学3年のとき幹事長を務めた私は何回か下曽我にあるお宅で親しく話をうかがったことがある。それだけに余計懐かしく拝見した。

 さらにその先に純和風の趣に大正ロマンを漂わせた別館と紅葉真盛りの和風庭園があり、「白秋童謡館」とある。平成十年に新たに出来た施設である。北原白秋といえば福岡県柳川を連想するが、小田原とはどんな縁に繋がっていたのだろうか――。
 白秋は17歳のとき上京、早稲田大学英文科に入学した。たまたま若山牧水と同じ下宿で親交を結んだようだが、流浪の旅に出た牧水と別れ、21歳(明治39年)のとき明星派の与謝野鉄幹に師事して新詩社に参加、島木赤彦らのアララギ派に対抗した。24歳のとき、石川啄木をして「新しい感覚と情緒が溢れ、今後の新しい詩の基礎となるべきもの」と絶賛させた処女詩集『邪宗門』を発表して一躍脚光を浴びる。さらに28歳(大正2年)のときの処女歌集『桐の花』で短歌四百余首を発表、歌壇に躍り出、短詩形分野で精力的な活動を続けた。

 中期の代表的著書『雀の生活』の中で、「写生に徹したがいい。寧ろ克明な写生に徹して象徴を抜けたところに詩歌の真髄がある」という言葉を残しているが、これは斎藤茂吉の名言「実相に観入した自然・自己一元の生を写す。これが短歌の写生である」に相通じる言葉といえよう。また一方大正6年、「窮乏を極める」と年譜にある。九州から上京した親兄弟の面倒や最初の妻(福島俊子)の浪費癖に大変苦労したようである。

 ● 咳すれば寂しからしか軒端より雀さかさにさしのぞきをり
                        第三歌集『雀の卵』(大正10年より

 その後、大正7年(33歳)から15年までの8年に亘り、小田原に住んでいる。そして同時期に鈴木三重吉が創刊した「赤い鳥」の童謡・児童詩欄を担当、この道、ぺチカ、砂山、からたちの花、待ちぼうけ、ゆりかごの歌・・・現在でも広く愛唱される童謡の数々を作詞、また「マザーグース」を初めて日本に紹介した。これは全て小田原在住時代の業績であり、「白秋童謡館」が出来た由縁であろう。

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