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  2013.03.01     6組 榮 憲道

  ♢ 白秋と小田原と 

 原発問題、故郷再生論、健康談義等、深更まで幅広い話題に盛り上がった小田原高11期の懇親会の夜が明けた。朝食後自由解散となったが、私は箱根登山電車の板橋駅に下車、天神山の伝肇寺(でんじょうじ)に足を向けた。

 天神山は小田原高校のある八幡山と峰つづきの場所で、小田原城の搦め手にあたり、正面には早川を挟んで、前日仲間達と登った石垣山が指呼の間に見える。入り組んだ住宅街の坂道に迷いながらもなんとかたどり着いた。

 伝肇寺は鎌倉末期に創建された浄土宗の古刹であり、関東初の念仏道場とのことであるが、別名みみづく寺とも呼ばれる。北原白秋が境内の竹林に居を定め、〈木兎の家〉と名付けたことからであるが、今は「みみづく幼稚園」となっており当時の面影はまったくない。ただ門前と本堂前にはみみづくの彫り物で置かれており、境内の中央に童謡「かやの木山」のカヤの大木が茂り、〈カヤの木地蔵〉が安置してあった――。

 小田原文学館はここからも近いが、さらに国道一号線沿いに東に500米ほど、箱根大学駅伝の第五中継所のすぐ近くに小伊勢屋という老舗料亭がある。創業四百年を超える歴史を持ち、江戸時代には小田原藩の脇本陣という格式ある旅籠であった。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では弥次さん、喜多さんがお風呂の栓を抜いて大騒ぎになったということで有名である。

 現在18代となる当主は私たちと同年であり、小田高11期の友達も多い。また96歳でなお健在な名物女将・尾崎尚子さんが当主の母親にあたる。私の姉が女将の母方の親戚・富田家に嫁いでおり、二人の仲人を務めたのが女将夫妻である。姉夫婦は都内(中野区上鷺宮)に住んでいたので、大学時代私は大変お世話になっている。
 2年ほど前、名古屋でその女将の従弟にあたる渡辺さんという老紳士と知り合い、昨春二人揃って小伊勢屋を訪れて歓待されている。女将の自伝『ゆずり葉』を読んでみると、16代当主で叔父にあたる尾崎亮司氏という人物が白秋と大きな関わりがあることが判った。
 氏は明治37年に立ち上げた小田原保勝会の代表となり、小田原城址の保存運動を展開してお濠の埋め立てを阻止した。また老松の保存、御感の藤の移植や浜施餓鬼の大松明など伝統行事の復活、さらには北村透谷碑の建立等、私財を投げ打って小田原の史蹟・名勝・天然記念物の保存を行い、町の繁栄を図った。

 また小田原城内高校の設立に尽力し、歴史や文学に造詣が深く、大正9年には足柄史談会を創設、その設立メンバー7人には北原白秋も名を連ねており、小伊勢屋によく出入りしていたようである。白秋一家に境内の一部を提供した伝肇寺の住職や彼らの物心両面の支援があればこそ、「小田原は生れた土地、母の里に次いで最も懐かしくまた最も意義深い芸術の母胎」と記しているわけであろう。

 白秋は大正10年に佐藤菊子と結婚式を小田原で挙げ、11年に長男、14年に長女をもうけている。〈引越魔〉と呼ばれた彼が、たった一度だけ自宅を構えたのが小田原であり、物質的にも精神的にも一番幸せな生活を送った時代であったといえようか。
 再び短歌への情熱が生れた白秋は、大正11年、斉藤茂吉と互選歌集を編む。13年には前田夕暮、土岐善麿、釈超空らと超結社の歌誌「日光」を創刊、15年(昭和元年)再度上京、全国各地を巡ったりしながら歌道に邁進した。古今集・新古今集から入った白秋の歌は、芭蕉の侘び・寂びを尊び、近代幽玄の歌体を完成、浪漫精神の復興を目指した。

 短歌だけではなく、現代の自由詩、口語詩、短唱、民謡、童謡、国民歌謡、新詩文等と、彼ほど日本語の音域を拡げた詩人は稀であろう。さらには記紀歌謡、風土記、祝詞の世界へ分け入り、古語の復活を果たそうとし、日本の古神道を現代詩によみがえらせようとした。この壮大な試みは病魔のため未完に終わり、昭和十七年に阿佐ヶ谷にて享年57歳で他界した。せめて後10年は生きてほしかった人物である。



 ● 月読(つきよみ)は光澄みつつ戸に坐(ま)せりかく思ふ我や水の如かる
          最後の歌集『黒檜』(昭和15年)より
          参考資料 新潮社刊「新潮日本文学アルバム・北原白秋」

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