有 縁・奇 縁 - 3 - Home



  2013.04.01     6組 榮 憲道

  ♢ 番外編

 ● 古希超えて新たな縁(えにし)つぎつぎとさらに深まる一日(ひとひ)の重み   (憲道)
 
 縁とは不思議なものである。林住期から遊行期への入り口を迎え、エンディングノートで人生を整理するべき日々のはずが、新たな出会いが生まれ、新たな縁が次々と拡がっている。
 今回の高校クラス会開催に尽力した4組の吉田明夫君とは、在学時は全く接点はなく、その後50余年、古希を過ぎてからネット会報《小田高11期ホームページ》を通して一番のメル友となった。そんな縁から、昨年1年間に何と4回も顔を合わせている。

 その彼が箱根湯本で旅館を経営していたころ、この伝肇寺の住職夫妻がお馴染みさんの親しい仲で、逆に招かれて本堂で精進料理を馳走されたこともあったそうである。彼の紹介で伝肇寺と連絡を取ったところ、現在はその娘(浅井皋(こう)月(げつ))さんが後を継いで寺門を守っておられた。昭和の時代には命日にあたる11月2日に《白秋忌》が催されていたようで、今も白秋の縁で訪れる人には、山内を案内、白秋の残した品々を開示したりしているとのことである。そして、みみづく幼稚園の園歌は白秋の「赤い鳥小鳥」であるそうな――。

  小伊勢屋の女将・尾崎尚子さんのことである。
 彼女は大正6年小伊勢屋に生まれた。結婚して家庭を持ったが、長唄、小唄、生花、日本舞踊はもちろん、水墨画、手芸、陶芸、習字さてはバドミントンと多芸多才、進取の気性に富み、そこを見込まれて実家に戻り、激動の昭和の時代に小伊勢屋の屋台骨を背負って歩んできた。夫君は西湘地区の納税貯蓄連合会や小田原市議会の要職を長く務めたが、平成14年に逝去されている。
 
 そんな女将の父親は、名古屋の鉄砲町(中区)の呉服問屋の次男。従って名古屋近辺に親族が多く、私が知り合った渡辺さんは3男の子供に当り、幼いころより尚子さんと親しい間柄であったようである。私が幹事をしている瑞穂区の《歌曲の会》という歌のサークルに入会して親しくなり、今は毎週のように隣り合う仲である。

 そして短歌は、女将が60代から始めた安らぎの場であり、90歳で歌集『折々に』を上梓している。小伊勢屋に伺った折、私が少々短歌をかじっていると知った女将からその本を頂いた。哀歓に富む人生詠や夫君への想いが溢れた相聞歌など心に染み入る歌が多いが、その中から一首、

 ● ほのぼのと老いを忘れて口ずさむ幼に習ひし三味の一ふし
   ~ ~ ~ ~ ~
 名古屋に《中部短歌会》という短歌の結社がある。巨星春日井建氏の道統を継いだ大塚寅彦氏が代表を務め、会員二百数十人を擁する東海地方屈指の短歌の会といって差し支えないであろう。
 私は昨春入会した。入会早々から図々しくも本部例会に参加し歌友の輪が拡がっているが、昨年10月に名古屋で創立90周年の全国大会が開かれ、百三十余人が参加し大盛況であったが、その中に、神奈川県伊勢原市に住む大澤さんという女性が出席、評者の一人を務めた。小田原育ちの私にとっては故郷の短歌の先輩として“お近づき”の挨拶をしたが、何と彼女は小田原城内高校・早稲田大学を出ているという。城内高校は何年か前に小田原高校と合併しており、こちらの方はどうやら私がいくつか先輩ということがわかった。因みに、小伊勢屋の女将、私の姉、伝肇寺の皋(こう)月(げつ)さんも城内高校の出身である。

 その大澤さんは同人誌「中部短歌」のエッセイ欄を担当しており、その折〈小田原と短歌〉に関するエッセイを依頼された。そこで新潮社刊『新潮日本文学アルバム』等を図書館から借り受けて白秋の事績や年譜を調べ、なんとか纏めたわけである。我ながらこんな労作は久し振りで、書き終わった今大きな充足感に浸っている。というわけで、老い人を思いやる大澤さんの一首をもって、この《有縁・奇縁》の終章としたい。

 ● 落雁の蓮花ぽそりと舐めながら此岸の父は昼をたゆたふ

                                   2013年3月記

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