その2 我が音楽史 -1- 「音楽まんだら」
私は小さい頃から音楽は大好きで、ド演歌とハードロックという両極端は別として、多分人には負けないくらいいろんなジャンルの音楽をよく知っている。特に戦後の歌謡曲、ムード音楽、映画音楽、フォークソングなどには詳しい私である。
とはいっても専ら聴く方だけで、白山中学時代、女子合唱部の見事なハーモニーに「すごいなあ。よくこんな素敵な声が出せるなあ」、ただただ会場の隅で見つめるだけであった。一方、学業優秀な男子生徒はこぞって(ややオーバーかな?)吹奏楽部に所属、同じクラスだった私の親友たちも入部していた。よく昼休みには部室の前のたまり場で彼らと日向ぼっこしながら歓談してはいたが、私はテニス部の部長となっていてテニスに熱中、試験中にもラケットを握って顧問の先生に叱られたりしていた。同じ仲間に8組の香川良彦さん(故人)や、高校でも大活躍した6組の高橋龍男さんらがいた。
私の高校時代の〈音楽〉に関する記憶といえば、入学早々、バンカラ応援団に校庭脇の樫林に呼び出され、校歌や寮歌を覚えさせられたことと、たしか二年生のとき、私版小田原高校校歌を作詞・作曲して女先生に披露して褒められた?ことがあったくらいである。もちろんその内容は全く忘却の彼方である。
早稲田大学に入り、部活や稲門会の懇親会などの夜の会合に参加すると、「なにかやれ」と矢の催促。これという特技のない私は困っていたが、二年の暮のNHKの紅白歌合戦のとき、森繁久彌が歌った「知床旅情」がなにかしら私の琴線に触れた。たまたま学友がテープに録っており、それを反復練習して歌ったところそこそこ好評で、それを唯一の持ち歌として会社(日清製油)入社後もなんとかしのいできた。
三十代半ばに大阪に転勤した。北新地のスナックに得意先と出かけた折、止むを得ずムード歌謡やフォークソングを歌ったところ、「榮さん、いけるよ」と店のママに煽てられたのを本気と勘違い、遂にはカラオケ大好き人間になり、定年を迎えた次第である。
私の、最近のカラオケ愛唱歌10曲を挙げてみると、
・海、その愛(加山雄三) ・岬めぐり(山本コウタローとウィークエンド)
・街の灯り(堺正章) ・時は流れても(山本譲二)
・北へ (小林旭) ・そして・・めぐり逢い(五木ひろし)
・恋の町札幌(石原裕次郎) ・もしもピアノが弾けたら(西田敏行)
・雪列車(前川清) ・案山子 (さだまさし)
11期の皆さんの持ち歌はいかがですか? ーつづくー
《余言》
前号のエッセイ「音楽曼荼羅その1、小田高11期の会」では、後半に小田高の音楽仲間のことがかなり載っております。「何であまりよく知らない榮のエッセイに自分の名が載るのか」と不審に思われた“ご本人”もおられたかも知れません。これは、「“彼”の名を載せるのなら、折角だから“彼”の名も載せてくれ」との某氏の希望で増えていってしまいました。エッセイのテーマである「相縁・奇縁」に免じてご了解いただければ幸いです。
ついでに、今号でちょっと触れた中学時代の吹奏樂部の〈私の同じクラスの親友たち〉とはOとIですが、彼らはそれぞれ別の高校に進学し、卒業後証券会社や医薬品会社で活躍いたしました。特にそのIとはずっと親しく、彼の家でよく遊びに行きましたが、何と、私の妹が彼の従兄弟と結婚して親戚になってしまいました。因みに、二組の下赤さんは彼の近所で、幼いころから大変仲がよかったようです。
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