ちょっと発表




  2016.05.28  3組  佐々木 洋

 知っていそうで知らない小田原「ういろう」の巻

 我が家の“座右の薬”

腹が痛いからといって、熱があるからといって、呑まされるのは「ういろう」ばかり。幼少の頃から「ういろう」

は私にとって万能薬でした…と過去形で言うべきではなくて、今もなお、私ばかりか我が家のカミ様、更には、オーストラリアで単身生活している長女や九州に嫁いだ次女にまでわたる我が家の家族メンバーの“座右の薬”となっています。そんなわけで、今回「ういろう」訪問の計画を伝えたところ、すかさず「在庫が切れそうだから買ってきてください」というカミ様からのお告げがありました。


 知っていそうで知らない「ういろう」

 ところで、小田原にはラジオ体操グループ「和みの会」というのがあって、毎週水曜日にはラジオ体操が終わってから朝食会をやっています。そんな朝食会で「ういろう」が話題になることもあるのですが、「ういろう」から僅か50mくらいしか離れていない所で生まれ育ったのに、知っていそうで知っていないことばかり。へえっ、「ういろう博物館」なんてあったんだ!…そんなところから今回の「ういろう」訪問が実現することになりました。


 いきなり “伝統の体感”

 さて、案内役を務めてくださったのは(株)ういろう社長の外郎武さん。博物館は130年前に建てられた古い家蔵を改装したもので、“即物感”という感じで私たちはいきなりレトロな雰囲気に包まれました。これが“伝統の体感”というものでしょうか。


 伝統はアナログで伝えられる

 同じ銀粒の薬剤としては1929年(昭和4年)発売された銀粒仁丹の方が全国区的には遥かに有名ですが、なぜ地方区の「ういろう」が伝統の灯を保ち続けてくることができたのでしょうか。外郎武社長は、展示されている「ういろう」の粒の入った容器を取り上げて「よくご覧になってみてください。粒はまん丸ですか?」と一言。そして、「そうです、工業的に製造しているものは粒がまん丸になっていますが、うちは今でも手作業が基本ですから微妙に歪になっているのです」と付け加えられ、更に「伝統はアナログで伝えられるもの。デジタルな形状は人間の感覚にフィットしないのです。」という傾聴に値する意見を述べられました。このところデジタル漬けになっている日本人も、ここを訪れて、アナログな“伝統の体感”を体験してみる必要がありそうです。


 外郎家の始祖は

 外郎家の始祖は陳延祐という方で、陳氏は支那台州(浙江省)で当時約1,400年続いていた公家なのだそうです。そして、元が明に滅ぼされると二朝に仕えることを恥じて1368年に筑前博多に渡ってきて日本に帰化したというのですから在日歴だけでも約650年。そして「外郎」というのは、元の時代の「礼部員外郎」という役職名に基づくもので、「陳外郎」を苗字として名乗っていたのだとか。因みに、江戸時代の振り仮名では「ういらう」となりますので、店舗の看板などは今でも「ういらう」表記が見られますが、発音は「ういろう」です。


 筑前博多から京都への移転

 そして、マスメディアも何もない時代に、京都から筑前博多の外郎家の持つ医術のレベルの高さに気付いた将軍の足利義満の情報感度の高さには驚くべきところがありますが、恐らくこれは、九州の地から京都に上る旅人がこぞって常備薬として持参し病を癒していた状況を将軍が見聞きしたからこそなのでしょう。そして、この将軍・義満の招きに応じて京に上ったのが二代目は大年宗奇(タイネンソウキ)氏。公家扱いの待遇を受け、幕府傍に邸宅を与えられて、朝廷典医等の公職に就きながら「霊宝丹」(レッポウタン)を作り始めます。そして、朝廷で外国信使の接待役を兼ねていた大年宗奇が、自ら接待に用いる菓子を考案してもてなし、これが評判になったのが「お菓子のういろう」のルーツなのだそうです。


 和製漢字熟語だった「透頂香」」

 霊宝丹」の効能が顕著だったため、皆珍重し服用したため時の帝より賜ったのが「透頂香(トウチンコウ)」という名。現在の「ういろう」のパッケージにも記されている「透頂香」は、てっきり中国伝来の名称だと思っていたのですが、「頂(頭部)を透し香る」という意味を持つ和製漢字熟語だったわけです。しかし、遠く中国、九州、京都の人々から天皇にまでその名が及んだのは、現代の我がファミリーメンバー内“伝播”と全く同じで、「常用される→効能顕著なところが認められる」という情報共有化パターンによるものだったわけです。「宣伝することより伝統を受け継ぐことが大切」と再三口にされていた外郎武社長の仰せの通りだと思いました。


 「北条早雲出陣の図」T シャツの謎

 そして、五代目定治を小田原に招いたのが北條早雲だったんですね。そして、早雲が目指した領民のための国造りに共感して、外郎家が代々秘伝の良薬と菓子を小田原で製造し続けるようになる傍らで、軍師として北条五代の軍略に寄与することまでしたのだそうです。道理で、切り絵作家・百鬼丸の描いた「北条早雲出陣の図」を絵柄にしたTシャツが「ういろう」で売られていて、多くのラジオ体操仲間が着用しているわけがようやく分かりました。私自身もテニスシャツとして愛用しているのですが、わけがわかったついでに色違いを1着追加購入することにしました。


 
東海道筋で最大の宿場町の吸引力

 いずれにしても、「小田原ういろう」は五代目定治が移転してきた永正元年(1504年)がスタートですから日本歴約650年のうち小田原歴が510年あまり。外郎家を京都から小田原に招いた北条早雲の目力もすごいものですが、当時の小田原が都市として京都に伍する力をもっていたからではないかとも思われます。江戸時代の小田原宿箱根口には本陣4、脇陣4の計8 陣あったそうです。名古屋は本陣のみ6陣だったそうですから、東海道筋で最大の宿場町だったとか。天下の剣・箱根山と橋の架かっていない酒匂川に囲まれた小田原は統治戦略的にも重要な地位にあり、後に徳川家康も“最終的防衛拠点”と認めざるを得なかったようです。


 伝統の“堅牢さ”と “美しさ”

 この博物館は、明治18年築のお蔵を利用して平成17年夏に開設されたものだそうですが、如何にも念入りに建てられた跡が見えます。見事に伝統を守りきり、ここだけは関東大震災でも破損しなかったようです。床にも松の板がびっしりと敷き詰められていて、これが“堅牢さ”の一因となっているだけでなく、「踏まれているうちに油がしみ出して艶が出てくるんです」と外郎武社長が嬉しそうに言われていたように“美しさ”も醸し出しているようです。「普通水を入れていないと、タガが緩んでバラバラになってしまうのですが、この水桶だって…」と更に嬉しそうに語られながら携え出された水桶も、現役そのものの堅牢さと美しさを見せていました。ことによると“タガを外さない”ことが“伝統を守る”ことの不可欠条件の一つなのかもしれません。


 “お城のようなういろう店舗”の真実

 外郎社長のご説明によると、かつて私が「さくら狩人・湘南桜錯乱物語 Part 6 小田原城址」で「本町町内にある漢方薬本舗“ういろう城”」と書いた豪壮な建物は“八つ棟造り”なのだそうですが、これも決して目立ちたいという気持ちで建てたのではなくて、500年前に多層旨の屋敷を建て、それが伝統となり今の店舗は江戸時代初期の建屋を再建したものだそうです。私が小さい頃から見ていた店舗は関東大震災の影響を受けた後の“仮の姿”だったようです。往時の小田原宿の絵地図にも、“ういろう店舗城”は目立つ形で描き込まれています。なお、朝廷から家紋として許された「十六の菊の紋章」と「五七の桐」の紋章をつけたこの店舗は八棟造りと呼ばれています。薬の入れ物として売られている「ういろう」入れの印籠に描かれている紋もこの「五七の桐」だったとは全く知らずにおりました。


 本家筋の与り知らぬうちに

 五代目定治は弟に菓子の製法を伝えて小田原にやってきたのですが、その弟は室町幕府とともに兵火にかかり世継ぎもなく断絶してしまったのだそうです。ところが、外郎家に仕えていた職人等により他地方に「お菓子のういろう」が伝えられたのだとか。小さい頃に小田原以外に「ういろう」があることを知ってビックリした「名古屋のういろう」もその一つですが、いわばこれは本家筋の「小田原ういろう」の与り知らぬことなのでしょう。1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通してから、「青柳ういろう」が車内での車内販売をしたことから、「名古屋ういろう」が全国的に知られるようになったのだそうですから、JRのエライさんも、知名度が異常に高くなることがあるのだということを意識しておいてもらわないと困ります。


 京都・遠州との心の通い合い

 一方、日本三代祭りの一つである京都・祇園祭の「山鉾巡行」で登場する蟷螂山にも本家筋が“与り知らなかった”伝統が継承されていたのだそうです。室町時代にこれを考案したのは、外郎家二代目の大年宗奇で、南北朝時代に足利軍と戦った公卿四条隆資の生き様を残そうと、中国の故事にちなんで武勇の象徴・カマキリを御所車に乗せたというのが山鉾・蟷螂山の由来だったのですが、京都を離れた外郎家と蟷螂山との接点が以降長年途絶えていたのだとか。この事実がわかってから2011年には外郎社長が初めて祇園祭に参加するなど交流を持つようになったのだそうです。京都と小田原の間にある遠州森町の山名神社に伝わる天王祭舞楽は八段から構成され、この一つ蟷螂の舞を同地に伝えたのも、当時遠州に出入りしていた外郎家だったのだとか。中世からの縁に感銘を受けた外郎家は現在、森町との交流を深めており、天王祭舞楽を小田原「ういろう」で披露する機会を設けたこともあるそうです。「小田原は京都・遠州と遥か昔から縁があった土地。歴史ある街としての誇りを感じるきっかけとなれば」と語る外郎社長は、ここでも「心と心が通い合ってこそ文化は絶えることなく続いていく」と持論を力説されています。


 歌舞伎十八番「外郎売り」

 ところで、外郎武社長からいただいたお名刺には右のような絵が描かれています。江戸時代に、二代目市川団十郎が、咳と啖の病で台詞が言えず舞台に立てなくなって困っていた時に、「ういろう」を知り服用したところ全快したのに感激して、小田原までお礼に訪れたことに端を発しているのだそうです。外郎家では「宣伝になってしまうから」と固辞したものを、「是非こういう薬が世にあることを知らせたい」という団十郎の強い熱意があったため生まれ引き継がれてきたのが歌舞伎十八番の「外郎売り」で、爾来、代々の市川団十郎が小田原の「ういろう」を訪れてきているとのことです。「別世界の“伝統を守ろう”とする者同士が交流を続けてこられているのはうれしいことです」と語られる外郎武社長のお言葉が身にしみて分かるような気がしました。因みに外郎家では一度も薬を売り歩いたことがないそうです。

 ところが、小田原経由の旅をした人々の間で噂が広まっていて、それが梨園にまで伝わったというのですから、“常連客をもつビジネスの強み”がまざまざと見えるような気がします。

 
「現存する日本最古の薬」とされる「ういろう」の製造現場に脚を運んで感銘を受けた私たち城山中学3年11組クラス会幹事トリオは即座に、10月のクラス会の前座コースとして「ういろう博物館見学」を入れることを決定、クラス会メンバーと感銘をともにすることを決定しました。いずれののうちに小田高11期同窓生の皆さんにもお声をおかけしますので楽しみにしていてください。