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 “お坊ちゃま”の“お坊ちゃま”による “お坊ちゃま”のための日本の政治

2014.06.27 3組 佐々木 洋


“立法も行政もごちゃ混ぜ”が常識に

 マスメディアの報道によると、石破茂自民“党”幹事長は、集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更について「今国会の会期に“閣”議決定する」と息巻いていたそうですね。与党とはいえ、“立法”府である「国会」を構成する一政党の幹部が、“行政”府である「内閣」の行う閣議の予定について口出しするのはヘンだと思うのですが、この点に触れたマスメディア論調にはお目にかかったことがないように思えます。今や「三権分立などというのは中学校で習った“建前”であって、“本音”は“立法も行政もごちゃ混ぜ”なのさ」と言うのが常識として罷り通っているように思えます。国会で行われる党首討論なども、本来なら、「立法にあずかる各政党間の立法方針に関する討議」の機会であるべきなのに、実態は「総理大臣vs野党党首」の“立法も行政もごちゃ混ぜ”論談の場にしかなっていないようです。

そんなに急いでどこへ行く

 集団的自衛権の論議は、特定秘密保護法や国土安全保障会議(日本版NSC)をめぐる動きと軌を一にするものですが、安倍内閣や自民党の動きに一貫して“焦り”が見え、どうして「今でしょ!」なのか私たちには解し難いところがあります。過去における幾つかの例を考え併せると、沖縄における米軍基地再編の問題に関してのアメリカとの密約が背後にある可能性があるようにも思えます。中間選挙を11月に控えたオバマ大統領としては、軍事費の一部を日本に肩代わりさせて危殆に瀕している米国財政再建の一助としようとするところをアメリカ国民の前に示しておく必要があるからです。いずれにしても、国政選挙によって国民から圧倒的な支持を得ていながら国民に真の事情を知らせぬまま事を進めている自民党、及び、その自民党と公明党の連立による安倍内閣のやり方を見ていると、日本古来の支配原理とされる「民は依らしむべし知らしむべからず」がそのまま当てはまるような気がします。このように“立法も行政もごちゃ混ぜ”の状態の中で日本国民は、それと気付くこともないままに、「危険を目前にしながら、動こうとしなかったセオウル号の乗客と同じ状態」(今道周夫兄「セオウル号と日本」http://odako11.net/ippan/imamichi_1.html)に置かれているのではないかと思います。

集団的自衛権行使のその先は

 長い人類の歴史を見渡しても、「我が国は好戦国なり」と名乗って戦争を始めた例はなく、いずれも“やむを得ざる戦争”と称し、それなりの“大義名分”を押し立てて武力行使を始めています。安倍首相が集団的自衛権について口にしている「国民を安全にする」というのもこの類です。しかし、どんな“やむを得ざる事情”があったにしても、いったん集団的自衛権の名のもとに武力を行使すれば、それはそれにとどまらず、必ず相手国の報復を呼んで戦争開始となるのが必定です。ですから、日本が解釈の変更によって実質的に「限定的平和憲法」に“憲法改正”しようとしてもそれは名ばかりで、実質は並みの「戦争許容憲法」と同じことになり、「平和憲法」を掲げる♪世界に一つだけの花♪であった日本は、♪もともと特別なOnly 1♪から、悲惨で愚かな戦争の歴史を繰り返してきた“並みの国”のone of themになり下がってしまうわけです。私が現役サラリーマンだった時に、競合他社がある主力商品の価格を下げてくるという事件がありました。色めき立った事業部長をはじめとした経営管理者たちは、「こちらも価格を下げて対抗しよう」ということで衆議一致しかけていたのですが、「そんなことをしたら相手が更に価格を引き下げてきて全面的な価格戦争になってしまう」というベテラン営業部長の一言で、結局は、直接的な価格競争を避けた別の対応策が取られることになりました。無類の麻雀好きであったベテラン営業部長から、“お坊ちゃま”経営管理者一同が、改めて「相手の動きを読むこと」の大切さを教えられた一幕でした。外交や防衛の問題も、「相手国の出方を読む」が基本になります。外交官登用試験も、言語能力より先ず「麻雀好きかどうか」を選考基準にすべきなのではないかとマジで思っています。

日本版セオウル号の船長は“お坊ちゃま”政治家たち

 「我が国は好戦国なり」と名乗って戦争を始めた例がないのと同じように、「我こそは戦争愛好者なり」と名乗って戦争に踏み切った為政者というのも世界史上に例はないと思います。安倍首相にしても、石破自民党幹事長にしても、心底「国民を安全にする」ことを願って集団的自衛権の行使を考えているに違いありません。しかし、悲しいことに、二人とも他の数多い二世議員たちと同様に、文字通り“お坊ちゃま”で、「相手の動きを読むこと」を知らないなのです。多分、こうした“お坊ちゃま”政治家たちは麻雀をさせたらヘタクソなんでしょうね。「相手の動きを読むこと」ができないというより読もうとしないからです。本来なら、外交や国防といった問題は、「相手の動きを読むこと」が極めて重要な条件になります。集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更がシャカリキになって進められている日本はまさに「日本版セオウル号」といって良いでしょう。そして、その舵を取っている船長が「相手の動きを読むこと」ができない“お坊ちゃま”政治家たちなのだ、そして、いざ日本という船が沈没しそうになった場合には、舵を取っていた責任も、日本国民という乗客を「安全にする」という意識も一切かなぐり捨てて、真っ先に自分たちだけ逃げ出してしまうに違いないということだけは充分意識にとめておく必要がありそうです。

タブーだった平和憲法改憲論

 安倍首相や石破自民党幹事長らの“お坊ちゃま”政治家たちは、生まれ育ちが良いために、召集令状を受けて戦場に送り込まれて、命を失ったり死の恐怖におびえたりした経験をされた方が身内におらず、そのため「戦争」の悲惨さや惨たらしさと「平和」の有り難さが身にしみて分かっていません。ですから、戦争の悲惨さを身にしみて知って戦争に懲り懲りした日本人が、その制定を歓喜して喜んだ平和憲法の有り難さが分かるはずがありません。しかし、“お坊ちゃま”政治家たちは、長年の間「平和憲法改憲」を公に口にすることもできませんでした。公言しようものなら、大方の日本人を敵に回すことになり、自分たちの政治生命が断たれることになってしまうからです。これも、“お坊ちゃま”の石原伸晃環境相が、「金目発言」をして大ヒンシュクをかっていますが、“お坊ちゃま”は“世間知らずの”という枕詞が付くとともに、「人の心を読む」ことができない種族なのですが、当時は平和憲法に寄せる熱い「国民の心」を読まざるを得ない状態だったのです。これは“お坊ちゃま”かどうか分かりませんが、中曽根康弘元首相なども、総理大臣在任中は「改憲」の一言も公言することなく、首相退任後暫くしてから“後出しジャンケン”のような形で「押し付け憲法論」を声高に発するようになっています。これは、いかにも“風見鶏”と評されていた中曽根元首相らしいところですが、当時は「平和憲法護持」論が圧倒的な力を持っていましたので、“改憲”論は数多くの“風見鶏”政治家たちにとってタブーだったのです。

“お坊ちゃま”たちよ、戦場に行きゃれ

 ところが、戦争の凄惨さを自ら体験し尽くしてきた日本国民が高齢化して、次々と世を去られるようになってくるとともに、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という平和憲法の規定がりながら、警察予備隊に端を発し、“戦力なき軍隊”という詭弁を弄して編成された保安隊の流れを継いで、いわば“日蔭者”の存在として出現してきた自演隊がいつしか大手を振って罷り通るようになるにつれて、“世間知らず”で“人の心も相手の出方も読めない”“風見鶏”の“戦争を知らない”“お坊ちゃま”政治家たちが公然と平和憲法“改憲”論を口にし始め、マスメディアもこれを憲法“改正”問題として報ずるようになっています。そして、本来は“お坊ちゃま”とは程遠いはずの日本国民の間でも、マスコミ論調を鵜呑みにして受け売りし、「戦わずして平和を守ることなんかできっこないのにねえ」、「最強の軍事力を備えて外敵に対する強力な抑止力を働かせるしかないのに」、「そうさ、それなのに未だに平和憲法を云々して集団的自衛権の行使に反対しているアホがいるんだから」などという“勇敢な”議論が“戦争を知らない老人たち”の間でさえ飛び交うようになりました。さすがに、ご婦人たちの中には、鋭敏に「集団的自衛権」の先に「戦争」と「徴兵制」があるのを感じて、「我が子や孫を戦場に送りたくない」という切なる思いから、「“お坊ちゃま”政治家たちの顔も見たくない」と思われておられる向きが多く、これが辛うじて平和憲法護憲論が支えられているように思えます。そのため、護憲論を述べることは「女々しいことだ」とさえ言われかねないような状況になっています。“お坊ちゃま”政治家たちが主導してきている路線は、軍拡競争を繰り広げた揚句、「平和のための戦争」を繰り返してきた人類の愚かな歴史に続く道であり、日本が“いつか来た道”を辿ることになるのですが、“お坊ちゃま”政治家たちとマスメディアに洗脳された日本国民は、“先が読めない似非お坊ちゃま”と化してしまっているように思えます。かくなる上は、いざ戦争となった場合には、徴兵制は絶対に布かず、“お坊ちゃま”政治家たちと似非“お坊ちゃま”の係累だけが自衛隊とともに戦場に赴くということを確約してもらうしかありません。決して望ましいことではありませんが、自分自身が戦争の悲惨さを骨身にしみて体験しなければ、「真の平和」の貴重さを分かってもらえないようですので。

少子化担当とは笑止の沙汰

 “お坊ちゃま”コンビが率いる安倍内閣と石破自民党は、どうしてこんなに集団的自衛権行使容認に関する閣議決定に焦っているのかと訝しく思う一面で、“ようやく今頃になって”少子化問題について「骨太の方針」とやらを打ち出してきました。少子化は今になって始まったことではなくて、これに伴って日本に急激な人口減が起こり、経済や社会に致命的な打撃が及ぶということはとっくに、しかも、確実に見通すことができていたはずです。それなのに、歴代の内閣は、“立法府”の特に女性国会議員を “行政府”内閣に議員大臣として起用するだけでことを済ませてきました。しかし、“行政府”に議員大臣の足腰となって少子化問題に関する行政を担当する官僚体制が整っていないのですから、この問題については“立法も行政もごちゃ混ぜ”体制さえできていなかったことになります。「骨太」は「広辞苑」によると、「内容・方針などがしっかりしている様」とあります。ですから、今回安倍内閣が麗々しく「骨太の方針」と銘打ったことは、歴代内閣が少子化担当大臣を任命してきたのは、“内容・方針などがしっかりしていない”単なる人気取りの“笑止”の沙汰であったということを白状したのに過ぎません。東京都議会で鈴木章浩自民党議員が、少子化対策の必要性を訴えている女性議員に対して「セクハラヤジ」を飛ばしたのも、自民党が少子化問題に対して本気になって取り組んできていないことを端的に示しています。そもそも「少子化担当大臣」という名前がヘンじゃありませんか。これでは「少子化の促進を担当する大臣」としか受け取られません。「少子化阻止対策担当大臣」か、せめて「少子化問題担当大臣」にしなくちゃ。しかし、歴代の内閣が少子化阻止対策行政の手を打つことができず、無為のまま過ごしている間にも少子化現象が更に進んできたのですから、歴代の“客寄せパンダ”与党女性議員たちは、結果的に、その名の通り「少子化の促進を担当する大臣」の役割を果たしてきたとも言えそうです。

特定秘密保護法は「内閣大臣による立法」

 “客寄せパンダ”与党女性議員大臣の一人である森雅子さんが少子化担当大臣と特定秘密保護法担当大臣を兼務したのもヘンでしたね。「国会」内の自民党に立法能力のある議員がいないために、国会から「内閣」に大臣として送りだされた森雅子さんが、その弁護士としての豊富な経験を買われて、特定秘密保護法の“立法” を担当させられる羽目になったのですから、“立法も行政もごちゃ混ぜ”の最たるものと言えるのではないでしょうか。しかし、こんなヘンな現象について物言いを付けるマスメディアもなく、国会の野党議員たちも「我らこそ立法府の要」という自負を捨てたかのように「内閣による立法」を黙認して看過しているように見えました。もともと日本の国会議員には立法能力がなく、本来ならごく当たり前の「議員立法」が逆に珍しいこととして取り沙汰されるほどで、内閣からの法案提出によるところが大きいのですが、「内閣大臣による立法」という“見え過ぎ過ぎる”例は他に余り例がないのではないでしょうか。森雅子さん自体には、我が家の“カミ様”と同窓の磐城女子高校(愛称:バン女/現在は、いわき桜丘高校)出身なので採点が甘くて言うのではありませんが、訳知りの身で、“お坊ちゃま”内閣のもと“立法も行政もごちゃ混ぜ”の“笑止”千万な役を演じさせられて、さぞや胸中は、同姓同名に近い森昌子の「越冬燕」の♪ヒューヒューリララ♪の心境ではなかったのではないかと察しています。しかし、森雅子さんも、“お坊ちゃま”内閣の緊急課題である特定秘密保護法の「立法」にかまけて少子化対策「行政」については無策を通してきていますので、結果的には、歴代の大臣と同様な「少子化の促進を担当する」役割を“立派に”果たしてきているということになります。

「違憲立法審査権」の発動に期待

 このように、“立法も行政もごちゃ混ぜ” で特定秘密保護法が制定され、次いで、「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と“絶対平和”を謳う平和憲法を、“やむを得ざる武力行使”を容認する憲法に“改憲”しようとする救いようのない政治状況ですが、幸い日本には三権分立を担保する仕組みの一つとして「違憲立法審査権」があり、立法機関である国会が定める法律が憲法に違反していないか審査する権限が司法機関である最高裁判所に対して与えられています。あいにく「違憲行政審査権」というのはないようですが、“立法も行政もごちゃ混ぜ”で、絶対不戦を謳う「平和憲法」の解釈を閣議決定することによって、“やむを得ない場合には戦闘を行う”ことを盛り込んだ「限定的平和憲法」を、内閣が実質的に“立法”するような場合には、“憲法の番人”として最高裁判所が、内閣に対して「違憲立法審査権」を発動させることにならなければならないはずです。“お坊ちゃま”のお代官様や政商たちだけが性急に謀議を企てているなかで、「知らしむべからず」と遠ざけられている“民”の味方になってくれるのは、やはりお奉行様の“お裁き”しかないのですから、“現代版大岡越前”の出現を切望して、最高裁判所に対して盛大なエールを送ろうではありませんか。

警察がいれば軍隊は要らない

 最高裁判所は、これまで一貫して、自衛隊が合憲か違憲かどうかについての直接的な判断を避け続けてきています。自衛隊の運用次第という面があって、「日本国民の命と財産と国土を守る」ための“専守防衛”にとどまる限り、実質的には「警察行為」としてみなされるからだと思います。尖閣列島も、日本が「警察行為」を担う最上保安庁が対処していることを知っているからこそ中国側も中国海警の出動で済ませているのですが、“お坊ちゃま”首相が一時口にしていたように、“軍服”を着た自衛隊を常駐させるようになったら「軍事行動」とみなされ、中国側も中国海軍出動となること必定です。「ごめんで済めば警察は要らない」なのでしょうが「警察がいれば軍隊は要らない」のであって、「警察行為」の遂行上、正当防衛と緊急避難のために必要な戦力を海上自衛隊から海上保安庁に移譲すればことが済むはずです。ついでに、“戦争の場面でしか正当化されることのない殺し合いや傷つけあい”をすることが嫌いな海上自衛隊の皆さんも、“軍服”をかなぐり捨てて海上保安庁に身を投じ「警察」の仲間入りをしたら如何ですか。“立法も行政もごちゃ混ぜ”の上、“軍事も警察もごちゃ混ぜ”の“お坊ちゃま”政治家たちが、決して「相手国の動きを読める」人でも自衛隊の皆さんの「心を読める人」でもないということを肝に銘じて、ご自分の身を律するようお勧めします。

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